月下の花
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『言いたいことが、あって』
「うん」
『私は……確かに今まで、千秋さんのことを”夫”というカテゴリーでしか見ていませんでした」
「……」
『私にとって”結婚”という言葉があまりにも重くて。その枠に嵌ろうと必死で、他のことを考える暇がなかったんです』
ごめんなさい、と彼女は言った。僕は無言で彼女の話の続きを待つ。
『私、人と付き合うのが凄く苦手で。新しい里の人と、上手く関われなくて。良く思われてないのを察してから、余計どうしていいのかわからなくて、から回ってばっかりで』
「……」
『千秋さんは私にずっと優しくしてくれたのに。気持ちへの答え方がわからなかったのと、里に馴染めない焦りがあって。素っ気ない態度ばかりになってしまいました。本当にごめんなさい』
「……」
『言い訳になりますが、千秋さんしか味方がいないから、嫌われたらどうしようってずっと怖かったんです。そうしたら何も話せなくなってしまって』
初めて知る。美羽さんが僕に嫌われることを恐れていたことを。そんな心配なんて全く必要ないほど僕は彼女にベタ惚れだったのに。
美羽さんは僕に対して深々と頭を下げた。
『沢山傷つけてごめんなさい』
「いいんだよ。僕の方が君を傷つけたから」
『千秋さんは私を傷つけてなんていません。貴方は私にずっと優しかった』
「……」
『ダメなのは全部私です』
「何度でも言うよ。君は悪くない。今までのこと、本当に感謝してるんだ」
『……』
「色々話してくれてありがとう。短い間だったけど、君と過ごせて嬉しかった。もう十分だよ。君はこれからまた、一人の忍びとして、女性として。自由に生きて欲しい」
じゆう、と噛み締めるように美羽さんは呟いた。僕は微笑みを一つ残して再びゆっくりと歩き出す。
シーの言う通りだ。話し合ってよかった。美羽さんの心の内を初めて知ることができたから。僕たちは何故今までこんな簡単なことができなかったのだろう。もっと早くこうして話し合えていたら、これからも夫婦として一緒に過ごす道もあったのかもしれない。そう夢を見るくらいは許されるだろうか。
『…千秋さん!』
美羽さんが僕を追いかけ、右手をキュっと掴んだ。細い指先が氷のように冷たい。
振り向くと美羽さんがガラス玉のように澄んだ瞳で僕を射抜いていた。僅か19歳の少女。その少女の、決意を固めた瞳。それはあの日、僕の結婚の申し込みを受けてくれた時と同じ顔だった。
『わたしっ……早瀬の家に帰りたいです』
数秒遅れて「……ん?」と情けない声が出る。
美羽さんは迷いない瞳で僕を見つめたままだ。
『自由に生きていいんですよね。それならば私は千秋さんと家に帰りたい』
「……。ごめん。あのさ、話聞いてた?」
『はい?』
「離縁しようって言ったよね。君は木ノ葉に帰るんだよ」
『嫌です』
「なんで?」
『私、千秋さんと一緒にいたい』
ぎゅう、と彼女の握った掌に力が籠る。ドッドッドッ、みっともなく暴れる心臓。美羽さんの熱の籠った視線に眩暈がしそうだった。
だってこんなの、期待してしまうじゃないか。そんなことはありえないってわかっているのに。でも。
美羽さんの体温と、表情と、言葉と。どれを切り取っても嘘をついているようにも演技をしているようにも思えない。
もしかして彼女も僕のことが、なんて。何百回も妄想して、その度に現実に打ちひしがれてきたというのに。僕はまだ、この期に及んで夢を見ようとしているのだろうか。
美羽さんの瞳に、再び水の膜が張る。もう二度と泣かせたくないと思っていたくせに。もしまた泣かせてしまっても、彼女の言葉の続きが聞きたい。一分でも、一秒でも早く。そう思ってしまう僕は、やっぱり自分勝手な悪い男だ。
『千秋さん。……私も、貴方が好きです』
彼女の瞳から涙が溢れる。一筋のラインが、夕暮れをキラキラと反射させて落ちていく。
『今までずっと…っ、沢山、たくさん、本当にごめんなさい』
「……」
『勝手な事を言っていると、わかってるんです。でも私は、貴方が好きです。ほんとに、好きです。もう、離れたくないです…っ』
美羽さんはそこまで言うと、ついに顔を伏せてわんわんと泣き始めてしまった。僕は呆然としたまま彼女のつむじを見つめている。
彼女の告白を嬉しいと思う反面、素直に受け入れられない自分がいた。美羽さんが僕のことを好きって、本当なのだろうか。だって君は、あいつの事が。……狐の男の事が好きなんじゃないのか?
