丑の刻、君を想う
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時刻は11時59分。そろそろか。
「ちょっと、失礼」
コーヒーカップを置いていつもの定位置に視線を向ける。目の前の少女が不思議そうに目を瞬かせた。僕は一度だけ少女に微笑みかけ、そして再び視線を上げる。古時計の長針が真っ直ぐに天井を指した。
すると、空気を振るわせる重低音とともに小さな人形が姿を表す。くるくると回りながら踊る天使たち。その歪だけれども繊細な動きは大層可愛らしく、僕の視線を惹きつけて放さない。
「仕掛け時計、好きなんですか?」
ぼうっと眺めている僕に、目の前の少女ーー木ノ葉隠れの忍び、春野サクラさんは言った。
ここは木ノ葉隠れの里の外れにある小さな喫茶店。結婚前、美羽さんとよく食事に来た場所だ。
1分という短すぎる時間。人形たちはすぐに時計の家に帰っていく。それをしっかり見届けた後、僕はサクラさんに視線を戻した。
「妻があの仕掛け時計が大好きでね。よく二人で見に来たんだよ」
あまり自己主張をしない彼女が、何度目かの逢瀬の際初めて僕に教えてくれた好きなもの。子供っぽくて恥ずかしいんですが…と前置きした上で、あの仕掛け時計がとても好きなのだと僕に話してくれた。珈琲は実は苦手なんです、でもどうしてもあの時計が見たくて、と恥ずかしそうに珈琲にミルクを注ぐ姿がとても可愛かったのを今でもよく覚えている。
あの日から、僕たちは逢瀬の際必ずこの喫茶店に赴いていた。彼女は一時間に一度しか見られないこの光景をとても楽しみにしていて、見た後は目を子供のようにキラキラと輝かせながらほんの少しだけ饒舌になる。そして僕は、そんな無邪気な彼女の姿を見ることがとても好きだった。
甘酸っぱい思い出に頬を緩める僕。それに反して、サクラさんは表情を翳らせる。
「この度は本当に…なんと言ったらいいのか…」
サクラさんは声を上擦らせながら俯いている。一瞬何のことだろうと考え、木ノ葉には美羽さんが死んだと伝達されていると言っていたシーの言葉を思い出した。
サクラさんは美羽さんにとって数少ない友人だと聞いている。彼女の突然の訃報に、サクラさんは心を痛めてくれているのだ。
珈琲に口をつけながらどう説明しようか考え、しかし彼女が信頼している相手に嘘をつく気にはならない。僕は珈琲と共に里の誤魔化しを飲み下した。雷影様の怒りはきっとシーが引き受けてくれる。
「そのことなんだけど。美羽さんが死んだというのは嘘なんだ」
「……は?」
サクラさんは全く状況を飲み込めないと言った様子で目を白黒させている。
「え……嘘?じゃあ美羽さんは生きているんですか?」
「”今はまだ”、ね」
その言葉にサクラさんの目が鋭くなる。どうやら訳ありだということを察してくれたようだ。
サクラさんは目だけで周りを確認した後、一層声を潜めて言った。
「…もしかして、”暁”ですか?」
さすが美羽さんの後輩である。若いのになかなか頭のキレる子だ。
僕は無言で頷く。サクラさんは深いため息を吐き出した。
「やっぱり血継限界が狙われたんですね。気をつけるよう再三言ったのに」
「おそらくね。目撃者がいたわけじゃないから確定はできないんだけど」
「でも、それならなんで美羽さんは死んだことに?一刻も早く助けにいかなきゃいけないじゃないですか」
最もな意見である。僕はもう一度珈琲を口に含む。彼女と二人で飲んでいる時はあんなに美味しく感じられた珈琲。しかし今はまるで泥水でも飲まされているような気分だ。
「雲隠れにとって、美羽さんはもう邪魔な存在なんだ」
サクラさんが顔を強張らせる。女性にそんな顔をさせるのは心苦しいが、これは事実として伝えなければならない話である。
「雷の国一の財閥である早瀬と彼女の結婚が認められたのは、国にとって彼女の能力が魅力的だったからだ。しかし、危険すぎる能力を持った彼女と信頼関係をうまく結ぶことができず雲隠れは彼女の存在を持て余していた」
「……」
「雷は愛国心が非常に強い国。逆を言えば、奇妙な能力を持つ余所者の彼女には否定的な人間の方がずっと多かった。そんな彼女を奪還するために雲隠れが犠牲者覚悟の上で暁にわざわざ立ち向かうなんて到底あり得ない。だから雲は彼女をもう亡き者として扱おうと……ッ、」
破裂音が耳を突き刺して、後から鈍い痛みが追いかけてきた。頬を押さえる僕を、サクラさんが軽蔑の眼差しで睨みつけている。
店員が慌てて僕に駆け寄ってくる。僕は片手を上げてそれを制した。口の中にじわっと血の味が滲む。
「いてて…久々に女性に叩かれたなぁ」
「すみません。あまりに腹が立ったので」
「……」
「貴方の態度によってはもう一発殴りますよ」
次は本気で殴りますから、とサクラさん。
今のは手加減されていたのかと失笑する。殺す気で殴られたのかと思った。
サクラさんは僕に対する怒りを隠しきれない様子で下唇をぎりっと噛み締めた。
「こんなことはできれば言いたくないですが、美羽さんが貴方と結婚するのを決めたのは国の平和のためです。決して手放しで貴方のことが好きだったわけではありませんでした」
「……」
「美羽さんは自分の気持ちを押し殺して、文句ひとつ言わず貴方のためだけに尽くしていました。それなのに、彼女のことを貴方はそんなに簡単に見捨てるんですか」
脳裏に浮かぶ美羽さんの姿。彼女はどこまでも主人に忠実で、四六時中僕の顔色を伺いながら夫を心から愛して尽くす妻を演じていた。
