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体はボロボロで痛いところばかりだけれど、気分は最高。向かう所敵なし、今の私は最強。
足取り軽くサッカー部の部室に向かう。いつものように部室のドアノブに手をかけた。最初はあんなに緊張していたのに、今や慣れたものである。あまりに慣れ過ぎて、私は扉をノックするのをついうっかり忘れてしまっていた。
……そしてそれをすぐに後悔することになる。
立ち尽くしている私に、振り返る彼女。熱を帯びた瞳の興が冷める。と同時に私の体温も一気に冷え上がった。
彼女はその場にさっと立ち上がり乱れた制服を整えている。
「またね、シー先輩」
シーくんに柔かに笑んでから振り返った彼女の形相は、まさに般若そのものである。扉に張り付いて道を譲る私を一瞥して、彼女は何も言わずにその場を去っていった。
立ち尽くしている私の数歩前で、シーくんがのろのろと身体を起こしている。
「ノックくらいしろよ、お前」
『ご、ごめんなさい…』
如何わしいシーンを見られたくせに、シーくんはいつも通り冷静だった。乱れた制服をそのまま脱ぎ、何事も無いようにジャージに着替えている。
反して私はなかなか冷静になれず立ち尽くしていた。先程の冷えた瞳が数日前の光景と重なる。
『あのー…』
「あ?」
『今のってマネージャーの子よね?あの子早瀬くんのこと好きなんじゃないっけ…?』
ああ、とシーくんが相槌を打った。
「千秋に相手して貰えないから仕方なくオレのところに来たんだろ」
『は…?なにそれ。そんな理由で…?』
「女なんてそんなもんだろ」
シーくんは簡単に言うけれど、納得できなかった。だってそんなの、早瀬くんにもシーくんにも失礼ではないだろうか。
「…なんだよ」
不服そうな私の態度に気づいたのか、シーくんは面倒くさそうに顔を歪めている。私はシーくんに歩み寄り、ハンカチを手渡した。
『口拭いて』
「は…?何故」
『なんかああいうの嫌なの』
シーくんはじっと私を見た後、意外にもあっさり私のハンカチを受け取って口を拭っている。
「何そんなに怒ってんの?」
『別に怒ってない。気分悪いってだけ』
「それを怒ってるっていうんだろうが」
『だって……』
「……。別にオレはしたくてしてたわけじゃねぇから。急に押し倒されたから抵抗できなかっただけだ。右手使えねぇし」
言われて気づいた。シーくんの顔色が微妙に良くない。顔を歪めていたのは不機嫌ではなく、気分が悪かったのだろう。
目の前の刺激的なシーンに単純に引いてしまったけれども、考えてみれば、好きではない人間からそういうことを一方的にされるのは男であれ女であれ嫌なことなのだろう。
ハンカチを受け取りながら、妙な焦燥感に襲われる。シーくんを責めようとしていた自分が単純に恥ずかしい。
『…ごめん。大丈夫?』
「平気。早くストレッチ始めろよ」
シーくんがくるっと私に背を向けてしまう。色々思うところはあれど、踏み込んで何か声をかけられるほど仲がいいわけでもない。
少し悩んで、私は部室を抜け出した。シーくんは気づいているのかいないのか何も言わない。
部室近くの自販機に走り、ポカリスエットとお茶を一本買った。そのまま部室に戻れば、部屋の隅でシーくんが黙々とストレッチをしている。こんな時にも彼はどこまでも真面目である。
シーくんの隣に腰を落とす。体を伸ばしながらシーくんが少し驚いた様子で私を見た。
『ポカリとお茶どっちがいい?』
「…コーラがいい」
『はい、ポカリね』
無理矢理手渡せば、シーくんが今日初めて頬の緊張を緩めた。
「今日は妙に優しいな」
『病人には優しくするものでしょ』
「別に病人じゃねぇし」
そういえばシーくんは右手を使えないんだった。蓋くらい開けてあげないと、と思った時には既にシーくんは左手で器用にペットボトルの蓋を開けている。骨折してそこまで日は立っていないのに器用である。
