月下の花
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ふぇ…と息子がグズる声で目が覚めた。人間は母親になると、どんなに疲れていても我が子の小さな声で直ぐに覚醒できる生き物になる。
隣でぐっすり眠っている千秋さんを起こさないように、私は部屋の襖を開けた。暗い部屋で既にお目目がぱっちりな息子。手早くオムツを変え、抱き上げて母乳を与える。縦に抱っこして背中をトントン。すると大きなゲップが出た。だいぶ慣れたもので、ここまではスムーズにこなせる。問題はこれより先だ。
今日はいつもより早めに寝てしまったので、このまま直ぐに寝に入ることはできないだろうことは予想できる。しかし疲れている千秋さんを起こすのはなんとしても避けたい。いくら育児に協力的な夫でも、流石にこれ以上は負担をかけたくなかった。
少し悩んで、外に散歩に行くことにした。季節は初夏だ。このまま軽装で外に出ても問題のない気候である。
両手に息子を抱き抱え、それ以外は何も持たずに門扉を潜る。時刻は丑三つ時。ふと空を見上げてみれば、今宵は満月のようだ。いつもより空が明るい。夜の散歩には持ってこいである。
『お月様が綺麗だね』
私の言葉に、指をしゃぶりながらぽかんとしている空。4ヶ月になり首も座った息子は、話しかけるとじっと私の顔を見るようになった。伝わっている気がして、なんだか嬉しい。
今日はちょっと涼しいね、風が気持ちいいね。思ったことをぽつりぽつりと伝えながら二人で夜の散歩を楽しむ。
行く当てもなく彷徨っていると、とある小丘を越えたところで足元に何かがあるのが目に入った。思わず足を止める。
『綺麗なお花だね』
見える?と息子に声をかける。空は相変わらず私の顔を見ながら指をちゅぱちゅぱ吸っている。
そこにあったのは一輪の真っ白な花だった。満月に向かってその花弁を綻ばせている。目を奪われるその美しい佇まい。その様にひどく懐かしい気持ちになる。
『月下美人って言うんだよ』
知るはずもないのに、知ってた?と問うた。空はもちろん何も答えず、黙って私の話を聞いている。
『とても珍しいお花でね、一年に数回しか花が咲かないんだって』
「……」
『お母さんもね、見たことあるのはこれで”3回目”だよ』
「……」
『…もしかしたら…今日は何か、特別な事がおこるのかも……、ッ』
さぁっ、と駆け巡るような風が私たちの周りを取り囲む。目を瞑って、息子を強い力で抱き抱えた。
風が止んだ頃、私は再び目を開ける。二度、三度瞬きをした。目の前には変わらず一輪の美しい花が咲いている。
「お嬢さん、こんな時間に散歩ですか?」
今度は息子が二度瞬きをした。私は冷静に、顔にかかった髪をそっと手で押さえつける。
「夜道は危険ですよ。早く家にお帰りなさい」
『お気遣いをありがとう。でも、大丈夫です。私こう見えてもそれなりに強い忍びなので』
「……」
『……差し出がましいですが、振り向いても大丈夫ですか?』
数秒の間の後、どうぞ、と低く甘い声。私はゆっくりと振り向いた。
てっきりクナイを向けられていると思ったのに、目の前の彼は腕を組んでこちらを見ているだけだった。私は息子を抱き直しながら首を傾げる。
『貴方こそこんな時間に何してるんですか?まさか貴方もお散歩?』
「んなわけねぇだろ。任務じゃなきゃこんなクソ田舎こねぇよ」
確かにそうだろう。思わず笑ってしまった私に、狐の面を被った男が不快そうに舌を打つ。
「何故笑う」
『いえ。久しぶりにお会いできて嬉しかったんですよ』
「……」
目の前の男は黙っている。再び数秒の間の後、彼は困惑した様子で乱雑に髪をかき上げた。
「……覚えてんのかよ」
『はい』
「どこまでだ」
『全部です』
