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休み時間が来る度、図書室に足を運んだ。
勿論勉強をするためである。でも、根底にあるのは別の理由。
ここは、学校で唯一噂話が発生しない場所だから。
黙々とテキストに向かう学生しかここにはいない。いつもは息苦しさを感じる静かすぎる空気も、今の私には天国のように心地よかった。
誰も私に興味がない。サソリくんとなにがあったの?と聞いてくる女子もいない。
パラリと数学の参考書を捲る。数式を読み、問題を解く。
あ、これ。サソリとこの前一緒にやったやつだ。
私にとっては難しくて、何度も何度も質問してしまった。それなのに、嫌な顔一つせず丁寧に教えてくれたサソリ。
彼のおかげで、私はもうこの問題に悩むことはない。黙々とペンを走らせ、また一問問題を解く。
もうすぐ中間テストだ。この流れでは、サソリとは勉強できないだろう。自分一人でも頑張らなければ。今まで力を尽くしてくれた彼の時間を無駄にしたくはない。
ペキ、とシャーペンの芯が折れる。トントン叩いても何の反応もない。どうやら芯切れのようだ。ついてないな、と溜息をつきペンを机の上に置く。
今日は一日本当に長かった。そんなに勉強は進んでいないのに、いろいろ神経を使ってほとほと疲れ果てた。
まだ早いけれど今日は帰ろう。本屋に寄って、新しいノートとペンを買おう。
身支度を整え、席を立つ。相変わらず誰の視線も自分に向いていないことに安心して、図書室を後にした。
廊下を歩きながら窓の外を眺める。低い空から天気予報通りの雨が降り始めていた。しとしとと静かに降る雨は、鬱陶しくも心に安らぎを与えてくれる。
サソリと初めて喋った日も、こんな雨が降っていたな。
あの日も、私には彼の気持ちがよくからなかった。それから少しずつ近づいて、また、離れてしまった気がする。
あと1センチ。その距離がどうしても縮められない。どうしたらサソリは私に心を開いてくれるんだろう。
なんでも話して欲しいのに。どんなことがあっても嫌いになったりしないのに。どう伝えたらわかってもらえるのかな。
下校時間のピークを過ぎた下駄箱には人の気配がない。鞄の中にあるはずの折り畳み傘を探そうと私は足を止める。
そして、引き寄せられるように顔を上げた。
そこにはサソリがいた。下駄箱に寄りかかるように、ぼーっと外を眺めている。
傘でも忘れたのかなと少しだけ考え、しかし彼の手にしっかりとビニール傘が握られていることに気がついた。
私は、自分の折り畳み傘の存在を頭の隅にそっと追いやる。
『…なにしてるの?』
私の言葉に、サソリは反応しなかった。
ブラウンの瞳が、夏の終わりの長雨だけを見つめている。
気後れしてしまう気持ちに必死に蓋をした。今話さなければ、サソリがもっと遠いところに行ってしまう気がした。
靴に履き替え、サソリに近づく。拒否されないことに少しだけ安堵した。
『やみそうにないね、雨』
「……」
サソリは相変わらず私を見ない。しかし私のことを嫌がっている様子もなかった。
私を待ってくれていたのかも、なんて自惚れてしまう自分がいる。
「…と…」
やっと動いたサソリの唇。雨の音にかき消されてよく聞こえない。
黙って彼を見ていると、紫に染まった口の端が再び僅かに動いた。
「ありがとな」
『……』
「ゼリー。置いてくれたのお前だろ」
口が痛くて、普通のものは食べられないだろうなと心配していた。でも直接渡しても断られる気がして、見つけてくれることを祈りながら視聴覚室に置いておいた。どうやら受け取ってくれたらしい。
サソリは嫌なことがあるとき、誰もいない視聴覚室に逃げる癖がある。
辛い時、誰にも話したがらない。友人にも、私にも。
彼は今、とても辛いに違いない。それがわかっているのに、何もわかってあげられない自分。もどかしくて、役に立ちたくて。でもどうしたらいいのかわからない。
腫れているサソリの頬にそっと手を伸ばした。初めて、サソリの表情が僅かに動く。
『ごめんね。痛いよね』
「…別に。それにお前が悪いわけじゃない」
『……』
「オレこそ悪かった」
『……』
「オレのせいで、また女子に何か言われたろ」
私は小さくかぶりを振った。
『大丈夫。ほら、私そういうの慣れてるから。万年いじめられっ子だし』
冗談のつもりで言ったのに、彼は全く笑ってくれなかった。雰囲気に耐えられなくて戯けてしまったことを密かに反省する。
