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昔から誰かといるより一人でいることの方が好きだった。でもそれは、思い込んでいただけなのかもしれない。何故ならその方が孤独を感じずに済むからだ。
オレは自分の意思で一人を選んでいる。だからオレは可哀想ではないし、誰かに気を使われる必要もない。
彼女に出会ってから、オレは実は一人でいることが好きなわけではないのだと初めて知った。
彼女と二人でいると、心地よかった。何があっても、彼女の顔を見ると安心した。サソリ、と名前を呼ばれるたびに心が震える。また明日ね、と手を離すたびにどうしようもない不安に襲われた。また明日会えることはわかっているのに。でもそれでも、彼女のいない一人の夜は恐ろしいくらいに孤独だった。
彼女が隣にいる安寧に、オレは溺れてしまったのだ。
彼女に出会うまでは、一人でいることが普通だったのに。彼女に出会ってからは一人に耐えられなくなった。辛くて、苦しくて、かっこ悪くて、情けなくて。それが彼女にバレてしまわぬよう、必死に大人になりきろうとした。
そしてオレは勝手に限界を迎えてしまったのだろう。
いつか終わる関係に怯え続けるくらいなら、自分で終わりを決めたかった。今ならまだ戻れる気がした。彼女がいないことが日常だった時代に。戻りたい、戻れるはず、戻らせてくれ。
もう、これ以上格好悪い自分に、オレ自身が耐えられそうもなかった。
ふわん、と鼻先を擽るはちみつの香り。この匂いは、フレンチトーストだ。昔母親が作ってくれた甘さ控えめでとろとろのフレンチトースト。オレが好きだと知っていてよく作ってくれた。
オレは母親の夢を見ているのか。今更、と思いつつ悪い気はしない。しかも匂いまでリアルである。その香りの良さに酔いしれていると、サソリ、と嗅覚と比例した甘い声が降ってきた。
『おはよう。朝だよ』
声だけ、微妙に違う。母親はもう少し低く、落ち着いた声だった。しかしこの声も悪くない。ひどく安心する、柔らかい声。どこかで聞いたことがあるような、と思いながら薄目を開けると、大きな瞳がオレを見下ろしていた。目を開けても、オレは夢の中にいるらしい。
夢であれば遠慮する必要はない。手を伸ばし、頬にそっと触れる。感触までリアルである。信じられないほどなめらかで、うっとりするほど柔らかい。この触感がオレは大好きだった。彼女はオレの手に自分のそれを添えながら猫のように目を細めている。彼女もまた、オレに触れられることで気分が良くなるらしい。夢の中の二人は、まるで理想の恋人のようだった。
オレの願望の表れなのだろうか。みっともない、しかしそれでもいいじゃないか。どうせ夢なのだから。
微睡ながら、彼女を堪能する。桜色の唇が、耳心地の良いソプラノを奏でた。
『ご飯にする?それともシャワー?』
「……」
『それとも…』
『わ、た、し?』
その一言で一気に覚醒した。目の前にいる彼女は、母親じゃない。母親じゃないどころか、身に覚えがありすぎる女である。
美羽はオレに跨り見下ろしながらにやっと怪しく笑った。
『やっと起きた?おはよう』
何から突っ込んでいいのかわからない。混乱する頭を押さえながら、とりあえず冷静を装う準備をする。お前、と言った声が掠れていた。
「…何してんの?」
『うーん。夜這い?ってやつ?』
朝だから正確には違うけど、と美羽。夜這いって。冗談は笑えるものだけにしてほしい。
「そもそもなんで家入れてんだよ。鍵かかってただろ」
『合鍵です』
「合鍵?」
美羽は左手に銀色に光るそれを持っている。見れば確かに、オレの家の鍵と同一である。しかしなんで彼女がそんなものを。
『デイダラのお母さんがお祖母様から預かってたみたいよ。何かあった時に一応って』
それは構わないが、その鍵が美羽に流出しているのは明らかに問題である。
しかし美羽はさっとその鍵をエプロンのポケットにしまった。後でどうにかして回収してやる、と企てながら疑問が次の項目に移る。
「その格好は?」
『見てわかるでしょ』
何故か得意げな美羽。胸から腰までジロッと視線を動かして、オレは首を横に振った。
「全然わからん」
『えー、裸エプロンじゃん』
美羽が胸元のエプロンをぴろっとめくった。豊かに膨らんだ真っ白な胸が何のオブラートもなく目に飛び込んできた。朝から刺激が強すぎる光景である。
下半身がむず痒い。こんな時にも正常に働いてしまう男の性に一抹の虚しさを覚える。
「いやだから…whatじゃなくてwhyを聞いてんだよ」
『好きかなと思って』
そりゃあ、好きか嫌いか言ったら好きに決まっているが。というかはっきり言って大好きである。が、聞きたいのはそういうことではない。
冷静に美羽の腰に手を置き、横に退けさせた。美羽のオーラが一気に不満色に変わる。
それを無視して体を起こした。無言のまま寝室を後にする。パタパタっとそれを追うスリッパの音。
『サソリ』
「シャワー浴びるから」
『洗ってあげるよ』
「いらねぇ」
何故か顔を輝かせている美羽の顔面すれすれで扉を閉める。が、ぶっ!と音がしたのでどうやら当たったようである。無視して服を脱いだ。蛇口を捻り、シャワーが身体に降り注ぐ。冷たさに一瞬ビクついた。最初は冷たいという初歩的なことをすっかり忘れていた。それくらいには動揺していたのだろう。
緩くなったシャワーを頭から浴びながら、やっと冷えてきた頭で考える。
おかしくね?いや、明らかにおかしいよな?
