月下の花
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サソリさんは呆然と立ち尽くす私と、眠っている息子を交互に見て長い睫毛を揺らした。
「まぁ、運良く生き残ったからにはガキを立派な忍びに育てろよ。そいつも時送りなんだろ?」
『…はい、多分』
「でかくなったらそいつを暁に引き入れるのもいいかもな。早瀬の息子は貴重な戦力になりそうだ」
その気は一ミリもないくせに、サソリさんはそう言って少しだけ笑った。私は息子をギュッと抱き締めながら、込み上げる感情を抑えるのに必死で何も答えられない。
暫し無言の時間が続く。サソリさんがチラッと周りを気にする様子を見せた。その様を見て直ぐに察する。
『もう行くんですか』
「ああ」
『……』
サソリさんはそれ以上何も言わなかった。
私も何も伝えることができない。
優しい月の光と、月下の花だけが私たちを優しく見守っている。
これで最後なのに。きっと、もう二度とサソリさんに会うことはできないのに。
私は、ずっとサソリさんに言いたいことがあったんじゃないのか。
『っ、あのっ』
サソリさんが再び私を見た。勢いで声をかけたはいいもののその視線に怯んで、目を逸らしながらモゴモゴしてしまう。
『…どうか、元気で。…できるだけ、悪いことはしないでください。怪我したらちゃんと病院行って、あのっ、あと、ご飯もちゃんと……あっ、食べられないんですよね…傀儡ですもんね……』
自分でも訳がわからなくなってしまった。サソリさんは頭に疑問符を浮かべながらもとりあえず「ああ」と相槌をうってくれる。この人が微妙なところで優しさを見せるのは相変わらずだ。
再び沈黙が訪れた。
サソリさんが去るタイミングを失って困っている。これ以上時間を取らせるわけにはいかないと思った。
できるだけ自然に。そう言い聞かせ、精一杯の笑顔を作る。
『……会えて、嬉しかったです。今日はありがとうございました』
サソリさんは相変わらず無表情だ。しかし声だけは誠実に「ああ」と答えてくれる。その返答に満足する。
言いたいことは、本当は沢山あった。でも言えそうもなかった。きっと困らせるだけだから。
サソリさんが空に輝く月を仰いだ。私たちを見守る丸い月。儚く美しい彼には、太陽よりも月の光の方がよく似合う。
見惚れていると、その視線に気付いたであろうサソリさんが少し居心地悪そうにしている。
「お前も早く帰れ。女の一人歩きは危険だと何度も言ってるだろ」
『一人じゃないです。空もいますから』
「屁理屈を捏ねるな。とにかく早く行けうっとうしい」
しっしっと雑に手で追い払われる。私は不機嫌を装って眉間に皺を寄せた。
そのままくるりと背を向け、歩き出す。
唇を噛み締めて、無心で前へ前へ進んだ。
本当は、気分を害したわけではない。涙を堪えるのに必死だったのだ。何か声を発したら、溢れてしまいそうな気がして。
数メートル進み、やっぱりせめて別れの挨拶だけでもと振り返る。
しかしそこには既に、サソリさんの姿はなかった。凪いだ草原に月下美人だけが美しく綻んでいる。それを見た刹那、一気に感情が爆発して止まらなくなった。
静かに眠っている息子を抱きながら、私は子供のように泣いた。わんわん声をあげ、みっともなく嗚咽を漏らしながら。涙がぱたぱたと空の頬を伝って落ちていく。
どうしてこんなに悲しいのか、自分でもよくわからなかった。
サソリさんに会えることはそもそも期待していなかった。もし会えるとしても、それは殺される時だと思っていたから。
だから今日こうして会うことができたのは、私にとってとても幸運なこと。あの時のお礼も言えた。助けてもらった息子の顔を見せることもできた。それだけで十分だ。
もう二度と会えなくても、悲しくなんてない。
「……なんで泣いてんだよ」
ビックリして顔を上げる。するとそこには、消えたはずのサソリさんが首に手を当てて困惑した様子で立っていた。思わず息を止めてしまう。涙だけが止まらずにぼたぼたと下に落ちていく。
『さ、そりさん…?どうして…』
「どうしてじゃねぇよ。尋常じゃない泣き声が聞こえたから。まさか襲われたのかと思って戻ってきちまったじゃねぇか」
『……』
「なんだよ。まだ何かオレに言いたいことでもあんのか?」
その言葉に、私は下を向く。サソリさんはその様子を見て察したようだ。
イライラした様子で、しかしこの場から去ろうとはしない。
「言いたいことがあるなら言え。どうせもう会うことねぇんだから」
『……』
その言葉にまた、悲しくなってしまう。
ぼたぼたと滝のように涙を流す私。サソリさんは呆れながらも私が落ち着くのを待っている様子だ。
卑怯だ。S級犯罪者のくせに。なんで彼はこんなに優しいのだろう。
出会った時からそうだった。サソリさんはいつも冷静で、現実主義で冷たくて、でも何故かちょっとだけ優しい。
私は、そんなサソリさんに何度も救われた。
『サソリさん』
「ああ?」
『…笑いませんか?』
「内容による」
『……』
「……冗談だよ。笑わないから言え。もう時間ねぇから」
本当は伝えない方がいいというのもわかっている。でも、それでも私は。何度忘れようとしてもあの日感じていた情をなかったことにできずにいた。もう二度と会えないなら。最後に少しだけ。
ごめんなさい、千秋さん。今だけはどうか、見逃してください。
『サソリさん。……私は、貴方の事をお慕い申しておりました』
心臓が、胸を突き破って出てきてしまいそうだった。身体中が震えて、必死に力を込めていないとその場に倒れてしまいそう。