怖がっているだけじゃ彼には近づけない。熱を帯びている頬を撫でながら思う。あと少し、もう少し。もう少しだけでいいから、近づきたい。
真剣に話せば、きっと私の声はサソリに届くはずだ。
『…一つだけ聞いていい?』
「…うん?」
『私のこと、嫌いになった?』
サソリが再び口を結ぶ。長い沈黙だった。
怖い。でも、聞かなきゃいけない。
静かな雨音の中、サソリの呼吸が僅かに乱れている。
「昨日も言った。優しい男がいいならオレはやめておけ」
『…質問の答えになってないよ』
「お前はオレと違うんだよ」
違う。確かに私とサソリは似ても似つかない。しかし彼が言いたいことはそういう単純なことではないだろう。
サソリは私からそっと目を逸らした。
「お前はオレと違って幸せな家庭で育った人間だからな」
『…なにそれ。そんなの関係あるの?』
「あるだろ。お前は無償の愛情を貰い慣れてる。だからオレと違って誰に対しても無償の愛情を簡単に与えられる人間なんだよ。お前にとって、オレは決して特別じゃない」
『……』
「オレはお前のように優しい人間には成り得ない。現にオレはお前をこうして傷つけてばかりだ」
『……』
「お前は優しいから、義務感でオレが好きだと思い込んでるだけなんだよ。その魔法はいつか必ず解ける。いつかきっと、お前がオレから離れる日はやってくる」
ただただ、悲しかった。私はこんなにサソリが特別で、大好きなのに。それが全く伝わっていないことが。
でも、初めてサソリが私に心の声を教えてくれたことが嬉しかった部分もある。彼が急におかしくなったのはこのせいだ。多分、彼は私のことが嫌いになったわけじゃない。はっきりは言ってくれないけれど私がいなくなることが怖いのだろう。
無償の愛情を与えてくれるはずのご両親は既にこの世にいない。彼はその愛情を全て私に求めている。それはなんとなくわかっていた。
サソリは誰から見ても大人に見える。しかしやはり心は年相応か、むしろ幼い部分もあるのだろう。大人になろうと焦り過ぎて、今までは無視していたであろう心の隙間。それが一気に露見したことを、本人が一番受け入れられていないのかもしれない。
サソリのこの弱さが愛しい、と心から思った。
『私は、サソリが好きだよ』
「……」
『ほんとに大好きだよ。この気持ちは思い込みなんかじゃない』
気の利いたセリフが言いたくて、でも考えれば考えるほど何も言えなくなってしまう。
こんなに大事に思っているのに、言葉にしてしまうと安っぽくなってしまうのは何故なのだろう。
サソリの左手が、私の後頭部を乱暴に掴む。そのまま強引に唇を押し付けられた。
噛み付くようなキスだった。女の人のように柔らかいサソリの唇から、少しだけ血の味がした。
キスをしたのは、短い時間だった。サソリは無表情で私を見ている。唇が離れることを名残惜しいと思っているのは私だけなのかな、と寂しい気分になった。
サソリの左手が私の頬に移動する。冷たい指先がなぞるように再び喉元に触れドキッとした。サソリは私の微妙な心の変化に気づいたのだろう。その様子を見て、少しだけ笑った。
「お前は本当にいい女だな」
『……』
「でも、ごめん。お前の真っ直ぐさが今のオレには痛いんだよ」
痛い、その意味を図りかねる。サソリは私に自分の傘を差し出した。
「使え」
『…え』
「オレは走って帰る」
無理やり傘を押し付け、サソリは私に背を向けてしまった。待って、と呼び止める声が彼に届かない。
なんで?どうして?
サソリは私に嫌いだとは言わなかった。彼の性格からすれば、それは嫌いじゃないと言っているようなものだ。
それなのに、なんで。私のことを受け入れてくれないの?
溢れ出る感情を整理する暇もなく、無我夢中に私は叫んだ。
『諦めないからっ』
「……」
『サソリがなんと言おうとこの気持ちは変わらない。私は絶対諦めない』
「……」
『っ、覚悟しときなさいよ!ばーか!』
小さくなっていくサソリの背中を見つめながら、私はもう一度馬鹿、と呟いた。
面倒くさい。本当に心から面倒くさい。サソリより優しい人なんて沢山いるのに、なんで私はこんなに面倒くさいサソリのことが好きなんだろう。
私が心から笑う時も、泣く時も。それはサソリのことを考えた時だった。こんな心が焼けるよう感情を、私は彼に出会うまで知らなかった。
この気持ちが恋じゃないというのなら、この世界に恋なんて、きっと存在しない。