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授業開始10分前。自主練に励んでいた部員の数も大分少なくなってきた。
「千秋。そろそろ戻らねーと遅刻すんぞ」
ギリギリまでボールを触っている僕に声を掛けてきたのはダルイである。生返事をしてボールを足で蹴り上げた。楕円を描いてボール入れにすとんと落ちる。それを見届けた後、ダルイは籠を倉庫に押し込んだ。ガチャンと扉の閉まる音。
「機嫌悪いねぇ」
「あ?別に悪くねぇよ」
「シーに取られちゃったもんね、月野さん」
その物言いにムッとする。取られてないし、悲しいけれど元から僕のものでもない。
「いいんだよ。月野さんは僕に練習を見てもらいたかったというわけじゃないし」
「珍しく卑屈だな」
「卑屈なわけじゃなくて事実なの」
好きだからこそ見ていてわかる。月野さんは本当に全く、これっぽっちも僕のことを恋愛対象として見ていない。今まで散々女の子にはモテてきたはずなのに。肝心の彼女にだけはどうしても、男としては好いてもらえない。その変えられない事実にふとした瞬間に苦しくなる時があった。
諦めた方がどう考えても楽だ。しかし僕の目はいつだって彼女を探してしまう。この恋心はまだまだ収束する気配がないし、収束させる方法もわからない。
しかし、だ。第三者に不機嫌が気づかれてしまうのはどう考えても僕に問題がある。
汗を拭いながら僕はダルイに悪い、と言った。
「態度に出てたなら申し訳なかった。次から気をつける」
「いんや。他の部員は気付いてねーよ。それくらいお前はいつも完璧」
「……」
「だからこそ怖いの」
ダルイはへらっと笑った。
「時には感情を爆発させるのも必要だと思うよ。お前はいつも穏やか過ぎて怖い」
僕はそっと右手を擦った。拳に残るあの時の痛み。人を殴ろうと思ったのも、実際殴ったのもあの時が人生で初めてだ。恋心とは末恐ろしい。
「限界が来たら普通にキレるよ。別に普段から我慢してるわけじゃないから」
「その限界が来るのが怖いって言ってんだよ」
「少なくともお前はトリガーにはなり得ないから安心しろよ」
それ全然安心できねーよ。そう独りごちたダルイを無視して足を進める。
ベンチ横を通り過ぎた時、今度は目の前から歩いてきた部員に呼び止められた。ひとつ下の後輩、オモイである。
「先輩!ちょうどよかった」
「なんだよ。早く戻らないと間に合わねーぞ」
「そうなんですけど…」
オモイが神妙な面持ちをしている。
「今…部室の鍵を閉めに行ったんですけど……中から人の声が聞こえて…」
「人の声?」
反応したのはダルイだ。オモイは顎を擦りながら首肯した。
「だからなんだよ。誰か残ってんじゃねーの?」
「いや…それがその…その声が…」
「?」
「……完全にアレな声なんですよね」
「アレ?」
一段声を低くしてオモイは口を動かした。続いて出てきた単語に僕とダルイは顔を見合わせる。
サッカー部の部室は使える人間がかなり限定されている。要はレギュラーだけだ。その中の誰かが部室で?万が一コーチにバレたら一発で退部だ。
「勘違いじゃねぇの?流石にそんな馬鹿いねぇだろ」
「いや…でも間違いなく聞こえるんスよ…」
少し考え、僕は部室に向かって歩き出した。ダルイオモイもそれに続く。
「見に行くのか?」
「マジだったら流石に注意しないといけないだろ」
部室前にたどり着き、三人で息を殺して聞き耳を立てる。しかし中から物音は聞こえない。直ぐにダルイが身を引いた。
「何も聞こえねぇじゃん」
「残念。もう終わっちゃったのかな?」
「えー…つまんねぇ」
「お前ら期待してんじゃないよ…」
壁にへばりつきながら僕とオモイは注意深く中の様子を伺い続ける。
「他人の生のセックスって見てみたくない?」
「こんな機会滅多にないッスよ?」
「んなこといってもこの様子じゃ誰も、」
『…っ、はぁッ』
ギョッとして三人で顔を見合わせる。オモイが両手で口を押さえながら興奮した面持ちで耳を扉に押し付けた。
「ほらほらほら!聞きました!?淫らな女子の声!」
「まじか!?まじでヤッてんの?」
「……」
確かに艶かしい女子の吐息が聞こえた。これに興奮しない思春期男子がいるはずがない。
「誰っすかね?こんな朝っぱらから」
「どうにかして見えねーかな…」
「……」
扉にへばりついて離れない僕たちを尻目に、ダルイは少し距離を取って首筋をかいている。
「興奮してるとこ悪いんだけどさ」
「なんだよ。今いいとこなんだよ」
「中にいるのって月野さんとシーじゃないの?」
その言葉を理解するのには若干の時間を要した。
月野さんとシー?今、この部室の中にいるのが?それってつまり…
「っはぁ!?っぶっ」
「黙ってください今いいところなんで!」
オモイに口元を押さえつけられる。
ダルイは呆れ顔で僕たちを眺めながら続けた。
「あの二人今日グラウンドにいなかったじゃん」
呆然とする僕。オモイは相変わらず聞き耳を立てながら鼻息を荒くしている。