そこで思い出す。サクラさんは美羽さんが一部記憶を失っていると言っていた。一体どこまで覚えていて、どこを忘れているのだろう。もしかしたら彼女は狐の男と出会ったこと自体を覚えていないのではないだろうか。
泣いている美羽さんを眺めながら、あの時美羽さんを見ていたサソリの姿を思い出す。
冷たい瞳で、しかし他の者には目もくれず美羽さんだけを見ていたあの男。
あの日あの時、彼女の時間を再び動き出させる責務を託されたのは僕だ。しかし美羽さんの命を助けたのは、他でもなくあの男だった。なぜ敵であるアイツがそんな事をしたのか。その答えは考えなくてもわかっている。
それはあの赤髪の男も、美羽さんのことが好きだったからだ。
それを知っていながら僕が彼女の気持ちを受け入れるのは、結局彼女に対する裏切りになるのではないだろうか。彼女は自分が恋焦がれたあの男がまさか自分のことを好きだったなんて夢にも思っていないだろう。
第三者である僕だけが知っている二人の恋心。それは敵同士の決して叶わない恋。しかし二人の気持ちは、お互いを思い合う気持ちは、確かにあそこにあったのだ。僕なんかが入り込めない深い深い絆。それは決してなかったことにはならないだろう。
悶々と悩めば悩むほど目の前の彼女にどう声を掛けていいのかわからなくて、途方に暮れてしまう。
『千秋さん…っ、千秋さん』
泣いている美羽さんが何度も僕の名前を呼ぶ。僕を求める好きな女の子の色めかしい姿。必死に紳士を装おうとした面の皮が剥がされていく。
『貴方が好きです。ずっとそばにいて欲しい。……ごめんなさい、でも、好きなんです』
そう甘えられてしまったら、もうダメだった。かろうじて保っていた理性が塵のように吹っ飛んだ。
無我夢中で彼女を抱き寄せる。美羽さんはそれを受け入れ、僕の背中に両腕を回した。いつもは冷たい彼女の身体が、燃えるように熱い。
世界で一番好きな女の子が、望んで腕の中にいてくれる。夢みたいだ。でも、これは紛れもない現実。
迷うな、と自分に言い聞かせた。僕が迷ったら、また彼女が独りになってしまう。
「本当に、”僕”でいいんだね?」
美羽さんが顔を上げる。そしてはっきりと『はい』と答えてくれた。
僕はやっぱり最低な男だ。罪悪感なんてあっという間に消え去った。僕はただただ彼女を手に入れたくて仕方がない。
貪るようにキスをした。美羽さんはやはりそれに答えてくれる。
僕たちは今まで数えきれないほどのキスをしてきた。でもそれは一方的な僕の欲の押し付けに過ぎなかった。
初めてお互いが平等にお互いを求めているこの感覚。一方通行でない想いが、こんなにも心地良いなんて。
『千秋さん。ーー助けてくれて、ありがとうございました』
愛してる。誰よりも、何よりも。あの男が君を想うより、ずっと僕の方が君を想ってる。
だから、関係ない。君が他の男に恋焦がれた過去も、あの男も君が好きだったことも。
君たちの秘密の恋が、なかったことにはならなくとも。僕がその分、何度だって、死んでも君を愛するから。
だから神様。ーーーずるい僕を許してください。
長いようで短い夏の終わり。僕たちは、やっと夫婦として始まることができたのだった。
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