二人のヒーロー
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砂にいる時一度だけ、女を抱いたことがある。
任務終わりに上司に誘われ、最初は歯牙にも掛けなかったものの男は女を抱いて一人前だのお前は人生経験がまだまだ甘いだのしつこく食い下がられ、仕方なく。
初めて踏み入った遊郭は人工的な甘たるい匂いとヤニの煙に包まれた、生理的嫌悪を覚える薄汚れた場所だった。
女の顔はもう覚えていないが、初めてなの?と妙に嬉しそうに発された猫撫で声が不快だったことだけははっきり覚えている。
色任務だと自分に言い聞かせ、作業のようにことを進めた。耳につく女のわざとらしい嬌声と、咽ぶような香水の匂い。快楽よりも厭わしい感情の方が勝り、最後はただただ吐き気を抑えることに必死だった。
他者からすれば、オレが異質なのだろう。しかしオレには、あんな穢らわしい行為に溺れる人間の方が狂っているように見える。色欲ほどオレに無縁で不要なものはない。オレが愛するのはオレという存在ただ一人だけだ。自分はこれからも、決して第三者に焦がれる瞬間はないだろうと確信していた。今日、この日まで。
『っはぁ…ッ、はぁっ…』
乱れた胸元を大きく上下させながら、月下の女は今も尚壮絶な痛苦に耐えている。気を失ってしまった方が数段楽なはずなのに、彼女は精神力だけを頼りに決して意識を手放そうとはしなかった。
毒の量はかなり増やした。しかし月下の女はまだ傾眠傾向レベル。未だ人傀儡の入り口にすら立っていない状態だ。
予想より何倍もしぶとい。
「いい加減諦めたらどうだ?これ以上耐えても苦しみが続くだけだぞ」
『…ッ』
大きな瞳がはっきりとオレを捉え、憎悪に歪む。月下は息も絶え絶え上半身を引き起こし、拘束された腕の枷を岩に打ちつけ始めた。この状況下でも尚、まだまだオレを殺すことを諦めてはいないらしい。
それ自体はどうでもいいが、岩に叩きつけている拘束された手から真っ赤な鮮血が滲むのを見て、オレは顔を顰めた。
「オイ。身体に傷をつけるな。傀儡の完成度が落ちるだろ」
『…綺麗な女性を御所望なら、どうぞ私以外の女を、お選び下さい』
月下は素っ気なく答え腕の動きを休めない。ガッ、ガッ、と鈍い音が周囲に響き渡る。
ご苦労なことだが、オレの術が単純な物理攻撃で壊れるはずもない。続けるだけ本人の身体が痛むだけである。
その様子を静観しながら頭の中で今まで与えた毒の量をざっと計算する。致死レベルにはとうに達したはず。しかし本人はまだまだ生気に溢れている。動きを止めるには毒の量を更に増やす他ない。
毒を片手に数歩近づき、目の前に跪く。月下の女があからさまに警戒して歯をカチッと震わせた。しかし怯えているのを悟られるのはプライドが許さないのか、目だけは変わらず気丈にオレを睨みつけている。
意気盛んな殺意を浴びながら、まじまじと目の前の女を上から下へ眺める。その時に何故かふと、あの時抱いた遊女のイメージが頭の片隅をチラついた。あの時の煌びやかな遊女と違い、衣服は泥に塗れ、髪も絡れてボロボロ。まだ女と表現するのすら烏滸がましい乳臭いガキ。しかし出逢った当初からなんとも言えない色香を湛えている不思議な少女。
その姿に、あの時の遊女の何億倍も唆られている自分がいることに気づく。
また感じる核への違和感。不具合かと危惧したその違和感は、まさかとうの昔に捨てたはずの感情が疼く瞬間なのだろうか。不全的な自分に絶望しながらも、その変化に僅かな興を感じる。
初めて、月下の女と会話がしてみたいと思った。
戦意がないことを示すために持っていた毒を傍に転がす。その様子を視線だけで追う月下。身体は相変わらず強張ったままだ。
名前を呼ぼうとして、オレは月下の女の名前すら知らないということに初めて思い至った。木ノ葉出身で雲に嫁いだこと、苗字が早瀬であること、年齢が19だということ。オレが知っている彼女の戸籍情報はその程度である。
オレも月下も、互いのことはほとんど知らない。
「…オイ」
『……』
