39
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「……目の上か。相当深く切ってるな」
綱手はそう言って、やれやれと大きなため息をついた。
「転んだ相手のハードルが顔面に直撃だなんて運がないねぇ。まぁ眼球に傷がつかなかっただけ不幸中の幸いだな。下手すりゃ失明ものだぞ」
最後のハードル。オイラの忠告を聞いた美羽は飛び越える前に減速をし、皆より少し遅れていた。安全のために致し方なく取った策。しかしそれが仇となるとは。
通常のスピードで突っ込んでいった女子が転び、足に引っかかったハードルが半歩遅れて後ろにいた美羽の顔面に直撃。防ぎようがない、不運な事故だった。
左瞼を青紫色に膨らませた美羽は、椅子に腰掛けぼんやりしている。反して隣にいる彼女のナイトは、腕を組みながら忙しなく指を小刻みに揺らし落ち着かない様子だ。
「で。この傷は治るんだよな?」
「これだけ深く切っていれば少なくとも縫合必須だろう。綺麗さっぱりとはいかんかもしれないなぁ」
絶望、という表現が似合った顔で旦那は顔を歪ませている。大事な彼女の顔に一生物の傷が残るという事実を到底受け入れられないようだ。
当事者である美羽は至って冷静で、小さな声で『大丈夫だよ』と言った。
『こんな地味な顔に傷の一つや二つあったって誰も気にしないって』
「は?お前はまたなんでそういう風に……」
「旦那。一番傷ついてるのは美羽だから。辞めとけ」
つい声を荒げて、しかし彼女を責めるのは筋違いだということにすぐ気づいたようだ。旦那は顔を背けて気まずそうにしている。
「ごめん。オイラが余計なこと言ったせいだ」
『違うよ。デイダラのせいじゃない。というか誰のせいでもないから』
「………」
『見た目はアレかもだけど、そんなに痛くないの。だから平気。驚かせてごめんなさい』
皆の心情を察して、一番辛いはずの美羽が一人明るく笑っている。
しかし場の空気は相変わらず重苦しいままだ。
「今はアドレナリンが出ているから痛みを感じないだけ。お前は一刻も早く医者に行って治療を受けるべきだ。シズネ、車の手配をしろ」
「はい!」
綱手の言葉に、美羽の顔がそこで初めて人間らしく強張る。
『私、最後のリレーに出るんです。それが終わってからじゃダメですか?』
「リレーって……お前、どう考えてもそれどころじゃないだろう」
『でも、』
「残念だが棄権しろ」
キケン……?と美羽が呆然と呟いた。
『でもっ…他に代わりもいなくて。私が出ないとうちのクラスはリレーに参加できません』
「状況が状況だ。致し方ないだろう。大怪我している生徒をそのまま出場させる馬鹿な教師はこの学校に存在しない」
美羽が縋るような視線を担任であるマダラに向ける。今まで静観を貫いていたマダラが初めて口を開いた。
「……。美羽。お前、父母は?」
『父は仕事です。母は……気分屋なので来てないかも』
「とりあえず父母に連絡。その後直ぐ病院だな。照美、土曜日やっている形成外科を早急に調べてくれ」
『マダラ先生、待ってください』
「早瀬、一年の方はどうだ?」
「七菜香は幸いにも擦り傷だけで、特別な治療は必要ないと思います。……重症なのは月野さんだけかと」
『私だって別に大したことないよ!』
「ごめんね、月野さん。僕たちにはとてもそうは思えないんだ。無理しなくていいから、早く病院に行こう」
「後のことはどうにかする。お前は何も心配せず病院に行け」
旦那が美羽の目の前に屈み、膝の上で固く握り締められた拳にそっと手を置いた。
その様は恋人というより、長く生活を共にして来た親子のようだ。
「体育祭は来年もある。今回は諦めろ」
『………』
「お前の気持ちは痛いほどわかる。だけどごめん、オレはこの状況でお前のことをこれ以上応援できない」
美羽は何か言おうとして、しかし旦那を目の前にして何も言えなくなってしまったようだ。
美羽はいつも過剰すぎるほど他人の顔色を窺っている。皆が自分を思って出場を止めてくれている今、彼女はもう何も言うことができない。それが例え、彼女の望むことではなかったとしても。
