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賑やかな通りを外れ、人気のない小道へ。美羽の瞳が、少しだけ不安に揺れる。美羽にとって、人気の無い道は恐怖対象なのかもしれない。別に襲わねぇから、と言葉をかけてやればうん、と短い返答。そのリアクションを見て、怖いわけではなくどこに行くのか察したのかもしれないと気付いた。相変わらず妙なところで勘の鋭い女である。
『ねぇ』
「あ?」
『お花は?』
ああ、とオレは呟いた。と同時にやはり気づかれていると確信する。
「生花は管理が大変だからな。月一行くなら良くても、オレは年一しか行かねぇから造花にしてる」
美羽は何も言わなかった。軽蔑されているのかもしれない。
そりゃそうか。年に一回しか顔を出さないなんて、順風な家庭で育った美羽からしたら到底理解できない事象だろう。
あの日から何年経ったか、と考えなくてもわかる問を自分に投げかけた。あの日から今日で丁度10年目。
忘れたと言える日を願いながら、しかしそんな日は今も、これからもきっと来ない。
暑い夏は嫌いだ。でも夏の終わりはもっと嫌いだった。
大事な人を失って独り残された悲しみと、恐怖と、憎悪。それを鮮明に思い出すから。ずっと傍にいるからね、と言いながらあっさりこの世を去った母親のことを、思い出すから。
美羽の足取りが明らかに重くなっている。帰るか?と聞けば、首を横に振った。いつもの義務感だ。帰りたくなったら帰っていいから、と突き放す。しかし美羽はオレの手を離さなかった。
入口石の前を通り、バケツに水を汲む。美羽はそこでやっとオレの手を離し、ブラシとタオルを手に取っている。どうやら手伝うつもりらしい。
「お前やったことある?」
『小さい頃に少しね。でも、うち両親親戚付き合いほぼなくて。あまり機会は無かったけど』
そういえば、美羽の両親は美羽を孕んだ時に絶縁されているとマダラが言っていた。
無言でいるオレに何か不安を感じたのか、大丈夫、と美羽は言った。
『邪魔はしないから』
バケツを持って、白い道を歩く。じゃりじゃりと足元の石が音を鳴らしている。そういえば美羽はヒールだったな、と振り返れば、予想通り石に足を取られていた。戻って、手を差し出す。美羽はまた驚いたようにありがとう、と言った。再び繋いだ手が、暖かかった。
墓所に足を踏み入れる。律儀に入っていい?と聞く彼女にどうぞ、と答える。
一年ぶりに見る両親の墓は代わり映えしていなかった。まあ、変わる方がおかしいが。オレが管理しようがしまいが大して変わらない。だからこそ、足が遠のいている。
オレが墓を磨いている間、美羽は草むしりをしていた。ここで唯一生きているのは緑だけだ。他は全部死んでいる。子供に雑に扱われたくないなら、両親は生きていることが必要最低限の条件なのだと何度思ったことだろう。
一年放っておいて、掃除には15分。死んでしまえばそんなものである。最後にざっと濡れた墓石を拭く。
美羽がオレの一歩後ろでその様を見ている。彼女が何を考えているのかはわからなかった。いきなり墓に連れてこられて、いい気はしているはずもないだろうが。
『ごめん。ちょっと待っててくれる?』
美羽はそう言って、背中を向けた。急ぐと転ぶぞ、と声をかけたと同時に美羽がバランスを崩している。恥ずかしそうに笑って、すぐに戻るから、と彼女は消えていった。こんなところでなんの用事があるのかは知らないが、呼び止める気もない。
掃除用具を片付けて、美羽が集めた雑草をゴミ箱に捨てる。美羽はまだ戻ってこない。まさか何かあったわけじゃないよな、と少し心配し始めていると、カンカンっとヒールの高い音がした。
『ごめん。コンビニが思ったより遠くて』