思い切り目線を逸らされる。無性に腹が立ち、オレは月下の顎をグイッと力任せに引っ張った。無理矢理重ねる視線。
半月が彼女の瞳の中で煌々と輝いている。
「人の話を聞く時は相手の目を見なさいってアカデミーで習わなかったか?」
『……S級犯罪者のくせに何言ってるんですか』
改めて見た月下の顔。色素の薄い瞳は僅かに紫がかっていて官能的だ。しかし化粧っ気のない桜唇にはまだ幼さが残っていて、そのギャップが他者にちぐはぐな印象を与える。しかし決して不恰好というわけではなく、それこそが彼女の魅力を一層際立たせているというのは不思議なものだ。
顎を掴んでいた指を頬に移動させる。単なる男女の違いか、はたまた彼女が天に愛された格別な存在であるのか。彼女の肌はとんでもなく清らかで柔らかい。魅惑的な美しさに思わず恍惚のため息が漏れた。
さっさと殺して自分のものにしたいと思う気持ちと、この感触にずっと酔いしれていたいという矛盾。感じないはずの体温が、一度上がった気がした。
感情を理解するより先に体が動く。
惹き寄せられるように距離を縮めたオレに、月下はハッとした様子で慌てて顔を逸らした。拘束された両手でオレの胸をグイと押す。
『…ダメですっ』
上擦ったその声に、薄く笑う。
「”嫌”ではないんだな」
カッ、と月下の頬が赤くなる。困惑と恥じらいが入り混じったその表情。
その様に妙に加虐心が煽られる。
腰に腕を回して強引に身体を抱き寄せる。月下は何故か酷く傷ついた顔をして、長い睫毛を小刻みに揺らした。
『…ダメです、やめてください』
「何故?」
『私には夫がいます』
「死ぬ前に少しくらい遊興にふけってもバチは当たらないだろ」
もう二度と会えない夫に気を使う必要など何もない。
しかし月下は拘束された両手で顔を隠しながら必死に首を横に振る。
『お願いだからやめてください。もうこれ以上千秋さんを裏切ることはしたくないんです』
迷いのないはっきりとした擯斥。
すぐ目の前にいるのに、オレたちの距離は出会った時から少しも縮まらない。その事実が無性にもどかしかった。優位に立っているのは間違いなくオレの方だと言うのに。
「こっちを向け」
『……やだ』
子供のように駄々をこねる月下に苛立ちを覚える。堪らず力任せに前腕を掴み無理矢理退けると、月下の頬がキラキラとした水で濡れていることに気がついた。
ドクン、とないはずの脈が強く波打つ。
「…何故泣く?」
『…っ、サソリさんのせいじゃないですかぁ…』
「タイミングがおかしいだろ。普通泣くなら毒を入れられた時じゃないのか?」
『そういう問題じゃ、ないんですッ』
理解不能だ。どんなに身体を痛めつけられても、それこそ殺されかけても気丈にオレのことを睨みつけていたくせに。
顔を歪めて必死に堪えようとして、しかしとめどなく溢れては地に吸い込まれていく彼女の涙。オレにはもう出すことのできない、感情の塊。
さめざめと泣く月下を眺めながら、オレ自身が酷く動揺していることに心付く。
オレたちを照らす星の光が、残酷なほど美しかった。
『サソリさん』
相変わらず頑なに合わない視線。彼女は長い睫毛をキラキラと星のように輝かせ、少し迷うような様子を見せながらもぽつりぽつりと話し始めた。
『私、貴方に初めて会ったあの日。本当は死ぬつもりだったんです』
相槌を打つ気にはならず、オレはぼうっと月下の横顔を眺めていた。風に揺れる絹のような髪が変わらず美しい。
『私はあの時、まだ雲という里に馴染めていなくて。夫だけはとても優しくしてくれましたが、私にずっと気を使い続けて、どう扱ったらいいかわからないと思っているのを知っていました。私も私で、夫の気持ちにどう応えたらいいのかよくわからなくて』
「……」
『くだらない理由ですが、凄く寂しかったんです。特段この世に未練もなくて、それならもう死んでもいいかなって。適当に死に場所を探していた時に現れた、私と唯一対等に接してくれる初めての人。それがサソリさんでした。貴方と会って会話をするたった数分間が嘘みたいにとても楽しくて。後もう一日、もう一日だけ生きてみようって、そう思って』
