名前知らずの片恋
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流れるような日常。しかし今日は少しだけ特別な日。
煮立った鍋をお玉で回しながら、自然と鼻歌が溢れる。隣でサラダの準備をしていた千秋さんがクスッと笑った。
「今日はご機嫌だね」
『…え、そうですか?』
「何かいいことでもあった?」
その言葉に、少しだけ悩んでしまう。
『えっと…今日お買い物に行ったらいい野菜が安く沢山手に入ったので』
「別に値段なんて気にしなくていいのに。お金には困ってないんだから」
『それはそうなんですが、主婦のサガというか。この白菜なんてこんなに大きくて立派なのにたった三文ですよ』
凄いですよね、と私。千秋さんはまた笑った。
「君が楽しそうで何より。でもお金のことは本当に気にしなくていいから。なんでも好きなものを買うといいよ」
私はいつも通りありがとうございます、と答えた。
ー…
夜を迎え千秋さんがすっかり眠りに落ちた丑三つ時。私はそっと布団から抜け出した。
広い屋敷を抜け、小丘を登っていく。月明かりの元で私は顔を綻ばせた。
『狐さん!』
そこには暗部の面をした男が一人。私の姿を認めて、顔を上げた。
お待たせしました、と私は狐さんに駆け寄っていく。彼はポケットに手を突っ込みながらふぅ、とため息をついた。
「その狐さんってやつ、辞めないか」
『え…ダメですか?』
「ダメっつうか、あまりにも安直すぎるだろ」
狐さん。私は狐の面をした彼のことをそう呼んでいる。
『でもお名前知りませんし…なんて呼んだらいいですか?』
「もっと他にないのか」
そう言われても。
『…じゃあ、竣敏さん?』
「なんだそれ」
『初めて瞬真の術を見たとき、印も結ばず消える姿に驚いたので』
「……」
やっぱり狐さんでいい、と彼は静かに言った。私の絶望的なセンスに早々に諦めたようである。
狐さんとは特に会う約束をしているわけではない。でも朝起きた時になんとなく、今日かな、と感じる日がある。そういう日に小丘を越えると必ず彼が私のことを待っていた。
私にとって彼と会う日は、千秋さん以外の人間と話すことのできる貴重な日だ。
「今日は遅かったな」
『すみません。主人がなかなか寝てくれなくて』
今日千秋さんは何人か人を殺したようだった。そういう日は抱かれているとなんとなくわかる。命の危機に瀕した日は、いつもより更に性欲が高まるらしい。
狐さんは察したらしく、お盛んだな、と呟いた。私は少しだけ悩んで、しかし聞いてみることにした。
『あの…こんなこと聞いていいかわからないんですが』
「ああ?」
『男性って、毎日そういうことしないと死ぬ生き物なんでしょうか』
ぶっ、と面の向こうで狐さんが吹いた。すみません、と条件反射で口が動く。
『男性の知り合いが他にいなくて』
「……。さぁな。男によるんじゃねぇか」
狐さんは素っ気なくそう言った。男による。ということは、毎日しなくても死なない男性もいるということだろうか。
今の生活からはにわかには信じがたい。
『なるほど…じゃあ、別に毎日しないと生物学的に死ぬというわけではないんですね』
「そんなんで死んでたら男は絶滅してるだろ」
言われてみれば確かに。
狐さんが少しだけ私を気遣わしげに見ているのがわかる。
「毎日してるのか?」
『はい。1日3~4回ってところですかね』
「3~4回!?」
狐さんが引いている。変ですか?と聞けば、狐さんは悩みながら、でも答えてくれた。
「いや…別に変というわけではないが。女は逆にどうなんだよ」
『うーん…あまりよくわかりません。主人としかしたことなくて。痛くはなくなりましたが気持ち良くもないので、なければないほうが楽です』
気持ち良くないって…と狐さんは小さな声で呟いた。
「よくそれで一日に何回もできるな」
『相手は早く子供が欲しいみたいで。私がなかなか妊娠しないから、そのせいもあるんでしょうけど』
まあ、するわけもないんだけど。頭の中で白い小粒がぼんやりと浮かぶ。
狐さんは無言である。彼は元々無口だ。私の話に相槌を打つ以外、自分から話題を振ってくることは滅多にない。
『狐さんは奥さんいらっしゃるんですか?』
「いるようにみえるか?」
『その返答はいないやつですね』
ふふ、と私は笑った。そもそも狐さんの年齢すら私は知らない。体格は幼く見えるけれど、会話をしていると私よりずっと歳上な気もする。
狐さんは肯定も否定もしなかった。しかしおそらく、私の予想は外れてはいない。
そういえば、と私は話題を変えた。
『最近木ノ葉から移住してきたのは、やっぱり私しかいないみたいですよ』
狐さんが反応する。どうやら、彼の興味のある話題にやっと移行したようだ。
「それは確かか」
『ええ。主人にも聞きましたし、一応名簿も調べました』
「……」
そうか、と狐さんは低い声で呟いた。
木ノ葉から移住してきた男性に、狐さんは固執している。それが何故なのか私にはわからない。
そして、その情報を得るためだけに狐さんが私に接触していることもわかっていた。
『もう少し調べます』
無意識のうちに、唇が動いた。
『もしかしたら、極秘で移住しているのかも。もう少し調べてみます』
「……」
狐さんはまた素っ気なく、ああ、と呟いた。
私にはもう期待していない。そう声色が語っているような気がした。
狐さんと接触できる時間は長くはない。長くて10分。短ければ5分でも、彼はいなくなってしまう。
今日もありがとうございました、と私は頭を下げた。
『すみません。いつもつまらない話しかできなくて』
「……」
否定しない狐さん。本当に私との会話はつまらないのだろう。
私が言葉に詰まっていると、狐さんが私の顔を見た。仮面越しなのに、目が合っているかのような錯覚に陥る。
「今の生活が嫌なら、自分で変えろ」
『…え』
「待っていても白馬の王子様は現れねぇぞ。抜け出したいなら自分の手で、自分の力で抜け出せ」
『……』
「見ず知らずのオレに縋ったところでお前は一生救われない」
「じゃあな。月下美人のお嬢ちゃん」
狐さんは姿を消した。いつも通り印も結ばなければ、音もなく。彼は私の前から姿を消した。
月下の花が硬く蕾を閉じている。もう彼がここに来ることはないと、静かに私に告げるかのように。
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