逢いたかった人
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あの日以来、狐さんは現れなくなった。
それと同時に、雲の暗部が5人何者かに殺害された、という噂が囁かれ始めた。
千秋さんからは何も話を聞いていない。彼は任務の内容や国の情勢を基本的に私には話さないからだ。身内にも言えないことが山ほどあるのだろう。彼がいるのはそういう世界だ。それを承知しているから、私も彼に深く話を聞くことができなかった。
ぼーっとお皿を拭きながら物思いにふける。
殺害されたのは雲の暗部だと聞いた。狐さんは雲の暗部ではない。ということは殺されたのは、狐さんじゃない。
雲の人間なのに、雲の暗部が殺されたことに安心している自分がいる。こんな考え、ダメだということくらい馬鹿でもわかるのに。
はあ、と一つため息を吐き出してお皿を戸棚に戻した。
「おはよう」
振り返ると、そこには忍服を着た千秋さんが立っていた。時刻はまだ朝の5時である。それ以前に、彼が私が起こす前に起きてくるのは珍しい。何かあるんだな、と私は瞬時に察した。
『おはようございます。どうされました?』
「今ちょっと仕事がバタバタしてて。とりあえず行ってくる」
暗部が殺害された件だろうな、と思いながら私は用意してあったお弁当を手渡した。ありがとう、と千秋さん。
「今日、どこか行く予定ある?」
『特には。買い物に行くくらいでしょうか』
「そう。なるべく家から出ない方がいい。最近何かと物騒だから」
わかりました、と答えた。どうせ外に出てもやることはない。だだっ広い家の掃除はいくら時間があっても足りないくらいだ。今日はそこに力を入れるとしよう。
千秋さんを送り出して、私は早速家の掃除を始めた。下女は一応雇ってはいるものの、誰かに指示を出すより、掃除も料理も自分でした方が楽だ。箒で埃を集め、雑巾で丁寧に床を拭いていく。雑巾をバケツの中で洗っていると、ピリリ、と手に刺すような痛み。見れば複数の皹ができていた。夏だからと油断していたことを後悔する。洗剤と水の刺激に手が耐えられなくなってしまったようだ。
ゴム手袋を探すも生憎見つからず、私は財布の入ったポーチを拾い上げた。夕飯の買い出しも同時に済ませよう、と家を後にする。
大分慣れた雲の街並みを眺めながら、再び物思いにふける。頭に浮かぶのは狐さんのことばかりだった。
狐さんのことを考えて、しかし私は彼のことを何も知らないと気づく。顔も、名前も、年齢も。私は本当に何も知らない。それなのに、なんでこんなに狐さんのことが気になるんだろう。
千秋さん以外の人と話す機会がないから、執着してしまったんだろうか。自分でもよくわからない感情である。
そして私は、狐さんのことに関して一つだけ知っていることがあった。それは、彼はもう二度とあの小丘に現れないということだ。彼のことは何も知らないけれど、これは確信があった。
木ノ葉からやってきた忍びを知らない私は狐さんにとって無価値なのだろう。
彼は別に私と話したくてあそこに来ていたわけではない。あれは情報収集任務だ。狐さんは私とする会話を、一瞬たりとも楽しんでいなかった。
それなのに、話し相手ができたと勝手に喜んでしまって。本当に馬鹿みたいだ。狐さんはもう、私のことをこうして思い出す瞬間すらないだろう。それくらい、彼は私になんの興味も持っていなかった。
「すみません」
顔を上げると、そこには一人の男性が立っていた。一気に現実に引き戻される。彼は私に地図のようなものを差し出した。
「道に迷ってしまって。少し教えていただいていいですか」
『…ああ、はい。いいですよ』
どこに行きたいんですか?と地図を覗き込んだ瞬間だった。いきなりドン、と肩を叩かれ、衝撃に耐えられず私はその場に倒れ込んだ。手からバサッとポーチが落ちる。
『…いっ、た…!?』
身体を起こした視線の先には地図を持っていたはずの男性が背を向けて全速力で走り去っていく。茫然とその背中を目で追った。突然すぎて一体何が起こったのかわからなかった。
そして数秒遅れて気づく。持っていたポーチがない。物盗りだ、とやっと気づいた。
『…っ、待って!返して!』
後の祭りである。その男性が私のことを振り返ることは、二度となかった。
****
「美羽さん!」
息を切らした千秋さんが警察署に飛び込んできたのはあれから半刻ほどが経過した頃である。千秋さんは椅子に座っている私を見て、安堵の息を吐き出した。
「無事だったか…よかった…」
すみません、心配をかけて。私は呟いた。千秋さんは息を整えながらいいんだよ、と笑う。
「君が無事であればそれでいい。怪我はしてないかい?」
『…はい、大丈夫です』
「お疲れ様です、早瀬様」
警務部隊の一人が千秋さんに挨拶をしている。どうも、とそれに答える千秋さん。
「被害は?」
「金銭の入ったポーチだそうです」
「他には何も入っていない?」
少しの沈黙の後、はい。と答えた。千秋さんが安心したように頷く。
「それなら問題ないね。ただ、彼女を傷つけた人間は許せないから。気合入れて調査してくれよ」
はっ!と警務部隊が頭を下げている。私は項垂れたまま、着物の袖をギュッと握りしめた。
あのポーチの中には確かにお金が入っていた。しかし、もう一つ。それは今の私にとって、命にも変えられないほど大事なもの。
薬だ。
毎月木ノ葉に里帰りをした際、サクラちゃんから受け取っている避妊の薬。
千秋さんにバレるわけにはいかず、私はあの薬を肌身離さず持っていた。そして今回、それが仇となった。
最悪なことに、木ノ葉に里帰りをしたのは3日前だ。私は木ノ葉への里帰りを月に一度しか許されていない。薬をもらえるのは一月先。
雲のお医者さんに掛かる手もあるにはある。しかし私は早瀬に嫁いだ女として有名だ。そんな薬をお医者さんで貰ってはすぐに千秋さんに伝わってしまうだろう。
その時千秋さんがどんな反応を示すのか。考えただけで気が重くなる。
「…大丈夫?美羽さん」
沈んでいる私を、物盗りに怯えていると思ったようだ。優しく頭を撫でながら、千秋さんは私の身体をそっと抱いた。
「大丈夫。君のことは僕が守るよ」
『……』
一緒に帰ろうか、の言葉に私は無言で頷いた。
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