月下の花
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ただの骨折で他に目立った外傷もないのに、些か大袈裟な入院生活。広々とした個室に一人きり、私は大半の時間を眠って過ごしている。常に体が熱っぽく怠くて、いくらでも眠れる気がした。目が覚めた時には本を読んだり、ちょっとした書き物をしたり。外出許可を取って散歩をすることも許されている。
誰も私の行動を制限しない。こんなに自由な生活はとても久しぶりな気がした。
『少し、外に行ってきますね』
ナースステーションに声を掛け、私は病院の自動ドアを潜った。昼間はまだまだ暑さが厳しいものの、申の刻を過ぎれば少しばかりの涼やかさを感じることができるようになっている。不思議なもので暑さは苦手なくせに、晩夏は毎回なんとなく心寂しくなるものだ。
長い長い夏が、ようやく終わっていく。
幼少期からずっと歩いてきた道。私が産まれた木ノ葉隠れの里。どこからか風鈴の音色が聞こえる。隣を元気に駆け抜けていく幼い子供と、あどけない声色。平和を絵に描いたような日常のワンシーン。しかし私の心は曇り空だ。ふぅ、と一つ溜息を吐き出し、物思いに耽る。
千秋さんは、元気にしているかな。
木ノ葉の病院に入院して一週間。未だに千秋さんには会えていない。
千秋さんは雲で通常通りの日常生活を送っていると聞いている。妻である私が怪我をしたところで、彼に依頼される任務の量が減るわけもない。たかだか手首の骨折。そもそも雲から木ノ葉まではかなり距離がある。気軽に面会に来られる場所ではないということもわかっている。会えないのは仕方がない。そう頭では理解していても、この胸に感じる歯痒さはどうしようもなかった。
ーーー今度は、君が幸せになる番だ
先日見た夢を思い出し、更に憂鬱な気持ちになる。たかだか夢だといえばそれまでだけれど、妙にリアルだった。考えれば考えるほど気持ちが暗くなり、下を向くことしか出ない。視線の先に広がる、雲と違い整備しきれていない木ノ葉の道。馴れ親しんだはずの道が、今日は妙に余所余所しく感じられる。
私は、何か重大なことを忘れている気がする。でもそれが何なのか、全然思い出せない。
「…あれ?美羽さん?」
はっと顔を上げる。するとそこにいたのは一人の女の子だった。黒く美しい髪を揺らしながら、彼女は軽やかに私に走り寄ってくる。
「お久しぶりです。帰ってきていたんですね」
『ヒナタちゃん。久しぶり』
そこにいたのは日向ヒナタちゃんだった。任務帰りなのか服が少し汚れている。しかし彼女の持つ可憐な女らしさと、艶っぽさは変わらず健在であった。変な意味でなく、ヒナタちゃんは年下とは思えないほど独特の色気を持つ女の子だ。
ヒナタちゃんは化粧っ気もなく見窄らしい格好の私を見て怪訝な顔を見せる。
「右手。どうされたんですか?」
『あ…ああ、ちょっと馬鹿やって、折れちゃって』
「折れた!?」
まるで自分が怪我でもしたかのように悲痛な表情を見せるヒナタちゃん。私は右手を摩りながら大したことないよ、と苦笑した。
『今、念のため木ノ葉病院に入院してるの。もう暫くはゆっくりしていきなさいって言われてて』
「そうですか…それは、早瀬さんも大層心配なさってるでしょうね」
『…………。そう、かもしれないね』
相手は世間話で言っているだけだとわかっているのに、妙な間を作ってしまった。ヒナタちゃんは私の返答に少しだけ首を傾げて、しかしそれ以上何かを追求してくることはなかった。
微妙な空気が流れる。サクラちゃんやいのちゃんと違い、ヒナタちゃんは口数が多い方ではない。そしてそれは私も然りである。皆がいればそれなりに取り繕えても、私たち二人では会話が盛り上がるわけもなかった。
『じゃあ、私行くね』
行く当てもないのにさも用事があるように見せかけ、私は会話を切り上げた。ヒナタちゃんも特に名残惜しいような様子は見せず、「ええ。お大事になさってください」。
相変わらず重い足取りで前へ進む。そのまま人混みに紛れようとすると、再びヒナタちゃんに呼び止められる。
「美羽さん」
『…うん?』
「これ……落としましたよ」
ヒナタちゃんの手元に視線を落とし、目を瞬かせる。そこには黒い麻でできた、侘しいボロ布があった。なんだろう、これ。
記憶を辿るようにそのボロ布に指を伸ばし、感触を確かめるように触れる。しかしよく思い出せない。私はなんでこんなものを持っているのだろうか。
何故か急激に頭が痛くなる。その痛みに耐えられず、私はヒナタちゃんにそのボロ布を押し返した。
『…ごめん。それ、ゴミなの。捨ててもらっていいかな』
「え…?でも、」
ヒナタちゃんが私とボロ布を見比べている。居た堪れなくなって、私は『よろしくね』と無責任な言葉を残しさっさと踵を返した。あのボロ布のことを思い出してしまうのが何故かとても怖い気がした。
「美羽さん!」
ヒナタちゃんがまた私の名前を呼んでいる。歩調を緩める気のない私の左手をヒナタちゃんが掴んだ。少々煩わしく思いながら仕方なく振り向くと、ヒナタちゃんが真摯に私を見つめている。この子がいつ、誰と向き合う時も全力投球なのは変わらない。私とは正反対の彼女。だから私はいつも彼女を見ると後ろめたくなってしまう。
ヒナタちゃんは私を見つめながら、悩ましげな吐息を吐き出した。
「これ…美羽さんの手作りじゃないですか?早瀬さんへ渡すための」
『え……』
指摘された事実に驚いて、目を見張ってしまう。このボロ布を作ったのが私?誰のために。…千秋さんのために。
そうだっただろうか。そう言われれば、そんな気もする。
黙り込んだままの私に、ヒナタちゃんは何故か嬉しそうにふふっと笑った。
「見てすぐにわかりましたよ。こんなに愛情たっぷりに丁寧に作られたもの、なかなかありませんから」
『……』
「とっても素敵なクナイ入れ。捨てるなんて言わないでください。早く退院して、早瀬さんに渡せるといいですね」
あまりに屈託のないその言葉を、否定することができなかった。
突っ返す気力もなく無言で受け取る私。ヒナタちゃんはにっこりと笑って今度こそ私の前を去っていった。
立ち尽くす私の周りを、楕円形に避けるようにして人々が過ぎ去っていく。先ほど感じた妙な違和感が再び私の胸に落ちる。何年も住んだ、木ノ葉の街。雲よりもずっと住みやすかったはずのこの街。
でも、私は知っているはずだ。ここはもう私のいる場所じゃなくなったということを。
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