美羽が片手にビニール袋を下げている。額に汗を滲ませているところを見ると、その身なりで走ったようだ。ヒールなのにご苦労なことである。美羽はオレに冷えた珈琲を差し出した。それを受け取り、美羽が墓石の前で蹲み込んでいるのを眺める。お茶が二本、供えられた。
美羽が無言で両手を合わせている。随分長い時間だった。馬鹿だな、と内心嗤う。そこには誰もいないのに。墓は生きている人間への慰めであって、死者の魂がそこにいるわけではない。そんなものを信じているのは目の前の女のような純粋な人間だけだ。
中身のない慰めは、ただ虚しいだけ。
美羽がゆっくりと腰を持ち上げた。心なしか、表情がここに来る前より澄んでいる。
『今度はお花、持ってこようね』
屈託なくそう言える彼女が憎らしかった。
一瞬だけでも、両親の前では、と思ってしまった自分に反吐が出そうだ。両親はここにいないとずっと思ってきたのは他でもなく自分なのに。
ずっとそうだった。好きだという感情と共に、オレは美羽に嫉妬してきた。例え同級生にいじめられていたとしたって、彼女には真白さんと真広さんがいる。血は水よりも濃い。何よりも濃い。どんなに愛しく思ったところで、オレと美羽は他人だ。どちらかの気持ちが切れてしまえば、それでおしまい。
美羽なら大丈夫だと信頼してしまうのが怖かった。オレは彼女と違って、他に誰もいないのだから。いつか彼女に切られてしまうくらいなら自分で切る。そして今回切ったはずだった。
それなのに目の前の彼女は、なぜオレに迷いなく手を差し出せるのだろう。
「お前は、オレがどう言えば満足なんだ」
美羽がオレを見ている。拒絶されるのを察知した目だ。しかし手を引くこともしない。
その手をはたき落としたくて、しかし身体が動かなかった。拒否するのだって重労働なのだと自分に言い聞かせる。
「言っただろ。お前とオレはもう他人だ」
『……』
「オレがお前に求めることはもうない。だからお前も、オレにこれ以上求めないでくれ」
こんなところに連れてきて、深い部分に触れたような期待をさせたのだろう。しかし別にオレは心変わりをしたわけではない。ただの気まぐれだった。それ以上でも以下でもない。
美羽とオレは他人だ。その事実は今までもこれからも変えようがない。
足元の石が跳ねる。一年に一度のこの感覚に胸が押しつぶされそうになる。嫌いだ。何もかも嫌いだ。あっさり死んだ両親も、それを未だに受け入れられないオレの弱さも。好きな人間を傷つけることしかできない自分の天邪気さも。オレは大嫌いだ。
ガツン、と後頭部で音が鳴った。激痛と同時に足に転がる一つのペットボトル。彼女の好きなミルクティーだった。混乱と怒りを両方持って振り返れば、涼しい顔をした美羽と目が合う。
『ごめん。手が滑った』
美羽が静かに近寄ってくる。足元のペットボトルを拾い上げ、無表情でオレを見上げた。
『ぶん殴りたかったの我慢したんだから感謝してよ』
「…殴るより卑劣だろ」
『だってムカついたんだもん』
ムカついたって、とオレは声を漏らす。美羽がチラッと墓石に視線を送った。
『ご両親の前で喧嘩するの嫌だから。とりあえず行こ』
「別に関係ないだろ。死んでんだから」
『……』
ドカ、っと今度こそ頭を殴られた。オレが反論するより先に、ガッツリ腕を掴まれ引きずられる。
じゃりじゃりじゃり、と激しい音が足元で鳴った。
墓地を抜け、人気の無い道を歩いていく。重苦しかった心が少しだけ軽くなった。一年に一度の責務を終えた開放感だろうか。
しかし、目の前の女との問題がまだ残っている。一刻も早く離れたくて、オレはなるべく尖った声を出した。
「離してくれ」
『嫌』
「何なんだよ。いい加減ウゼェんだけど」
『そんな顔してるサソリを一人にできるわけないでしょ』
