月下の花
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救いを求めるような瞳で僕を見ている美羽さん。どうにか安心させてやりたいと、努めて明るく僕は笑った。
「君が心配することは何もない。当面の間費用はこちらが負担するし、居住に関しても、君が元々住んでいたアパートがまだ空いているようだったから、そこを手配するつもりだよ」
僕の言葉に、美羽さんは項垂れる。あまりに大く情報を詰め込まれすぎたから混乱しているのだろう。僕はそれ以上何も言わず、彼女の思考が整理されるのを待つ。
美羽さんはしばしの沈黙の後、左手で自分の服の裾をギュッと掴んだ。
『…それは、私達の夫婦生活を終わらせるということでしょうか』
「……うん。だから、詳しいことはまた改めて」
『それは……ッ、私が、千秋さんにとって…もう必要ないってことですか…?』
美羽さんがぱっと顔を上げた。僕の知っている美羽さんは、いつもは人形のように顔の筋肉が動かない子だ。
しかしその彼女が今、目を真っ赤にして、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。その様に絶句する。
こんなに感情を爆発させている美羽さんを初めて見た。激しい動揺に襲われると同時に、何故泣かせてしまったのか全くわからない。
「えっ…!?ごめん、ごめんね…!どうしたの、泣かないで」
顔を覆って泣いている美羽さんを目の前に、泡を食う僕。オロオロしていると、後頭部を思い切りぶっ叩かれた。見れば、シーが僕を軽蔑の眼差しで見下げている。その隣で生暖かい眼をしているダルイ。
シーはこめかみを抑えながら苛立ちを隠せない様子である。
「おっまっえっは…ことごとくアホだな」
「は……?」
「この子が遠路はるばるお前に会いに来た意味を少しは考えろよ。まさか別れ話を聞くために手負いの体引きずってわざわざ山を越えてきたとでも思ってんのか!?」
確かに、そう言われればそうだけど。
でも、僕たちには今まで一緒に過ごしてきた経験がある。美羽さんは確実に僕のことを好きではなかったし、木ノ葉に帰りたがっていたのも事実だろう。それならば僕の指し示した道は彼女にとっては吉報であるはず。
困惑している僕に、シーはうんざりした様子で、しかし辛抱強く「あのな」と語りかける。
「あの時も言ったろ。話し合えって。一方的に話すんじゃなくて話を聞いてやれって言ってんだよ」
「……」
「なぁ、美羽さん。君は千秋に話したいことがあるんだよな?」
シーの言葉に、美羽さんは嗚咽を上げながらも必死に首を縦に振っている。ほらみろ、と僕を睨むシー。
「話があるから会いにきたんだとよ。きちんと向き合え」
「……」
「っとにお前は…なんで本命にだけそんなに鈍いんだよ。どうでも良い女には馬鹿みたいに立ち回り上手いくせに」
「美羽さん。こいつこれから暇だからさ、一緒に散歩でもしてきたらどう?」
ダルイの言葉にも必死に首肯する美羽さん。なんだ、コイツらには何が見えているんだ。完全に僕だけ置いてけぼり状態である。
立ち尽くしている僕の肩をぽん、と叩くシー。
「ほら行ってこい」
「いや…でも僕任務が、」
「んなことはいいんだよ。オレたちがやっとくから行ってこい。そして帰ってくるな」
「これ以上奥さん泣かせるんじゃねぇぞ」
今まで頑なに手伝ってくれなかったのにどういう風の吹き回しだ。二人に背中を押され、僕は観念して美羽さんに「…行く?」と声を掛ける。彼女は俯いたまま、しかしはっきりと首を縦に振ってくれた。
行く当てもなく歩き出す。美羽さんは僕の半歩後ろを律儀についてきた。
空気は勿論気まずいままである。基本的に美羽さんは自分から僕に話しかけてくることは滅多にない。いつもは僕から話しかけるけれども、流石にこの状況で他愛もない雑談をするわけにもいかないだろう。
さて、どうしたものか。
『…すみませんでした。取り乱して』
会話の封を切ったのは意外にも美羽さんだった。美羽さんはまだ瞳に涙を滲ませながら、しかしだいぶ落ち着いた様子である。
「いや、こちらこそごめん。いきなり話されてびっくりしたんだよね」
『……』
美羽さんがムスッと顔を顰めた。今日の彼女はなかなか表情豊かである。
『…びっくりしたのは確かですけど。別にそれで泣いたわけじゃありません』
不躾な態度で美羽さんはそう呟いた。いつもの彼女とはかなり様子が違う。
