月下の花
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私はこの季節の月が好きだ。静かな夜に縁側で眺める低くて丸い丸い月。
しかし今の私には、その月に目を向ける余裕が全くない。朝から全く変わらない、とっ散らかったままの部屋。手を付けられていない夕食になる筈だった食材の数々。
そして、部屋に響き渡る幼な子の泣き声。
「ただいまー……って、どうしたの?大丈夫?」
千秋さんがリビングにへたり込んでいる私に目を白黒させている。その顔を見た瞬間、今まで堪えていた涙がぶわっと吹き出して止まらなくなった。千秋さんが慌てて私に駆け寄ってくる。
『千秋さん…っ、ごめんなさい、ご飯の準備も、お風呂の準備もっ、まだ…』
「そんなのはいいから。ただいま、”ソラ”。ご機嫌斜めだね〜」
ひょいっと私の腕の中から息子を抱き上げて千秋さんは笑った。それだけで、けたたましい泣き声が啜り泣くか細い声に変わる。母親として酷く情けない気持ちになった。
『夕方からずっとこれで…何で泣いてるのかわからなくて…』
母乳もあげたし、オムツも何度も確認した。量が足りないのかとミルクも追加してみたけど受け付けず。
眠いのかと抱っこしてゆらゆらしても寝てくれない。むしろ抱っこが嫌なのかと降ろしてみたら、今度は呼吸困難になるまで泣き喚く。
仕方がないので泣き続ける息子を抱えたままリビングにずっと座り込んでいた。おかげで肩はガチガチ、足は血流が止まって感覚がなくなってきている。それより何より、ここまで泣かれしまうと何か病気にでもなったのではないかと不安でたまらなかった。
『こんなに泣き止まないなんて…どこか悪いんでしょうか?』
「んー……」
千秋さんは不安がる私に曖昧に答えながら、空を縦に抱っこしてトントンと背中を叩いている。するとぴたりと泣き声が止み、あっという間にスヤスヤと寝息が聞こえてきた。頭を鈍器で殴られた気分である。
「眠かったみたいだね」
『え……!?だって私が抱っこした時は、全然…っ』
唇に指を当てられ、慌てて口を結ぶ。私は声のボリュームを最小限に落とした。
『私が抱っこしても、全然寝てくれなかったのに……』
しかし現に息子は千秋さんの腕の中でぐっすり眠っている。その寝顔に呆然としてしまった。千秋さんは少し困ったように笑っている。
「偶然だよ。泣き疲れたんじゃないかな」
『…私が何かダメなんでしょうか…』
「違うって。君にはきっと甘えてるんだよ」
『……』
「ほら。せっかく寝たんだから君も休みな?こんな調子じゃ全然休んでないでしょ」
空は僕が見てるから、と千秋さん。そう言われても、千秋さんだって一日中任務に赴いていて疲労困憊のはずだ。本当は直ぐにでも食事をとって休みたいはず。
私の心の迷いをすぐさま読み取り、千秋さんは片手で私の頭をぽんぽんと撫でた。
「僕のことはいいから。ね?少しだけでもいいから寝てきなよ」
昨晩も夜泣きが酷くてほとんど寝られなかった上、今日のこれである。疲れがメーター振り切れているのは否めない。
痛む頭を押さえながら、私は答えた。
『…じゃあ、お言葉に甘えて少しだけ休みます』
「うん。そうしな」
****
仮眠を取るつもりが、ガッツリ寝てしまった。
やってしまった。ご飯も、お風呂も、片付けも何一つしていないのに。疲れた夫と子供を放置して、一人だけ爆睡。母として、妻として最悪である。
「あ、おはよう。よく眠れた?」
慌ててリビングに戻ると、千秋さんが新聞を読みながらお茶を啜っていた。ベビーベッドの上では息子が穏やかに眠っている。その姿にとりあえずほっとした。時計の針は既に深夜0時を指している。
『ごめんなさい。お腹すいたでしょう。何か作ります』
「ああ、大丈夫。適当に作って食べたよ」