彼女が少しも僕のことが好きではないなんて、少なくとも雲で知っていた人間は僕以外いないだろう。それくらい彼女の演技は完璧だった。しかしその嘘が、他でもなく僕にだけ通用しなかったのは皮肉なものである。
テーブルにあった布巾で口元を拭い、溜まった血液を飲み下す。この緊迫した空気の中で僕を満たしたのは、喜びの感情。僕のサクラさんへの信頼が確信に変わったからだ。美羽さんのことを想ってこんなに怒ってくれる人間が木ノ葉にいるなんて喜ばしい限りである。痛いには違いないが。
「ここまではあくまで雷の国としての判断。僕個人の意見はここからだ」
僕は真っ直ぐにサクラさんを見た。サクラさんはまだ眉間にシワを寄せて僕を睨みつけている。
「僕は美羽さんを諦める気は全くない。この命に変えてでも絶対に彼女を生きたまま連れ戻す」
僕は確かに国を愛し、今まで国のために戦って来た。しかしその国が彼女を見捨てるというのなら、そんな国に支える気はサラサラない。国は捨てても生きていける。しかし僕はもう、美羽さんなしでは生きていけない。
夫婦としての契りを交わしたあの日、僕は残りの人生を妻のために生きると誓った。その誓いを破るくらいなら、今この場で自害したほうがいくらかマシだ。
「力を貸してほしい」
「……」
「こんなことを他里のくノ一である君に頼むなんて筋違いだということはわかっている。しかし先述の通り雲から戦力を確保するのは難しい。どうしても木ノ葉からの協力が必要なんだ」
両掌を机に押し付け、深々と首を垂れる。プライドなんて、彼女を失った僕にとって全くの無意味だ。
「この通りだ。お願いします」
「ちょ…やめてください、頭をあげてくださいって」
時間もない、戦力もない。負け試合だとシーは言った。それでも僕は、どうしても美羽さんを諦められない。
今僕にできることは、目の前の女の子に情けなく頭を下げて協力を乞う事だけだ。
「こちらも協力したい気持ちは勿論あります。しかし私のような中忍風情にはどうすることも…」
「……」
石のように動かない僕を見ながら、サクラさんが悩んでいるのがわかる。チッ、チッ、と時計の秒針が時を刻む音だけが僕たちを見守っている。
暫くの沈黙の後、サクラさんが本日二回目のため息を吐き出した。
「……わかりました。少しあてがあるので当たってみます。雲隠れとしてではなく、あくまで早瀬さん個人の依頼として、ですが」
「!ありがとう」
顔を上げた僕に、サクラさんは渋い顔を崩さないままである。
「しかし、争いの火種を撒く事は火の国としても絶対に避けたい。雲が彼女の死に介入するなと言っている以上、派手に手出しはできないのが現状です。もし仮に協力が得られたとしてもあくまで極秘任務扱いで、人員も最小限に抑えることになると思います」
「それは承知してる。一人でも二人でもいい。とにかく少しでも協力者が欲しいんだ」
話がまとまったなら後は行動するのみ。僕は珈琲を一気に煽った。
「急かして申し訳ないんだけど、どれくらいかかりそうかな?」
「私からは何とも言えません。とりあえず今から上に伝えに行きます」
「頼んだよ。できる限り急ぎで」
机の上の伝票を掻っ攫い、レジに向かって歩いて行く。サクラさんが慌てた様子で僕の後を追った。
「すみません、私も払います」
「いや、いいよ。女性に財布を出させないのは男のマナーだから」
微妙な顔をしているサクラさんに、「じゃあ次の店では君に出してもらおうかな」と喉元までセリフが出掛かり慌てて飲み込んだ。口説く気なんて全くないのについいつもの癖で。妻の後輩に対してうっかり失言するところだった。
曖昧に微笑んで店を後にする。カウベルの澄んだ音色と別れ、木ノ葉の活気ある商店街に向かって歩みを進めた。
ふと思い出す。この道を、美羽さんと初めて手を繋いで歩いた日のこと。その時、彼女が確かに僕を見て笑ってくれていたことを。
そんなに月日は立っていないのに、遥か遠い昔のことのように感じられる。
「すみません」
「そんなに気にしないで。大した額じゃないし」
「そっちじゃなくて。早とちりして殴ってしまってすみませんでした」
まだ記憶に新しい痛み。それなりに腫れている頬をそっと指でなぞる。指先がじんわりとした熱を受け取った。
「いや。むしろ殴ってもらえて嬉しかった」
「………はい?」
サクラさんが完全に不審者を見る目をしている。僕は慌てて変な意味ではなく、と続けた。
「サクラさんにとって妻が大事な人間だったと知れて嬉しかったって意味。彼女、『私は木ノ葉でも嫌われてましたから』ってよく言っていて」
「……」
半歩後ろを歩いているサクラさんがまた顔を翳らせる。足元の枯葉がガサっと音を立てて散っていった。
「それは間違いです」
「うん?」
「美羽さんのことを良く言わない人がいなかったとは言いません。でも実際はそれより彼女のことを好意的に見ている人間の方がずっと多かった」
「……」
「美羽さんは誰よりも優しく、人のために戦うことのできる数少ない忍び。木ノ葉にとって必要な忍びでした。それを知らなかったのは本人と、お互いの国の上層部の人間だけです」
足を止めた僕と、それを気にせず前に進むサクラさん。「話してきます。少し時間をください」と言って、サクラさんは人混みの中に消えていった。
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