「何をそんなに気にしてんのか知らないが、別に平気なんだけど」
『男の子の言う”平気”ほど信用できないものはないって学校で習ったでしょ』
「なんだそれ。習ってねーよ」
あの日、ご両親のことで精神的におかしくなったサソリと同じ顔をしていた。そんな顔を見せられてしまったら放って置けるわけがない。
『今、貴方はきっとしんどいんでしょ。辛い時は無理しなくていいよ』
「……」
シーくんはぐびっと喉を鳴らした。
「辛い、とはまた違うな。どちらかと言うと…またか。みたいな情けない感情が近い」
『……』
「ガキの頃からずっと比べられてきたし。オレはいつも千秋の二番手だから。もう慣れたはずなんだけどな」
シーくんが部室の窓から眩しそうに外を眺める。
サッカー部員の声が遠巻きに聞こえた。
「オレがいなくてもこの部は回るが、アイツがいなきゃこの部は回らない」
『……』
「そんな当たり前のことを考えるたびに自分が情けなくて仕方なくなるんだよ。千秋が悪いわけじゃない。完全にオレの実力不足だ。だからこそ虚しい」
薄々察していたけれども、シーくんは早瀬くんにコンプレックスのようなものを感じているようだ。確かに早瀬くんは色々と秀でている人である。ずっと隣にいれば劣等感を感じてしまうのもわからなくはない。
でも、私から見たらシーくんだって物凄い人間である。
『早瀬くんがいてもいなくても、シーくんは素敵よ』
「……」
『私、シーくんほどの努力家他に見たことないもん。努力できるのも才能なんだよ』
毎朝誰よりも早く練習に来ていることも、口が悪くても心は優しいことも私はもう知っている。
私のせいで大好きなサッカーができなくなったのに、それに関して一度も私を責めようとはしないシーくん。
最初の印象は最悪だったけれども、今ならわかる。彼は全然悪い人じゃない。
シーくんは無表情で外を眺めている。暫く無言が続いた後、彼は私に視線を移し、右肩にそっと手を置いた。
シーくんの端正な顔が、私の瞳をじっと覗き込んでいる。ドキッ、心臓が強く脈を打った。
「姫ちゃん」とシーくんの唇が動く。心臓の鼓動がさらに激しくなる。
「さっきから、首筋にキスマークついてるの見えてんだけど」
キスマー…ク?一瞬固まり、しかし直ぐに慌てて首筋を押さえた。先程ポニーテールにまとめた髪は、私の首からうなじを全く隠していない。
『つ、ついてる?』
「だから見えてるって」
『え、うそ!目立つ!?』
「めちゃくちゃ目立つ」
サソリめ!跡つけられてるなんて聞いてない。なんで今日に限って、というか絶対わざとでしょあの人!
シーくんがあの日と変わらぬ軽蔑した目で私を見下げている。
「ほんと節操ないな。校内でヤるなよビッチ」
『ちがッ…いつもはちゃんと家でしてるんだよ!?でもあるじゃん!?時には盛り上がってしまう日というものが…ッ』
「知らねーよ。どうでもいいけどとりあえず髪下ろせば?」
言われて、慌てて髪のバレッタを外す。首筋が隠れたことにとりあえず安心した。
すっかり普段の調子を取り戻したシーくんがいつも通りの冷たい目で私を見さげている。
「ぐだぐだしてねーで早くストレッチやれ。体育祭まで時間ねぇぞ」
『う…はい。そうですね』
シーくんは飲み終わったペットボトルを私の頭の上に置いた。とりあえず捨てて来ようと腰を上げる。
「姫ちゃん」
ドアノブに手をかけた時、シーくんに呼び止められた。振り返ると、シーくんは既にストレッチを始めてこちらを見ていない。
「……サンキューな」
ボソッと呟かれたその言葉が妙に嬉しくて、私は笑顔を隠さないまま扉を押し開ける。
『どういたしまして。次買ってくる時はコーラにするね』
「……」
シーくんはこれまた小さな声で「おう」と答えた。