「……解毒薬と同時に記憶を消す薬打ったんだがな」
『最初は忘れてましたよ。でもクナイ入れを見たらぶわっと全部。思い出しました』
ーーーー今からオレの言うことを黙って聞け
朦朧とする意識の中、サソリさんは私の手枷を外しながら言った。
「残りのチャクラで己の時間を止めろ。できるだけ長く。最低限夫がこの場に来るまで止めろ」
『え…?そんな都合のいいこと…できるかどうか…』
「できるかできないかじゃねぇ。やれ。その腹の子を殺したくないんだったらな」
その言葉を聞いてしまったら、理由なんてどうでもいい。やるしかないということだけを早急に理解した。
サソリさんは懐から2本の薬瓶を取り出している。
「今から2本お前に毒薬を打つ。それが終わったと同時にやれ」
『毒って…』
「細かいことはいいんだよ。いいな。やれよ。できないんだったら黙って死ね」
めちゃくちゃである。しかし反論できる気力などあるわけがなかった。残りの力を振り絞って印を結ぶ。それを見届けて直ぐにサソリさんが私の首に針を刺した。続けてもう一本。
それと同時にーー私は己の時間を止めた。
『当時は何言ってるんだこのオッサンと思ってましたが、まさかサソリさんに助けられちゃうなんて。本当に驚きました』
「……」
サソリさんは無言で、私の頭をスパンと叩いた。その衝撃に息子が驚いて泣き出してしまう。
『いったたたた…何するんですか』
「オッサンって言うんじゃねぇよ。殺されてぇのか」
『冗談じゃないですか……あーあ、泣いちゃった…大丈夫大丈夫、よしよし』
大声を上げて泣く息子を必死に宥める。しかしあやしてもなかなか泣き止まない。息子の視線を辿って、サソリさんの狐の面を怖がっているのだと少し遅れて気がついた。
『そのお面取ってください』
「はぁ?なんでだよ」
『息子が怖がっているので』
「……なんでオレがガキのためにそんな気遣いしなきゃならねぇんだ…」
文句を垂れながらも、サソリさんは渋々狐の面を外してくれた。目の前に現れた赤い髪をしたサソリさんは、1年前と全く変わっていない。相変わらず人形のように綺麗な顔立ちである。傀儡なのだから当たり前だけれど。
サソリさんは興味はありそうな様子で、しかしどう接したらいいかわからないと言った感じに遠巻きに息子を眺めている。私は息子を宥めながら、サソリさんに顔が見えるように傾けた。
『空と言います。春先に産まれました』
「……」
サソリさんが改めて息子の顔をまじまじと見た。そして顔をピクッと引き攣らせながら心底嫌そうに呟く。
「あの男にそっくりだな……」
『千秋さんの息子なんだから当たり前じゃないですか』
「……」
『抱っこします?』
いや、いい。と秒で断られる。私も無理強いはせず、落ち着いてきた息子の顔を見ながら笑った。
『このお兄さんは空の命の恩人だよ。悪い人なんだけどね。でもちょっとだけ優しいんだよ』
いつか息子にはきちんと話そうと思っていた。いつも私と空を守ってくれるお父さんとは別に、もう一人、私達の命を助けてくれた人がいたということを。
まだ理解はできていなくとも、空は目を潤ませながら真剣に私の話を聞いている。それと同時に、うとうとし始めた。ひと泣きして疲れたのだろう。
腕をゆらゆらと揺らし、寝かしつける。夕暮れ時と違い、空はそのまま素直に眠りに入った。腕の中で息子の寝息が聞こえる。
サソリさんが感心したようにへぇ、と呟いた。
「小娘のくせに慣れたもんだな」
『そんなことないです。毎日こっちが泣かされてますよ』
穏やかな息子の寝顔を幸せな気持ちで眺める。赤子の寝顔は不思議なもので、このまま何時間でもずっと見ていられる気分になる。……でも、この顔を見られるのは今日で最後か。
