月下の花
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終わりかけた夏の日。けたたましく泣き喚いていた蝉もすっかり身を潜めた侘しい夕暮れ時。猛暑の頃は煩わしく感じていた蝉の力強い鳴き声も、過ぎ去って仕舞えば少し物寂しい気がした。
ゆっくりと近づいて来る秋を知らせるように、早くも耳に響くのは鈴虫の鳴き声。しかし残暑はまだまだ厳しい。顎に滴る汗を拭いながら、僕は腹の底から溜息を吐き出した。
「あー…もうまじやってらんねぇ…」
「文句言ってねぇで手動かせよ」
「やってるやってる…つーかお前らもいるなら手伝えよ…」
「お前に与えられた任務なんだから仕方ねぇだろ」
「千秋先輩がんばっす〜」
数メートル先の木陰で涼んでいる、シー、ダルイ、オモイ。奴らは先ほどからずっとそこにいるのに全く僕のことを手伝おうとしない。なんて薄情な奴らだ。しかしこれ以上文句を言う気力もなく僕は仕方なく手先に視線を落とした。緑がどこまでも深く生い茂っている。
現在の場所、雷影室の庭園。
遂行中の任務は……除草任務。
随分積み重なった雑草の山。しかし雷影室の庭園はとんでもなく広い。甘く見積もってもあと一週間はかかりそうなレベルの広さである。
上忍の僕が何故こんなDランク任務をやっているのかというと、僕が上の指示に従わず暁のあれやこれやに足を突っ込んだのがバレたからだ。私情による勝手な判断で里の沽券に関わる行いをした僕は雷影様の逆鱗に触れ、それはそれは力の限りぶん殴られた。痛いなんてもんじゃない。顔が割れたかと錯覚したと言っても過言ではなかった。あの時ダルイとオモイが仲裁に入ってくれなければ本気で殺されていたかもしれない。
その後も雷影様の怒りは収まらず、一時は僕を里から追放する方向に話は進んだそうだ。しかし周りの計らいにより、一ヶ月間通常の倍量の任務をこなすことと引き換えに今も僕は雲隠れの里でこうして生活をしている。
個人的にはここまできたら抜け忍になっても別に構わないとすら思っていたのだけれど。僕をこの里から追い出さないために尽力を尽くしてくれた同期の顔にこれ以上泥を塗るわけにもいかないだろうと渋々承諾し、現在に至る。
それにしても、だ。今日は既にSランク任務を2つこなしている。その上にこの除草任務。いくらタフな僕でも相当に厳しい。
元気に生い茂る緑を忌々しく睨みながら、僕はまたため息をつくのだった。
「そういえば、奥さん。具合どうなんスか?」
呑気に飴玉を舐めながらオモイが思い出したようにそう呟いた。僕は雑草を処理しながらあー、と適当に相槌を打つ。
「怪我自体は大したことないみたいだ。ただショックなのか敵の術なのか一部記憶喪失になってるってサクラさんが言ってた」
「言ってたって…直接聞いたわけじゃないってことですよね。いいんスか?お見舞いとか行かなくて」
「この任務量でどう見舞いに行けって言うんだよ…」
明けても暮れても任務任務、また任務。木ノ葉に顔を出すどころか家に帰ることすらままならない。
しかしオモイは納得いかなそうにでもさー、と食い下がる。
「そもそもなんで木ノ葉に?雲の病院に入院させればよかったんじゃないスか?」
『雲は美羽さんを既に亡き者として扱ってたんだぞ。信用できるわけがない。木ノ葉の方が確実に美羽さんを大事に診てくれる』
下手に雲の病院に連れて行こうものなら何をされるかわかったものではない。暗殺は流石にないにしても、彼女の療養を無視して、暁の情報をあれやこれや引き抜こうとするに違いないのだ。後に事情聴取が入るのは仕方なくとも、手負いの身の彼女には今は何も考えずゆっくり休んでもらいたかった。その点木ノ葉は上手くやってくれているようだ。彼女の療養先に木ノ葉を選んだのは英断だっただろう。
「会えなくて寂しくないんスか?」
その言葉に、一瞬手を止める。しかし直ぐに僕は目の前の雑草を一本引っこ抜いた。
「寂しい寂しくないの問題じゃねぇんだよ。美羽さんの身体が第一だろ」
「でも流石に、一回も顔見てないのはまずくないか?奥さん不安がってるんじゃねーの?」
話に参入してきたのはダルイだ。拭おうとした汗が頬の傷口に入り思わず顔を顰めてしまう。
「お前らも知ってんだろ。美羽さんと僕は普通の夫婦とは違う。美羽さんは僕がいない方が休めるんだよ」
責任感の強い美羽さんは、僕がいたら自分の怪我も忘れてあれやこれや世話を焼こうと立ち回ってしまうだろう。今まではその厚意に甘えていたが、これからはそういう訳にもいかない。
「とにかく、僕たちのことは心配ねぇから。服や必要なものはマブイさんが送ってくれてるし何の問題もない」