オレが一体どんな顔をしているというのだろう。美羽は足を止めた。振り返った彼女の瞳が相変わらず強くて、思わず目を逸らしてしまう。
美羽は子供に言い聞かせるようにあのね、と言葉を紡いだ。
『幾つになったって御両親がいなくなったことを寂しく思うのは普通なの』
「……」
『貴方が特別弱いわけじゃないし、カッコ悪いわけでもない。人間なら当たり前の感情』
美羽はいつでも、どこまでもオレに対して必死だった。言葉に詰まりながら、しかしオレに気持ちを伝えることを放棄しようとはしない。
彼女はどの瞬間だって、真っ直ぐだ。その真っ直ぐさに、オレは何度だって救われてきた。
『何度だって言うよ。私はそんなことで幻滅したりしない。嫌いになったりしない。これから先もずっと、私は貴方の味方でいる』
『だから私を、もっと頼って』
彼女にはいつも全部見透かされてしまう。オレが彼女のことを好きで仕方がないことも、失うことが怖いことも、だからこそ突き放していることも。彼女はそれを全て知っていて、それでもオレを受け入れると決めていた。オレが嫌いな弱いオレを、美羽はそれでも好きだと言った。
そしてオレは初めて、夏の終わりが愛しいと思った。
『お願いだから、傍にいさせて』
美羽はもう一度強く言った。傍にいさせてほしい、と。
閉じ込めてしまいたい。この時間を、想いを、ずっと鍵をかけて永遠に残しておきたかった。それができないのなら、せめて必死に足掻きたいと初めて思った。流れ落ちていく時間を無駄にしないように、忘れないように。この繋いだ手の暖かさを、今度こそ失わないように。
気づいた時には美羽の右肩に、己の頭の重さを預けていた。美羽は一瞬だけ怯んだ。しかしやはり、すぐにオレの頭にそっと手を添えてくれる。
こんな小さな女の子に、一端の男が本当に甘えていいのだろうか。しかしそんな問を投げかけなくとも、彼女がオレを受け入れてくれることも、オレは既によくわかっていた。
込み上げてくるものが、初めて弾ける。両親が死んでから、ずっと仕舞い込んでいた感情。あの時泣けていたら、こんな歳になってから彼女にこんなにも情けない姿を晒すことはなかったかもしれない。昔の自分を、少しだけ恨んだ。それと同時に、オレは幼き日の自分を、自分を遺して逝ってしまった両親を、やっと許すことができる。
オレはこの日、初めて両親を想って泣いた。
私がサソリの家族になる、と言ってくれたあの日のことを昨日のことのように覚えている。例え血が繋がらずとも、美羽はオレの家族だった。
彼女を失うことが怖かった。だから自分から捨てようとした。でも彼女はオレの手を離そうとはしなかった。子供のように頑なに、しかしそれは母親のようにどこまでも愛情に満ちていた。
もう、無理なのだ。彼女と会う前の自分に、オレは戻れない。
時間は不可逆だ。両親が生きていた時代に戻れないように、彼女のいなかった時代にだってオレは戻れない。
オレはずっと変わりたくないと願った。前に進むのはいつだって怖かった。そこに守ってくれる両親はいなくて、オレは一人で足を進めなければならなかったから。でも今は美羽がいてくれる。これから先、一緒にいられる保証はなくとも。今この瞬間、一緒にいたいと願ってくれている、彼女がいる。一緒に変わろうと手を差し伸べてくれている、彼女だけはオレの隣にいてくれる。
父さん、母さん。あの時オレを守ってくれて、本当にありがとうございました。おかげでオレは、彼女にこうして出会うことができました。
そして今まで恨んでいたことを、心からお詫び申し上げます。本当に、ごめんなさい。
一つの関係が、夏と一緒に終わっていく。しかし季節は繋がるものだ。オレたちはまた、懲りずに始まっていくんだろう。