サソリさんは私の一世一代の告白に、驚いた様子はなかった。しかし微妙に、いつもより眉が下がっている。困っているのだということに直ぐに気づいた。
そりゃそうである。なんて言ったって私は子持ちの既婚者だ。そして彼はS級犯罪者。アウトの上のアウト、もはやアウト以外ここには何もない。だからこそ言いたくなかった。でも、言わないと一生後悔すると思ったのだ。
『あのっ……だからと言ってサソリさんとどうにかなりたいと思っているわけでは決してないです』
「……」
『私には千秋さんもいますし、空もいます。夫に不満は全然ないんです。あくまで当時、そんなような気持ちを少しだけ抱いていたって話であって……』
「……」
『っ、もういいです、忘れてください。私最低ですよね……』
私は空の寝姿に顔を埋めた。羞恥心と罪悪感が一気に襲ってきて消えてしまいたい。
辺り一辺に気まずい空気が流れている。知らぬ間に涙は引っ込んでいた。
「……なぁ」
『……はい?』
「それ、返事ってした方がいいのか?」
『えっ!?いや、いいですいいです!わかってるんで!』
変なところで律儀である。しかし、いくら自分勝手と言われようとわざわざ心を抉られる言葉を聞きたくないのが本音だ。
『言えただけで十分ですから。スッキリしました。聞いてくれてありがとうございます』
サソリさんはまるで射抜くような瞳で私を見ている。その視線に耐えられず、私は顔を伏せたまま呟いた。
『…もう、いいですよ。行ってください』
「……」
変わらぬ無言。しかしサソリさんはこの場から去ろうとはしない。
どうしたらいいか考えあぐねていると、サソリさんが再び空気を揺らした。
「顔上げろ」
『……やだ』
「何故」
『恥ずかしいんです』
「恥ずかしい空気にしたのはお前だろうが。気が多い女め」
『べっ、別にそういうわけじゃ…!』
思わず顔を上げてしまう。すると次の瞬間、サソリさんは予め狙っていたように私の頭に手を伸ばした。そのまま撫でるように手を滑らせて、長い髪の毛を一束掴む。彼はそれをそのまま自分の唇に押し付けた。
まるでドラマのワンシーンのようだ。しかし私は当然、困惑する。
『なっ…?なにをやって……?』
「キス」
『っ、!?はっ!?」
「本当は口にしたいけど。したら怒るだろ」
サソリさんはしれっとそう答え、見せつけるように私の髪に再び唇を寄せた。
たったそれだけの行為。しかし私の顔は熱湯を浴びせられたかのように真っ赤に染まってしまう。ある意味、ダイレクトに唇を奪われるより恥ずかしい。
「……これくらいは許せよな」
サソリさんは静かにそう呟いて、少し寂しそうに笑った。その切なげな表情に更に心臓が暴れてしまう。
「お前が幸せそうでよかった」
『……』
「これからも”家族3人”、仲良くな」
噛み締めるように発されたその言葉は慈愛に満ちていた。しかしそれと同時に明確な拒絶でもあった。
私達家族の未来にサソリさんの姿はない。私とサソリさんの道が交わることは、これからも未来永劫ない。
でも、このとき。この瞬間だけは、私達の中の”何か”が確実に通じた気がした。
それを感じたら、今までの悲しみが嘘のように消え去っていく。それと同時に、きちんと彼とお別れをしようと思えた。
サソリさんの頬にそっと手を伸ばす。サソリさんは少しだけ驚いた顔をした。しかし拒否する様子はない。初めて触れたサソリさんの頬は、少しひんやりしている。
『サソリさん。ありがとうございました』
「礼は聞き飽きた」
『はい。じゃあ、最後に一つだけ』
一息ついて、私は言った。
『死なないでください』
「……」
『絶対死なないで。どこかで元気に生きていると、約束してください』
サソリさんは私の嘆願を鼻で笑った。
「オレが死ぬわけないだろ」
『そうですよね。でも、心配なんです』
「お前の方こそくだらないミスで死ぬんじゃねぇぞ。弱いんだからな」
サソリさんはそう言って、私の右手に自分の手を重ねた。サソリさんの手はやっぱり冷たい。でも、私はもう彼がとても温かい人間だということを知っている。
「……忍びの世界に絶対はない。でも、心配すんな。オレは死なない。約束する」
どこまでも自信満々なサソリさん。しかし言い切ってくれたことに安堵して、私は全てを受け入れることができた。
サソリさんがどこかで生きていてくれさえすれば、私はそれだけで生きていける。
どちらからでもなく手を離した。長くは続かないと知っていた、世界で一番愛しいこの時間が終わっていく。時を止めたいとも、戻したいとも思わなかった。ただただ、過ぎ去っていくこの時間を忘れないようにしっかりと胸に刻みつける。
風に乗って、分厚い雲が私たちの頭上を過ぎる。眩い月の光が、雲の後ろに薄くかき消されていく。
サソリさんの気配が、それと同時に忽然と途絶えた。
目の前に広がるのは無。私はもしかして夢でも見ていたのかもしれない。でも、夢でもいい。貴方にもう一度会えたから。私は今日という日を一生忘れることはないだろう。
彼に触れた右手を、眠っている息子の頬に添える。
全く違う、柔らかくて滑らかな空の頬。世界で一番の宝物を、千秋さんと二人で一生守っていこうと私は改めて誓った。千秋さんも空のことも大好きだから。だから私は大丈夫。これからもあなたたちに恥じぬよう、まっすぐ前を向いて歩いて行きます。
ありがとう、サソリさん。あなたを想うのは今日で最後にします。
『……さようなら。もしご縁があったら、来世でお会いしましょう』
ーーー貴方は間違いなく、私の初恋でした。
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