美羽さんの分もあるよ。と千秋さん。目眩がしそうになった。
『えと…お風呂は?』
「掃除して沸かしておいたよ。入る?」
『……』
冷静になって辺りを見回してみると、散らかっていた部屋もさっぱり綺麗になっている。私が眠っている間に全てやってくれたらしい。シンクにもお皿一つ残っていない。
私はよろよろと扉に寄りかかってしまった。千秋さんが慌ててこちらに走り寄ってくる。
「どうしたの?大丈夫?まだ眠い?」
『いえ…あまりにも自分が情けなくて…』
「ええ?」
『本当にごめんなさい……妻として失格です……』
千秋さんは私の言いたいことを察したようで、ああ、と相槌を打った。
「気にしなくていいよ。君は一日空の面倒を見てくれてるんだから。疲れて当然でしょ」
『でも千秋さんは一日任務した上にここまでやってくれて……やっぱり私がダメで……』
「僕は男だから君より体力があるだけだよ。そもそも育児は君だけの仕事じゃない。二人で協力してやっていこうって約束したよね」
私のお腹に宿った命は、奇跡的に順調に育ってくれた。
妊娠を伝えた時の千秋さんの喜びようは今でも鮮明に思い出せる。沢山不安もあった。でも、千秋さんは迷わず産んで欲しい、僕が守るから一緒に頑張ろうと言ってくれた。私もその言葉を信じて、頑張ろうと思えた。
育児は思った以上に大変で、何度も心が折れそうになった。しかし言葉通り千秋さんが私を支えてくれ、こうしてなんとかやってこれている。
「毎日お疲れ様。僕は君と空が家にいてくれるから頑張れるんだよ」
頭をよしよしと撫でられ、また涙腺が緩む。産後のホルモンバランスなのか落ち込むことが増え、面倒くさい発言をしてしまい千秋さんを困らせることも多々あった。しかし毎回千秋さんは私に真摯に向き合い、励まして元気づけてくれる。私にはもったいないくらいよくできた夫だ。私は千秋さんが大好きである。
ギュッと千秋さんに抱きついた。不意打ちによろめく千秋さん。私は気にせず千秋さんの首に両腕を回そうとした。その時、彼の腰元についているあるものに触れる。思わず顔を顰めてしまった。
『あの…千秋さん』
「うん?」
『クナイ入れ。やっぱり新しく買いませんか?』
千秋さんの腰についているクナイ入れ、もどき。私が作ったあまりにも不恰好なそれを、千秋さんは毎日身につけてくれていた。
しかしやっぱり明らかに浮いている。身綺麗にしている千秋さんにはあまりにも不釣り合いだ。
いっそのこと取ってしまおうとすると、千秋さんが腰を引いてそれを避ける。
「必要ないよ。これ、とても気に入ってるんだ」
『でも、やっぱり変です。せめて新しく作り直させてください』
「だーめ」
千秋さんはそのまま私の唇を塞いだ。千秋さんのキスはいつも優しくて甘い。その感触に毎回うっとりしてしまう。
千秋さんは蕩けている私を見て、心底愛しそうに笑った。
「君からの初めてのプレゼントだから。大事にしたいんだ」
この人は、相変わらず私を気持ちよくさせるのがとんでもなく上手い。胸が熱くなって、本当に溶けてしまいそうになる。
『……千秋さん、』
たまらず私は千秋さんの耳に唇を寄せた。ゴニョゴニョと声を顰める。私の発言に顔を真っ赤にさせて咽せる千秋さん。ダメですか?と畳みかけてみたら、私を抱く千秋さんの腕に力がこもる。
「そりゃ僕はしたいけど……君の身体が心配で」
『したいです』
「……」
チュッ、と頬にキスをされた。そのまま唇を期待しても、それ以上はしてくれない。不満に思って眉間に皺を寄せると、千秋さんがふっと色っぽく笑った。
「続きはベッドで。……かな」
その言葉に、今度は私が顔を真っ赤にして俯く番だった。
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