初夏の爽やかな風が私達を優しく見守っている。私はこの季節が好きだ。一番好きな季節。大好きな息子とこの季節を過ごせる日が来るなんて、私は世界一幸せものだ。
そしてこの幸せは、目の前のサソリさんが全部くれたもの。
『……サソリさんは、今度こそ私を始末しにきたんですよね』
サソリさんが無言で私を見ている。私は眠っている空の頬をそっと撫でた。
わかりきっていたことだった。私はサソリさんのことを思い出してはいけなかったのだ。
暁と関わってしまった以上、私は組織にとって地雷的な存在である。
何故あの時、サソリさんが私を逃がしてくれたのかずっとわからなかった。しかしどちらにせよそれは私が記憶を失うことが大前提だったはずだ。
今日サソリさんがこの場に来たのは、私と世間話をするためじゃない。私に記憶がないことを確認しに来たのだろう。
しかし私は、前述の通り全てを覚えている。それが意味する結果は言うまでもない。
「わかっていたなら、どうしてオレの前で記憶を忘れたふりをしなかった?」
『サソリさんに嘘は通用しないと思ったのと、どうしてもお礼が言いたかったんです』
「……」
『貴方のおかげで、私はこうして空と出会うことができました。感謝してもしきれません。本当にありがとう』
サソリさんは相変わらず無表情だ。月夜に輝く赤い髪が、あの日と変わらず悲しいくらいに美しかった。
『思い残すことはそんなにないです。十分すぎるくらい寿命を伸ばしてもらっちゃいました。だから大丈夫です。空を布団に寝かせたら戻ってきますね』
そう言い残してこの場を一旦去ろうとすると、サソリさんは私の足元にクナイを一本投げつけた。地面に刺さり、危うく躓きそうになってしまう。月下美人の花が僅かに揺れた。
サソリさんの口から、深い深い溜息が吐き出される。
「人の話を聞かないのは相変わらずだな」
『…は?』
「お前が死んだら息子はどうするんだ」
言われて、改めて腕の中の息子を眺める。息子はこの世の不幸なんて何も知らない顔で寝息を立てている。世界で一番大事な、愛しい愛しい息子。
私が死んだら息子がどうなるか。少し考えただけで胸の奥がギュッとなってしまう。
サソリさんは冷静な声色で続けた。
「オレは確かに、お前の記憶がきちんと消えているか確かめにここに来た」
『……』
「でもそれは、個人的な興味だ。あの薬を使ったのが初めてだったもんでね。結果としては不完全なものだった。また研究し直さないとならないな」
ふぅ、とサソリさんは再び溜息をついた。
私は無言でサソリさんの言葉を待つ。
「木ノ葉にも、雲にも、暁の情報が漏れた形跡は見られなかった。お前が口を割らなかったことは既に調査済みだ」
『……』
「記憶が消せなかったのは単なるオレの力不足。安心しろ。オレにお前を殺す気はない」
あっさりと打ち明けられたサソリさんの意図。その場にへたり込みそうになってしまうのを必死に耐える。自分でも気づかなかった。私は今の今まで、サソリさんに殺されることを恐れていたようだ。この日が来ることはずっと覚悟していたはずなのに。
ドッドッドッ、と今更になって心臓が激しく騒ぎ出した。
「どちらにせよお前は組織内では既に死んだことになっている。仮に今お前を殺して、それがバレたら逆にややこしいことになるんだよ」
『それは有難いですけど……でも、本当はあの時利用価値のある私を殺したと見せかけた事、怒られたんじゃないんですか?』
「怒られたなんてもんじゃねぇよ。殺されるところだった」
サソリさんは当時のことを思い出したのか、少し苦い顔をしている。リーダーに怒られるサソリさんというのも中々興味深いものだ。しかし突っ込まれたくはないだろうと、あえて追及はしないことにする。
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