絶望か、希望か
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まずヒルコの尾を押し込み女の身体を解放する。そのままヒルコをしまい、オレも洞窟の中に潜り込んだ。
鬱陶しい雨風から逃れられた事実に少しだけほっとする。
しかし横たわった女の姿から全く生気が感じられず、まさか死んだのか?と新たな不安が発生した。息を確認しようとした矢先、げほっと女が咽せる。とりあえず生きてはいるようだ。
それにしても、あまりにも無鉄砲すぎて呆れる。子供を護りたいという決意は嫌というほど伝わったが、この場で自分が命を落としては本末転倒であろう。
月下の女の顔色がかなり悪い。元々調子が良くない上、この嵐の中チャクラの限界まで修行。自業自得すぎる結果である。
服も泥まみれで見るに耐えない。このままでは体温も奪われ続け、自力で回復できるものも出来なくなるだろう。青紫の唇が寒さにカチカチと震えている。
オレは仕方なく自分のマントから腕を抜いた。不本意ではあるが、この場で濡れていない衣服はこれしかない。
これをそのまま肩にかけたところで、中の衣服が濡れていては意味がないだろう。オレは月下の女の耳元で不躾に言葉を発した。
「脱がすぞ」
月下は何も答えなかった。答える気力もないのだろう。
オレは自分の体に女の頭を抱き込み、背中のチャックを下ろした。一応の慈悲でなるべく見ないように作業を進める。
早々にことを終えてコートのボタンを止める。そこで虚な瞳の月下と視線が重なった。
薄い唇の向こうで、歯がカチッと音を立てる。
『サソリさんのエッチ…』
「そのまま外に捨てるぞ」
『…だから、冗談ですって…』
ありがとうございます、と蚊の鳴くような声で月下。冗談を言う気力があるなら大丈夫だろう、とオレは鼻を鳴らす。
月下はコートの胸元をぎゅっと握り締めながら変わらず荒い呼吸を吐き出していた。雨風が更に強くなり、洞窟の外にはもはや何も見えない。
例えオレ一人だったとしても、今はこの場から動かない方が賢明だろう。
『サソリさん』
外を眺めていると、隣から女の声。振り向かぬまま生返事をする。
『一つ聞いてもいいですか?』
「断る」
オレの返答は意に介さず月下は続けた。
『サソリさんは……人間じゃないんですか?』
振り向かずとも、月下の視線がオレの胸に刺さっているのはわかる。
今オレの上半身は服を纏っていない。晒されているのは言うまでもなく傀儡の体である。
しかしオレは何の知識もない人間にわざわざ種明かしをする程親切な人間ではない。躊躇なく衣服を脱いだのは、月下がオレのことを”人間ではない何か”だということに既に気付いていたのを知っていたからだ。
あの日月下は間違いなくオレを殺そうとした。しかし殺せなかったのは、対人間用の術を発動させたから。傀儡であるオレの時間を進めることが、彼女には出来なかった。その時点で気付いていたはずだ。オレが人間ではないことを。
「見ればわかるだろ」
『……』
月下はまじまじとオレを眺めながら唇に指を押し当てている。どうやらこれが考える時の癖のようだ。
『うーん…何か変わった身体なのかなとは思ってましたが。流石にそこまでは予想してなかったです』
特段動揺した様子もなく受け入れている。
うぅん、と悩みながらオレの観察を続ける月下。
『それ、材質は何ですか?どうやったら殺せるのかな』
「世間話のように聞くなよ。教えるわけねぇだろ」
『やっぱりダメですか』
ははっ、と月下は乾いた笑いを吐き出した。
顔色は悪いが、冗談を言ったり笑ったりする元気はあるようだ。
オレはひたすら外を眺めた。なんとなく、月下の女の顔を見る気にならなかった。
ヒルコをメンテナンスするための道具も、薬を調合するための資材も何も持ち合わせていない。とんでもなく無駄な時間だ。こんな時に人は誰かと対話をしたいと思うのだろうか。暇を潰す。先人はなんとも上手い言い回しを考えたものだ。
「オレも一つ聞く」
『はい?』
「お前……夫との子供を望んでいたのか?」
ひゅ、と月下の女が唇に空気を取り入れた。しかしそのまま黙り込んでしまう。
獣の鳴くような風音が洞窟の中に低く響いた。静寂とは程遠い。しかし不思議と居心地は悪くない。
随分と長い沈黙だった。オレも月下も、ただ荒れ狂う外の景色を黙って見つめ続けている。
『いいえ』
長く沈黙を保った割には、答えに迷っていたわけではないと思わせるほどはっきりした物言いだった。
『夫が子供を欲しがっているのは知っていました。でも薬を飲んでその思いを踏みにじっていたのは私です』
「……」
『血継限界を継承させたくない、というのが子供を持ちたくない理由でした。でもそれは建前だったと、今になって気づきました』