先ほどから書物を読み耽っていたシーが、初めて顔を上げた。そして馬鹿にするように目を細め一言、「ヘタレ」。
ムッとするが、言い返せない僕であった。
「つーかなんでシーは無罪放免なんだよ」
「日頃の行いと信用の差だろ」
「よく言うぜ……」
同じ穴の狢のくせして偉そうに。しかしシーは僕のわがままに付き合ってあそこまで来てくれた雲隠れ唯一の人間。感謝こそすれ、責める謂れは勿論ない。内心はむしろシーに罰則がなくてほっとしていた。癪だから言わないし、どちらにせよ雑草を抜くくらい手伝ってくれてもいいとは思うが。
黙々と作業を進める。今日も家に帰れそうにないとうんざりすると同時に、少し安堵している自分がいることを僕はもう知っている。
迎えを待つ人間がいない家というのは想像以上に侘しいものなのだ。下女が用意してくれている食事や、掃除に文句があるわけでは決してない。でも、それでも。そんなものは何も用意されていなくとも、彼女がただ一言『おかえりなさい』と笑ってくれる家に帰りたくて仕方がない。その幸せが二度と手に入らないことは、わかっているのに。
会えなくて寂しくないわけがない。せめて夢で会えたら、と何度願ったことだろう。しかしそんな都合の良い事象など起こるわけもない。
彼女の心臓の鼓動と、息が戻った時のあの霧の晴れるような喜び。顔を合わせられずとも、あの気持ちだけで僕はこれからの人生を十分生きていける。僕の彼女に対する役目はあの瞬間に終わった。この青空の元、彼女が元気に生きていてくれれば僕はそれ以上何も望むことはない。
『……千秋さんっ』
自分でも呆れる。頭でいくら綺麗事をこねくり回しても、恋しく想いすぎて幻聴が聞こえてきた。
『千秋さん?』
……。それにしても、妙にリアルだな。ついに頭がイカれたのか?
『千秋さんってば!』
「……っ!?」
ギョッとして顔を上げる。するとそこには息を弾ませながら僕の様子を伺っている少女の姿。今度は幻覚が見え始めた。ついに僕の頭は本気でおかしくなったようだ。
「あれっ!?美羽さん。もう身体はいいんスか?」
今まで頑なに日陰から出なかったオモイがこちらに走り寄ってきた。彼女は振り返り、落ち着いた声色で『はい』と答える。
『元々入院するような怪我じゃないですから』
「木ノ葉にいたんですよね?ここまでどうやって来たんですか?」
『歩いてきました』
「歩き!?一人で!?言ってくれれば迎え寄越したのに」
木ノ葉から雲まではかなり険しい道のりだ。金銭や女性の強姦を目的とした山賊も多くいる。だからいつも彼女の里帰りには必ず護衛をつけていた。それなのに彼女は、手負いの身で満足な装備を持たず、一人山を越えて歩いてきたらしい。それ自体もあり得ないし、そもそも美羽さんが雲に帰還すること自体がおかしな話なのである。
「…ちょっと待って。君のことは全面的に木ノ葉にお願いしたはずだよ。これからのことをサクラさんはなんて?」
これが現実だと受け入れるより先に口が動いた。美羽さんは罰が悪そうに目を泳がせ、素直に『ごめんなさい』。
『退院したいと伝えたら、難しいとごねられたので無断で抜け出しました』
「無断で…」
その言葉に頭を抱える。確かに木ノ葉が彼女を勝手に退院させるとは考えづらい。僕は直ぐにオモイに指示を出した。
「悪ィけど木ノ葉に連絡してくれ。大騒ぎになってるだろうから」
「あー…了解っス」
オモイは苦笑しながらこの場を走り去って行った。一先ずは安心だが、状況は混乱を極めたままだ。
久しぶりに会った美羽さんは、雲で生活していた時よりも幾分かほっそりしている。元々線が細くて色白な彼女が更に心配になる儚さだ。それほど雲を出てからの生活が過酷だったのだろう。
しかし相変わらず彼方の月のような麗しさは健在である。その佇まいは何度見ても見惚れてしまう。
もう二度と会えないことも覚悟していたのに。こんなにあっさり目の前に現れた美羽さん。あまりにも突然すぎて感動する暇がなかった。でも、確かに感じる心の安寧。僕はこの場でこっそり悦に浸った。
ああ、彼女が生きていてくれてよかった、と。
『…あの、千秋さん』
美羽さんはおずおずと僕の名前を呼んだ。
『お顔、どうされたんですか?』
言われて思い出す。例の事件のせいで僕の左頬は腫れ上がって無惨なことになっているのだった。せめて彼女と会う時は、もう少しまともな顔でいたかったのに。
「あぁ…ぼーっと歩いてたら電柱にぶつかってさ。大した事ないよ」
我ながら苦しい言い訳である。美羽さんは疑惑の眼差しを向けながらも突っ込む事はせず、小さな声で『そうですか』と言った。