オレは何も言わず、ただ月下の言葉の続きを待った。タイムリミットは間違いなく近い。しかし、急かす気にはならなかった。待つのは何よりも嫌いだったはずなのに。
月下の右手が、オレの左胸のコートをキュッと掴んだ。一番核に近い部分。そこを触られるのはオレにとって鬼門だ。しかし全く拒絶を示そうとしない己の身体。
『私の人生で、あんなにも誰かに会うことを楽しみにしていた時間はありません。貴方が、本当はあの日死ぬはずだった私の寿命を今日まで伸ばしてくれた。…貴方は私にとってヒーローだったんです』
月下はそこでやっとオレの顔を見た。真っ赤になった目の縁。その様はとんでもなく不恰好なのに、何故か今までで一番可愛らしく見える。
『私を助けてくれて、今日まで生かしてくれて。本当にありがとうございました』
懐かしむようにそう呟いた月下の瞳に、もう涙はなかった。その表情は心なしか少し晴れやかだ。反してオレは、核が締め付けられるような、ギリギリとねじ切れるような妙な感覚に陥っていた。
オレが、ヒーロー。そんな馬鹿げた話があるわけがない。オレは世界各国から命を狙われるS級犯罪者。オレが死んだところで、誰も悲しむものはいない。この世に少しも必要のない存在。
それなのに、この女は。何故こんなにも純粋な瞳で、オレの存在を認めて、感謝することができたのだろう。出会った当初からそうだった。顔も名前も知らないオレを慕い、彼女は誠実に寄り添おうとしていた。オレはただ、彼女を騙して利用しただけだというのに。
いつものように恨まれて、最期までみっともなく抵抗された方がよかった。オレはお前の、そういうくだらない姿が見たかった。そうしたら今この瞬間、何の躊躇もなくオレはお前を殺めていただろう。
『あの…最期に一つだけ私の我儘を聞いて頂けませんか?』
残酷な時の流れに逆らわないことを決意した月下。齢19の少女が、オレよりも数段高貴な存在に思える。
『私の死体は好きにしてくれて構いません。ただ、お腹の子は供養してあげてもらえませんか。産んであげられなかったのが、どうしても心残りで』
「……」
『あ…もしかして臓器も人傀儡とやらに必要なんでしょうか?それだと供養できないですよね…』
「いや。子宮ごと取り出せば供養くらいはできる」
『よかった。じゃあどうかお願いします。サソリさんに手を合わせて貰えればこの子も幾分か浮かばれると思うので』
月下は心底安堵したように笑った。死を覚悟しながら最期に自分の子供を慈しむ母の表情は、まるで聖母のように穏やかである。
殺す人間と、殺される人間。この場にはその二人しかいない。月下にはもうオレに抵抗する気力も、その気もない。殺すのは赤子の手を捻るより簡単だ。
それなのに何故、オレの身体は動かない。
『…サソリさん?』
不思議そうに首を傾げながら、青白い顔でオレを見上げる月下。
戦闘が始まってからそれなりに時間が経過している。もう無駄話をしている時間は全くない。早瀬が来たら厄介だ。そんなことは百も承知である。
しかし、オレはこの瀬戸際に気付いてしまった。
目の前の女を殺す事を、躊躇している自分がいるということに。
何を今更、と自分でも情けなく思う。
今まで何百何千と人を殺してきた。そこにはなんの感慨もない。今更そこに一人、月下の死体が積み重なったところでオレが今まで犯してきた罪の重さは変わらない。
世界は彼女を失っても滞りなく回り続ける。
それなのに、何故。
月下の呼吸が浅い。散々毒を入れたのだから当然の結果だ。オレが手を下さずとも、このまま治療しなければ勝手に死ぬ。だったらこの手で、今この場で終わらせたほうがいくらかマシだろう。
オレは懐から新たに薬瓶を取り出す。それは月下の瞳の色と同じ、美しい薄紫色。
これを使うことはないだろうと思っていたのに。備えあれば憂いなしとは、先人は良く言ったものだ。
月下の白い首筋に針を突き立てる。薄皮に銀色の刃が沈む感触。何度も味わった、人の命を握る、この感覚。
「 」
月下は一瞬苦しそうに顔を歪ませーーそしてすぐに、動かなくなった。
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