その形相に訝しく思ったのは数秒で、これは美羽さんの素なのだということにすぐ気づいた。夫に忠実で、従順な妻はもうここにいない。彼女はもう演技をすることを辞めたのだろう。
僕は初めて、本当の美羽さんと話をしているのかもしれない。
見切りをつけられたのだろうと悲しく思う反面、この変化はなかなかに興味深い。
「身体は平気?どこか店に入ろうか」
『いえ。このまま歩きたいです』
「そう。しんどくなったら言ってね」
土を踏みしめるようにゆっくりと歩く。そういえば、美羽さんと二人で雲の街を散歩するのは初めてだ。結婚をしてからなんだかんだで慌ただしくて、二人でのんびりするという機会がなかった。その機会が最後の最後に得られるなんて、僕は意外に幸せ者かもしれない。
『…あの、さっきの話なんですが』
美羽さんが言葉を探している。僕は周りの風景を眺めながら、なに?と呑気に答えた。美羽さんが演技を辞めた今、僕も過剰に彼女に気を使う必要はないだろう。
『離縁するって、本気ですか?』
「うん。まぁ、君の身体が回復してからだけどね」
『…何故ですか?』
「何故って…理由は色々あるでしょ」
寧ろ僕より君の方がその理由には詳しいと思うけど。そう言おうとして、あまりにも嫌味ったらしく感じられてやめた。
美羽さんが爪先に視線を置きながら、少し考えるような仕草を見せる。その細やかな動作すら絵に描いたように美しく感じられて、僕の心臓が高鳴るのは相変わらずだ。
『…料理が下手だからですか?』
「は?」
『それとも、雲に来て太ったからですか?』
「……」
『それとも、掃除が甘かったこと?お金使いがダメでしたか?でも考えてみたら裁縫もダメだし、だらしないし、ああッ…庭の花の世話サボって枯らしたからですね!?』
「いや…あの…」
『ごめんなさい…思い当たる節が多すぎてどれが理由かわかりません…ッ』
「とりあえず落ち着いて…」
一人でパニックに陥っている美羽さんを必死に宥める。シーが美羽さんのことを、見た目は大人びているけれど中身はまだ子供だと言ってたことを思い出した。なるほど確かに、こうして取り乱している彼女を見ると年相応かむしろ幼く見える。今までは無理して僕に合わせていたのだろう。
「違うから。君の料理は美味しいし、全然太ってない。生活に対しても特に不満はないよ」
『……』
美羽さんが『納得いかない』と顔に書いて口を引き結んでいる。そのあまりにも子供っぽい姿に思わず笑ってしまった。ああ、なんだ。この子はこんなにも表情の豊かな子だったんだ。
今までの美羽さんより、素の美羽さんの方が更に好きだと思った。まだまだ彼女の色んな顔が見たいという欲求が出る。しかしその欲を彼女に押し付けることはもう許されない。
でも、だからこそ僕も今までで一番素直に彼女に向き合える気がした。
僕の背中を押すように、夕凪がさわっと駆け巡る。何百回、何千回と感じたこの気持ち。改めて伝えたいと心から思った。
「僕はね。……君が好きだよ」
美羽さんがハッと足を止める。それに倣って僕も足を止めた。美羽さんがいつも通りの怯えるような瞳で僕を見ている。この表情が拒絶ではないことを、僕はもう知っていた。だから僕は、もう口を噤んだりなんてしない。
「君のことが本当に心から大好きだよ。出会ってから今まで、この気持ちだけは一度も見失ったことがない」
『……』
「でも僕は、君が僕と同じ気持ちではないことも知っていたんだ。仕方がないとは思う反面、それがとても苦しかった。その温度差に僕が耐えられなくなったんだ」
『……』
「わがままでごめんね。それが今回離縁を決めた理由だ。だから君は何も悪くないんだよ」
美羽さんは黙っている。しかし僕から決して視線を逸らそうとはしない。彼女も必死に僕と向き合おうとしてくれていた。その誠意が嬉しい。
何度も何度も口を開きかけて閉じる。必死に言葉を探している美羽さん。モゴモゴしている内にまた頬が赤くなり始めている。あまりにも可愛い。しかし笑うのは悪い気がして、口元を押さえて必死に耐える。
美羽さんが恐る恐る、僕の服の袖をキュッと掴んだ。重症だ。彼女が作り出すものは、服の皺すら愛おしいと感じてしまう。
『…っあの、あのっ』
「うん」
『あのっ…』
「うん」
『……』
「ゆっくりでいいよ。ちゃんと聞くから」
美羽さんは睫毛を伏せ、肺に空気を取り入れている。ふぅっと大きく息を吐き出してから、彼女は再び僕の顔を見た。やっぱり今日はちゃんと、”僕”を見てくれている。
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