一度言葉を発してしまえば堰を切ったように月下は語り始めた。相槌すら打たずにその声を耳に流す。
月下は膝を抱えて背中を丸めた。その姿はまるで親を探す迷子の子供のようだった。
『私がただ単に、親になる自信がなかったんです』
「……」
『私なんかが普通の母親のように、当然のように子供を愛して育ててあげることができるのか。そう考えたら怖くて、とても子供が欲しいとは思えませんでした』
「それならば何故、堕胎を選ばない?」
当然湧く疑問だった。月下の女はやはり子供を望んでいない。それならばオレの示した選択ははむしろ喜んで然るべきだろう。
月下はまた口を噤んだ。なかなか話が進まないが、しかし無理に急かすほどの事象でもない。ただの暇潰しだ。
先程よりも更に長い沈黙。数えきれないほどの雨粒が地面に吸い込まれて、滝のように流れていく。
『私一人で、親になるわけじゃないと気づいたからです』
また静かに月下は語り始めた。しかし先ほどのようにスラスラと言葉は出てこない。今度は迷いながら、言葉を探しながら。でも彼女は、オレの質問に誠実に答える。
『父親と母親がいなければ、子供は産まれません。そんな当たり前のことを、私は今まで本当の意味では理解していなかったんだと思います』
「……」
『私は母親以前に人間として欠陥品で、未熟です。トロいし、出来ないことだらけ。誰かに疎まれなかった日は一日だってありません』
「……」
『…でも、あの人が父親なら。誰よりも子供を愛して可愛がって、一緒に優しい子に育てようねって言ってくれる。私がもう嫌だって投げ出しそうになったとしても、絶対に私を見捨てずに側で支え続けてくれる。そう躊躇なく言い切れるくらいには』
『…今まで散々、愛してもらいました』
この嵐の中、オレたちの空気だけが柔らかく揺れる。
二人の関係は確かに歪で、世間一般からすればズレたものだっただろう。しかしそれが間違っているのかと問われれば答えはそう簡単には出せるものではない。
この女と生涯添い遂げる決意をするのは並大抵の覚悟では不可能だったはず。しかし奴はその道を選んだ。硬く閉ざされた女の心に何度も語りかけ、どんなに受け入れられずとも変わらぬ愛情を注ぎ続けた夫。その誠実で真っ直ぐな想いは、ゆっくりと、しかし確実に妻の心を射抜いた。
『あんなに優しい人の子供を殺すなんて、私にはとてもできません』
月下の女の夫に対する信頼は、今や海よりも深い。
政略結婚で結ばれた二人。始まりは望まなかった結婚。しかし今の彼らはもう、誰がどう見ても”夫婦”だった。
今まで受け取ったであろう無償の愛情。彼女はそれに、今まさに誠意で答えたのだ。その儚くも強い決断は、妻の夫に対する忠誠ーーーいや、最早”愛情”以外の何者でもなかった。
細い両手が自分の腹をゆっくりと撫でる。慈しむ、という表現がこんなにも似合う情景をオレはこの時初めて見た。
オレの両親も、彼女のような想いを経験したのだろうか。
『……会わせてあげたいなぁ』
オレと月下は敵同士だ。信頼関係もなければ、今この場で殺し合いが始まったとしても決しておかしくはない関係。
月下にオレは殺せなかった。しかしオレにもきっと、この女は殺せないのだろう。
女である月下に、オレは大して興味もなく情もなかった。
しかしオレは、母親である彼女の切実で純粋な願いに触れた時。
ーーないはずの心を、いとも簡単に打ち抜かれた。
だからと言って出来ることがあるわけでもなかった。現に彼女はもう暁の手に落ちてしまっている。今更雲に返すこともできなければ、夫と再会させてやることすら難しい。ましてや出産なんて夢のまた夢である。二人の子供がこの世で産声を上げることは永遠にない。これは変えようのない現実だ。
「もう一度言う。諦めろ」
『何度でも答えます。嫌です』
チッと舌打ち。しかし月下は場に似合わない幸せそうな顔で笑うだけだ。
彼女はこの組織に、きっと一生馴染むことはないのだろう。
『産まれて初めてなんです。こんなにも”死にたくない”と思ったのは』
母親と少女の狭間で、彼女は花のように可憐に笑う。
あの時見た月下美人の花が、儚く実を綻ばせたかのように。
『まだこんなに小さいのに。子供って凄いですね』
何も答えないオレに、それでも月下は懲りずに笑いかける。
本来その笑みの先にいるべきなのは夫だ。しかし彼女はもう夫に会う事はできない。
だから仕方なく、何も関係のないオレに未来を語っている。その様は些か滑稽で、しかし間違いなく幸せな時が流れていた。
叶わない願いが嵐の中にかき消されて儚く消えていくのを、オレは黙って見つめ続けていた。
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