「シー先輩と月野先輩ってそういう関係だったんスか?確かに珍しくシー先輩と仲良さそうな女子ではありましたけどね」
嘘だろ?月野さん。僕のことを男として見ていないどころか、僕をすっ飛ばしてシーと浮気関係にあるなんて流石に信じたくない。
しかし無常にも中の二人の艶めかしい男女の声が僕の鼓膜を刺激する。
「力抜け」
『いっ…痛い…ッ』
「我慢しろ。慣れれば痛くなくなる」
「ホラ」
「……」
確かに完全にあの二人の声で間違い無い。しかも”痛い”って。本当に両者同意の上か?まさか無理矢理ヤってるんじゃないだろうな。
扉に耳を押し付けながら僕は壁をぶん殴りたくなる衝動を必死に堪えた。
「羨ましいいいいい…」
「おー…正直さんだね」
「だってそんなッ…アイツまじ…くっそ……あとで詳しく感想聞かねーと…」
「…お前ら何してんの?」
その時である。ギョッとして振り返るとそこにはポケットに手を突っ込みながら気怠げな瞳で僕たちを見ている赤髪の男の姿。頭に上った血液が一気に足先に向かって引いていく。
「…ッ、なんでここに?」
「戻ってくるのが遅いから迎えにきたんだよ。…で?美羽は?」
赤砂の視線が部室に移る。まずい、何故か僕が慌てる。
「いや、待て。今はまずい」
「は?」
「ちょっと今はタイミングが…いいんだが悪いんだか」
「……」
しどろもどろになっている僕を不審そうに一瞥した後、赤砂が僕たちを無視して部室の扉に手をかけた。重い扉が躊躇なく開かれる。ムッとした空気が外に向かって駆け出した。この先にあるのは、修羅場ーーー
『もう無理っ…もう無理です…ッ』
「お前硬すぎ。ほらもう一回」
『っあー!!痛い痛い痛い痛い!!!!』
……では、なかった。
そこにあった光景は僕たちが期待したものではなく、前屈をしている月野さんの上にシーがのしかかっている姿だった。月野さんは苦しいのか開いた足を引き攣らせながら半泣きで顔を真っ赤にしている。その姿はそれはそれで艶めかしいが、それはあくまで僕個人の趣味の話である。
「…あれ。お前らいたのか。もうそんな時間?」
シーが僕たちの存在に気がつき、壁の時計を確認している。そして月野さんの背中から体重を逃した。
「今回はこれまでだな。やり切らなかった分は昼休みやれよ」
『…っはぁ、はぁっ…』
解放された月野さんはそのままその場にへたり込んでいる。体操服が汗でぐっしょりだ。
流石シーである。こんなに可愛い女の子に対して全く容赦がない。
赤砂が月野さんに近づき腰を落とした。
「…大丈夫か?迎えに来たぞ」
『…無理…暫く動けない…』
まさに産まれたての小鹿状態の月野さん。僕は呆れながら涼しい顔で帰り支度をしているシーを睨んだ。
「お前…少しは加減してやれよ」
「したっつーの。部のトレーニング量の三分の一以下だぞ。それについてこられないなら単なるこの女の怠惰」
バサッと切り捨てるシー。月野さんは体を引き攣らせながらもへらっと力なく笑った。
『早瀬くんありがとう。でもついていけない私が悪いだけだから大丈夫』
とても大丈夫そうには見えないのに、月野さんは何故かにこにこしている。彼女は前からこういうところがある。
赤砂も、複雑そうな表情をしながらも何も言わなかった。思うところは沢山あれど、彼女の意思を尊重するつもりなのだろう。昔のようにあれやこれや口を出してこないところを見ると、彼は彼なりに心境の変化があるのかもしれない。
赤砂でさえ何も言わないなら、僕が言えることなんてもう何もない。
シーは一人でさっさと部室を出て行った。アフターフォローまで手掛ける気は全くないようだ。アイツらしいといえばアイツらしい。
今度はダルイが月野さんに近づき、持っていたタオルをふわっと頭にかけた。
「うちのが容赦なくて悪いね。マッサージしてあげるから足出して」
『え…そんな、いいよ。もう授業始まっちゃうし』
「いいからいいから。オモイ。ポカリ買ってきてやって」
「了解っス」
ビシッと敬礼をしてオモイが部室を後にした。ダルイもオモイも基本的には面倒見がいい。あまり親しいとは言えない仲の月野さんに対しても懇切丁寧である。
ダルイは月野さんの脚を触りながら顔を顰めた。
「…相当張ってるね。きつかったでしょ。本当ごめんね」
『覚悟してたんだけどね。日頃の運動不足を痛感したよ…』
タオルで汗を拭いながら力なく笑う月野さん。赤砂がチラッとダルイを見た。
「こんなに急激に筋肉に負荷をかけて大丈夫なものなのか?」
「うーん。メニュー見る限りはそこまで無理のあるレシピとは言えないな。シーもちゃんと考えてはいるみたいよ」
「……」
「筋肉って破壊と再生を繰り返して強くなるから。破壊されてる最中はどうやったって辛いもんよ」
赤砂は小さくそうか、と呟いた。不満ではあるものの、理論的な説明に納得したようである。
月野さんは大丈夫よ、と努めて明るく振る舞っている。
『慣れるまでの我慢だってシーくんも言ってたから。頑張る』
「…どうせ止めても聞かねぇからな、お前は」
『よくわかってるね』
月野さんはにこにこ笑いながら、自分に言い聞かせるようにもう一度『大丈夫』と呟いた。