ーーーこの最悪な状況をひっくり返す救世主は、そう簡単に現れやしない。
美羽は前を向いている。いつもそうだ。どんなに絶望的な状況の中でも、彼女は決して下を向かない。その希望を辿るような視線を追い、オイラは妙な焦燥感に身を震わせた。
突如現れた男は無言のまま、指を二本突き立てる。
「これは何本?」
『え……2本』
「これは?」
『4本』
「これ」
『1』
男は表情を崩さないまま視力は問題ないな、と呟いた。
「次。腕伸ばせ」
『え。……はい』
「屈伸」
『なんで?』
「文句言うな」
『はい……』
美羽はリードに繋がれた犬の如く、言われるがままに身体を動かしている。早瀬が困惑した様子で、ちょっと、と間に割って入った。
「無理させんなよ。怪我人だぞ」
「体温、心拍数呼吸数、身体機能異常なし。出血も止まってる。顔に怪我したからって大袈裟すぎ。うちのボスならこれくらい構わず試合継続だぞ」
男……シーは面倒そうに喋りながらも忙しなく視線を動かし、美羽の全身を抜け目なく確認しているようだ。
「…額の傷と軽い擦過傷か。あの事故レベルで考えるとそう悪くない結果だろ」
一通り美羽の身体の動作チェックを終えたシーは、顎に指を当て平然と言った。
「で?お前はどうしたいんだ」
『え……』
一筋の光明が差したように、今まで生気の無かった美羽の頬に赤みが混じる。シーは変わらぬ温度のない顔で続けた。
「学校側は責任取りたくないから、止めるしかないんだよ。しかしそれに明確な権限はない。お前が出たいと主張すればお前の意思が尊重される。それを否定することは誰にもできない」
『……』
「要は自己責任だ。その怪我が悪化しようが何しようが、自分で責任を持てるならお前は棄権する必要はない」
『……』
「まぁ、早めに医者に行った方がいいってのは事実なんだが。これからどうするのか、お前自身が決めろ」
随分横暴だな、と旦那は面白くなさそうに言った。
「コイツのこの顔の傷を見て、何故そんな軽率なことが言える?」
「傷の縫合のゴールデンタイムは6〜8時間以内だ。リレーが終わってから医者に行っても十分間に合うだろう」
「だとしてもだ。無理させてこれ以上傷口が開いたらどうしてくれるんだよ」
「それはお気に入りの人形をこれ以上汚したくないっていうお前のエゴだろ」
「……は?」
「目の前にいるのは意思を持った一人の人間だ。コイツはお前の思う通りに動く人形じゃないんだよ。天才のくせにそんなこともわからないのか?」
旦那の手がシーの胸ぐらに伸びる。止めに入ったのはオイラと早瀬同時だった。
「テメェだって美羽を使ってその怪我の憂さ晴らしをしたいだけだろ。まさか復讐のつもりか?」
「見当違いも甚だしいな。オレはそんなつまらない事をやるほど暇じゃない」
「…じゃあなんだって言うんだよ。本当はオレだって出してやりたいに決まってる。でもコイツの身体を思ったら止めるしかないだろ」
「だからそれがお前のエゴだっつってんだよ」
「まぁまぁ…落ち着けって、うん」
「シーも、煽るな」
旦那は殺気を込めた目でシーを睨んでいる。
それに怯むことなく、シーは相変わらず無の表情だ。
「オレたちは天才じゃない。死ぬほど努力したところでお前のような天才の足元にも及ばないって、もう嫌というほどわかってんだよ」
「………」
「でも、それでもコイツは自分の意思で今日まで努力してきたんだ。お前もあの血の滲むようなコイツの努力を見てきただろう。その努力は、第三者が勝手に切り捨てていいもんじゃない」
シーは包帯の巻かれた右手で、旦那の胸ぐらを思い切り掴み返した。
冷静沈着を絵に描いたような男の顔が、初めて感情的に歪んでいる。
「…どちらにしろ、一生残る傷だ。その傷の背負い方くらい、本人に決めさせてやれ」
旦那は何も言わなかった。相変わらず厳しい表情で、しかし先程のように殺気立ってはいないように思える。
それはーー隣にいる彼女の答えを、聞かずとも旦那は知っていたからだろう。