『私より大怪我してるじゃないですか。病院行きました?』
「え?ああ…こんなの放っておけば治るよ」
『ダメです。ちゃんと見せてください』
美羽さんが躊躇なく僕に近づき、左手で僕の頬に触れた。ドキッとして、思わず手を振り払って後退りしてしまう。美羽さんが大きな瞳を瞬かせた。
『あの…?』
「えっ!?や、ごめん、ビックリして…」
美羽さんが目の前にいるだけで卒倒してしまいそうなのに、触られるのは今の僕には刺激が強すぎる。
しかしそんなことを美羽さんに言えるわけもなかった。美羽さんはただただ不思議そうに僕を見つめている。
やばい。僕、めちゃくちゃカッコ悪い。
「千秋…女子かよ…」
「童貞臭やべぇぞ、千秋」
……忘れてた。まだ奴らがいるんだった。
数メートル先にいる同期たちに目で威嚇する。美羽さんはそこで初めてシーとダルイの存在に気付いたようだ。僕の元を離れて二人に走り寄り、深々と頭を下げている。
『この度は大変ご迷惑をおかけしました』
「や、いいよいいよ。無事で良かったね」
ダルイの言葉に、美羽さんが笑顔を向けている。たったそれだけのことに嫉妬してしまう自分に自分でもうんざりする。
その様子を眺めていたシーがまたぽつりと「小さいな、お前」。うるせぇいい加減ぶん殴るぞ。
『シーさんも、ありがとうございました。シーさんはお怪我はないんですか?』
「ああ…オレは別に。千秋と違って前向いて歩いてるから」
「…どういう意味だそれ…」
「電柱にぶつかったんだろ?」
どこまでも嫌味な奴である。美羽さんが僕とシーの不穏な空気を察して曖昧に笑った。ほら、どうリアクションしたらいいのか困っているじゃねぇか。
そういえば、と空気を変えるように美羽さんは僕に向き直った。
『先ほどから千秋さんは何をやっているんですか?』
「あー…雑草抜きだよ」
『雑草?』
美羽さんが小首を傾げる。彼女が何か言うより先に僕は続けた。
「雷影様には世話になってるから。たまには良いかと思って。自主的にね」
自主的に、というところをかなり強調した。目の縁でシーとダルイがニヤニヤしている。全力で無視した。
美羽さんはこれに関しては不審に思わなかったようで、そうですか、と相槌を打ちながら生い茂る緑を見つめている。嫌な予感がした。
『じゃあ、私もお手伝いします』
「君はいいから!骨折れてるって聞いてるけど!?」
『大丈夫です。左手で抜けますから』
全然大丈夫じゃない。しかし美羽さんは既に地面に跪き雑草を引っこ抜き始めている。その様を見て、僕は自分の心がザラッと毛羽立つのを感じた。
この子はこの後に及んでまだ、僕にとっていい妻を演じ続ける気なのだろうか。
確かに僕は彼女に会いたかった。でも会わないと決めていた。それは、こうなることがわかっていたから。そしてそれを、どうしても避けたかった。
僕は怖がらせないように慎重に、しかししっかりと美羽さんの肩を掴んだ。美羽さんが顔を上げる。
「そんなことはしなくていい」
『……え、でも』
「君は直ぐ木ノ葉の病院に帰るんだよ。ダルイ。護衛の手配頼む」
美羽さんがはっきりと、傷ついた顔をした。その顔に一瞬怯むものの、引くわけにはいかない。
僕は毅然とした態度で続けた。
「さっきも言ったけど、君のことはもう木ノ葉に全面的にお願いしてるんだ。退院した後も、君は雲に帰ってくる必要はない」
『……どうして?』
「詳しいことは、改めて書面で送るから」
『何故ですか。目の前にいるんだから今説明してください』
美羽さんの頬がピンク色に上気し始める。その様が相変わらず大層可愛らしいが、それに喜んでいる場合でもない。
サクラさんと火影には既に僕の考えは伝えてある。彼女とは婚姻を解消する予定であること、その際は彼女のことを木ノ葉で手厚く迎えて欲しいこと。先方は驚きは隠せない様子で、しかし僕たちが決めたことであれば意を唱える気はないと言ってくれた。
しかし美羽さんのリアクションを見る限り、彼女には何も伝わっていないようだ。それに関して文句を言うつもりはない。伝えにくい話であることに違いはないだろうから。元々美羽さんの体調が回復してから、ゆっくりと話を進めるつもりだった。国境を越えた婚姻自体がそもそもややこしかったが、離縁はそれよりも更に厄介である。
彼女にとっては栄転だとしても、それなりに負荷がかかることは避けられない。だからこそ、急いて話を詰めることは避けたかった。しかしこうなってしまっては、下手に誤魔化しても不安の種を植えるだけだろう。
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