雨が降る昇降口で、別れ話をしたのは忘れもしない昨日の話である。思った以上に最近すぎてオレの記憶が間違っているのではないかと錯覚するほどである。…いや、確かに昨日だ。間違いない。あれほど悩んで出した結論だった。だからこそ、間違っているはずはない。
それなのに何故今日美羽がオレの部屋にいる?しかもあのよくわからないテンションで。
もしかして、オレの言葉の意図が伝わっていないのだろうか。いや、美羽は基本的に悲観的な性格である。オレからの拒絶は敏感に察しているだろう。だからこそ不可解だ。ここに来たところでオレに拒否されるなんてわかりきっているだろうに。
シャワーを止め、脱衣所で体を拭く。今日は土曜日で学校は休みだ。一日家でゆっくりしようと思っていたのに。朝からコレ。さてどうやって追い出そうか。
棚に入っていたスエットを取り出し、少しだけ悩む。結局オレは元着ていたパジャマを着て、スエットを持って脱衣所を出た。
予想通り美羽がその場で蹲っている。何も着ていない背中があまりにも小さく頼りなくて、少しだけドキッとする。
オレはその背中にスエットを置いた。美羽が虚な瞳でオレを見上げる。
「それ着て早く帰れ」
それだけ言ってリビングに向かう。そしてまた予想通り、そこにはフレンチトーストと珈琲、ヨーグルトとフルーツが用意されている。言葉添えはなくとも口が痛むオレへの最大限の配慮だろう。母親と父親の残像がふわっと脳裏に浮かび上がり、そしてすぐに消えていった。
嫌いだ、と思った。こんな記憶の断片に縋ってしまう自分が、オレは嫌いだ。
振り返ると、美羽がオレのスエットを抱き抱えながら突っ立っている。
イライラした気持ちを隠すことなく、オレは「こういうのはもう辞めてくれ」と言った。
「オレとお前はもう他人だから。迷惑だ」
傷つけるつもりで言った。しかし美羽は、強い目でオレを睨んでいる。
『他人じゃないもん』
「他人だ。別れ話したろ、昨日」
『…別れないもん』
「ああ?」
『私が納得してないから別れない』
予想外の返答だった。美羽は基本、オレに対して従順だ。しかし今は、はっきりとした意志を持ってオレに反発している。
美羽はスエットを握りしめながらもう一度、別れないもん、と言った。
『双方の合意がなければ別れ話は成立しないの』
「…たかだか彼氏と彼女だ。結婚してるわけでもねーんだからそんな制約はないだろ」
『どうしてサソリはいつもそうやって勝手なの?』
「……」
『付き合って、って言ってくれた時も強引だったのに。別れて、っていう時も私の意見は全く聞いてくれないんだ』
そう言われてしまうと、あまりにも自己中心的であるということは否定できない。
『言ったでしょ。私はサソリのことを諦めない』
「……」
『私にはなんでも言ってくれていいから。幻滅したり、嫌いになったりしないから』
「……」
『だからお願い。別れようなんて言わないで』
最後の方の声は震えていた。懸命に強気でいようとしている彼女から溢れる弱さ。それを察してしまうくらいには、オレはまだ彼女のことを愛しく思っている。
わかっているのだ。嫌いになんてなれるはずがないと。でもだからこそ一緒にはいられない。感情の幅があまりにも開きすぎたのだ。美羽にとってオレは大勢の好きな人の中の一人で、代わりがきく。その事実にオレ自身が耐えられなくなった。
「帰ってくれ」
自分でも驚くくらい冷たい声だった。美羽はもう、傷ついた顔をしなかった。
服は持ってきてるから、とオレにスエットを押し付ける美羽。無言で受け取った。震える肩を抱いてやることは、もうオレにはできない。
エプロンを脱ぎ捨て、私服に着替えている。極力見ないようにした。
『じゃあ、月曜日に学校でね』
美羽が明るい声を作って手を振っている。オレは相変わらず無言で小さく首肯した。ニコッと笑って美羽がこの部屋を後にしていく。
鍵を返してくれ、とはなんとなく言えなかった。しかし彼女が勝手に鍵を使ってこの部屋に入ることはもうないだろうということも、オレはよくわかっていた。
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