月下の花
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長い長い夜だった。二度と明けないような深い闇。私は夜が苦手だ。この世で一人、置いてけぼりにされたような気がするから。
「美羽さん」
私は薄目を開けた。暗闇の中、彼が私を見下ろしている。いつもは私が起こすまで、絶対に起きてこないのに。
「おはよう。朝だよ」
『…朝…?』
周囲は真っ暗だ。いつもなら襖から漏れ出る日差しもない。この暗がりで朝なわけがない。
『まだ、眠いです』
「だめだよ、起きて」
仕方なく体を起こそうとするも、体が鉛のように重くて動かない。
眠気が襲ってくる。耐えきれず瞼を落としそうになった私の腕を、彼は強く引いた。
無理矢理立たされ、引きずられるように歩き出す。周囲はやはり真っ暗で何も見えない。何度も躓きながら、私は必死に彼の後を追った。
『どこに行くんですか?』
彼は何も答えない。ただ黙って、前へ前へ進む。迷いのない背中。私をいつも守ってくれる、大きな大きな背中。
急に愛しさが込み上げて胸が詰まる。
何か伝えたいのに、何も言葉が出てこない。そうだ、私は彼に言いたいことがあったんだ。沢山ありすぎて、何から話したらいいのかわからない。後でゆっくり、お茶でも淹れながら話そうか。
一つの扉の前で、彼は足を止めた。
繋いでいた手が、そっと解かれる。
「気をつけて行っておいで」
『……え』
急に突き放されて戸惑う私。反して、彼はいつも通りの穏やかな表情だ。
『貴方は行かないんですか?』
「うん」
『どうして?』
「どうしても」
早く、と急かされるように背中を押される。急に怖くなり、私は彼の服の袖をキュッと握った。
『嫌です』
「どうして?」
『怖いから』
「大丈夫、怖くないよ」
『嫌です』
『千秋さんと一緒がいい』
どこまでも続く暗闇と、静寂。
少し困ったように千秋さんが笑った。
「ごめんね、僕は行けないんだ」
『なんで?』
「ごめんね」
目の前の扉がギシっと重い音を立てて開かれる。
立ちすくんでいる私に、千秋さんは扉の向こうを真っ直ぐに指し示した。
「前を向いて歩くんだ。後ろは決して振り向いちゃいけない」
『……』
「大丈夫。君はこれから、自由にどこにでもいけるんだよ」
『千秋さんは?』
「僕はここに残る」
『…なんで…?』
「ごめんね。もう時間がない。早く行って」
『嫌です。千秋さんと一緒じゃないなら私もここに残る』
優しい千秋さんなら私のわがままを聞いてくれると思った。しかし、彼は微笑みを湛えたまま何も言ってくれない。
千秋さんが強張った私の手の上に自分の手を重ねた。ほっとする、温かい手。私はこの人の手が、好きだった。
「美羽さん」といつもの調子で千秋さんは私の名前を呼ぶ。
私たちの日常が、これからも続いていくと信じさせてくれるように。
「僕はね、君に出会えてから今まで、本当に幸せだったよ」
『……』
「今まで僕と一緒にいてくれてありがとう。今度は君が幸せになる番だ」
慈愛に満ちた青い瞳が、三日月のように細められる。いつだって私に優しくて、沢山の愛情を与えてくれた千秋さん。
幸せにしてもらっていたのは、本当は私の方だったのに。
どん、と強い力で突き飛ばされた。扉の奥に足が引き摺り込まれる。必死に千秋さんに伸ばした手が、空を切った。
待って、と必死に叫んだ。
私はまだ、貴方に言ってない言葉が沢山あるんです。
千秋さん。
貴方はもう、私の隣を一緒に歩いてはくれませんか。
「気が付きましたか」
ぼやけたレンズのピントがじんわりと合わさって馴染んでいく。何度か瞬きをして、私は視線を声の出所に動かした。キラキラと太陽に輝く桃色の髪。
『サクラちゃん…?わたし…ッ』
身体を動かそうとした瞬間、激痛が走る。痛みに悶える私に、「動かないでください」と静穏な声。
「右手首、骨折してますから。ギプスで固定はしていますが暫くは痛むと思います」
言われて気づく。右手首が包帯で巻かれてグルグルだ。先程の痛みは右手をベッドに押し付けるようにして起き上がろうとしたからだろう。
身体を横たわらせたまま、ゆっくりと目線を上下左右に動かす。周囲はどこを見ても真っ白だ。ここは病院だ、ということを数秒遅れてやっと理解した。
冷ややかに私を見下げる高い天井を、ぼんやりと見つめる。
『ねぇ、サクラちゃん』
「はい?」
『……私は、なんでここに?』
私の問いに、サクラちゃんは唇をへの字に引き結ぶ。そして数秒の間の後、子供に言い聞かせるような声色で「少し質問させてください」。私は不透明な頭で義務的に頷いた。
「自分の名前はわかりますか?」
『……、早瀬、美羽』
「年齢は?住んでいる里は?」
『年齢は19歳。産まれは木ノ葉だけど、今は雲に住んでる』
「……」
私の様子を記録するように一度、二度瞬きをするサクラちゃん。少し悩むように顔を伏せた後、彼女は声のトーンを一つ落として続けた。
「雲隠れの里を出てからの出来事、覚えていますか?」
数秒思案した後、私は静かに首を横に振った。私の返答に、納得した様子を見せるサクラちゃん。
「どうやら一部の記憶を失っているようですね。でも心配いりません。よくあることですから」
『……』
「美羽さんは雲隠れから木ノ葉隠れへの里帰り中、事故に巻き込まれたんです。頭を強く打って、しばらくの間眠っていたんですよ」
『…事故…?』
言われても全然、ピンとこない。でも、サクラちゃんがそう言うならきっとそうなのだろう。だから私は今、雲隠れではなく木ノ葉の病院で手当を受けていたのだろうか。
当惑している私の左手にそっと手を添え、サクラちゃんは優しく笑った。
「幸い怪我自体は大したことありませんから。早瀬さんがとても心配していましたよ。手厚く看病するようにと仰せつかっています」
『千秋さん…』
その名前に、私は思わず反応する。
「私、千秋さんに会いたいの。千秋さんはどこにいる?」
サクラちゃんは一瞬、真顔になった。そのリアクションを不思議に思っていると、次の瞬間には彼女は既に元の笑顔を取り戻している。
「任務があるからと、今は雲隠れの里に。暫くは多忙でこちらには来られないそうです』
『……』
私は小さな声でそう、と言った。サクラちゃんが勤めて明るく私に接しようとしてくれているのがわかる。
「今はもう、何か考えるのは辞めましょう。せっかくの機会ですからゆっくり養生していってください」
サクラちゃんの言葉に、私は静かに首を垂れるしかなかった。
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