雨と初恋
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あの日から、彼女とオレは親しくなった。
「時送りとイタチはできている」と噂されたこともある。しかしそれは全くの誤解である。
家族のいない彼女はオレを兄のように慕っていた。身近に親しい友もおらず、肉親もいなかった彼女にとってオレのような頼れる先輩の存在は嬉しかったようだ。
イタチ先輩、イタチ先輩、と懐いてくる彼女のことをオレも妹のように可愛がった。
しかし、その関係も長くは続かない。
迫り来る”重要任務”。それが遂行されれば、彼女と顔を合わせることも二度とない。
そしてーーーその重要任務が執り行なわれるのは、明日だ。
『イタチ先輩?』
いつもの任務を終え、今日はきちんと報告書を提出してから向かった食事処。
彼女はいつもの狐うどんを頬張りながら首を傾げている。初めて狐うどんを頼んだ日から彼女はそれをいたく気に入り、オレと落ち合った時は必ずそれを頼んでいた。
彼女の視線がオレの手元に移る。全く進んでいない箸を疑問に思っている様子だ。オレは箸を持ち、無理やり米を口の中に押し込んだ。炊き立ての白米も、今日は口の中でボソボソと味気ない。
『どうかしましたか?』
「…いや、なんでもない」
彼女は瞳に疑問の色を残しながらもそれ以上追求してはこなかった。
膝を突き合わせて、無言で箸を進める。二人でする最後の食事なのに、ほとんど会話が交わされることはなかった。
会計を済ませ、二人で暖簾を潜る。どんよりと重い雲からしとしとと雨が降り始めていた。
『降ってきましたね』
彼女は懐から折り畳み傘を取り出した。流石、用意周到である。
反してオレは任務終わりに傘など持っているわけもない。走って帰るか、と思った矢先彼女がオレの目の前に傘を差し出した。
『入っていってください』
「…いや、オレは」
彼女が寂しげに眉を寄せる。その顔を見てしまったら、これ以上厚意を否定するのは躊躇われた。
どうせ最後なのだ。少しばかり無駄な時間を過ごしたってバチは当たらないだろう。
「じゃあ、頼む」
『!はいっ』
ぱっ、と花が咲く。
数ヶ月前までは知らなかった顔。いや、知ろうともしなかった、の間違いだ。
閉じ込められた雨の世界で、オレたちはお互いの呼吸音を聞いた。相変わらず会話はなかった。しかし、そんなことは全く気にならない程居心地が良い。オレの心の安寧は、今まさにここにあった。
『…雨、止みそうにないですね』
その言葉の裏に、止まないでほしいという意味が含まれている気がした。しかしそれはオレの思い上がりだと思い直し、一言そうだな、と答える。
この時間が永遠に続けばいい。そんな拙い願いを二人で胸に抱く。しかしそんなことが不可能だということもわかり切っていた。
この花のような少女に、オレはあまりにも情が湧きすぎている。それが血縁者である妹に対する情と表現するには些か不自然な感情だということも、オレはとうの昔に気づいていた。
彼女と過ごした陽だまりのような日々の中。
オレは、人に恋をするという感情を初めて知った。
それは偶然というにはあまりにも残酷で、必然というにはあまりにも虚しい恋だった。
そして彼女がオレに抱く感情はオレのものと異なることもよくわかっていた。
彼女は大人びて見えるだけで、心情は年相応に幼い。見ていればわかる。彼女はまるで、心の拠り所を”大人”に求めている迷子の子供のようだった。
オレがいなくなったら彼女はどうなるのだろう、というのは当然湧く愁事である。しかしオレにはどうしてやることもできない。オレは明日をもって里から追われる犯罪者になる。
時が流れ、いつかオレの知らないところで彼女が大人になって、彼女を本当に愛してくれる男に出会えることを願うことしかできない。願いたくなくとも、願わなければならない。
幸せな時間はあっさりと終焉を迎える。彼女の家の垣根が見え、それと同時に雨脚が強くなる。まるで二人の仲を裂くような、重くて冷たい雨。
玄関まで彼女を送り届け、そのまま傘を預けようとすると彼女が強い力でそれを押し返した。
『家まで持っていってください』
濡れちゃいますから、と彼女。
しかしその言葉を安易に受け入れることはできなかった。
明日、オレは里を抜ける。傘を借りたところで、もう二度と返すことはできない。
彼女は強い瞳でオレを見ている。その瞳を見て悟る。全て見透かされていると。おかしな話だ。彼女がオレの任務のことなんて知るはずはないのに。
無言のオレに、彼女はさらに強い力で傘を押し付ける。握った柄がひんやりと冷たかった。
『返すのはいつでもいいんです。明日でも、あさってでも、一ヶ月後でも』
『…でも、”いつか必ず返してくださいね”』
彼女は笑った。その顔は花と表現するにはあまりにも寂しく、儚い笑みだった。
オレは何も言えないまま、去りゆく彼女の後ろ姿を見た。まるで花が散ってしまったかのような、頼りなく華奢な背中。
いつまでも止まない雨の向こうで、彼女は雨に溶けるように静かに消えていった。
あの時の傘はまだ、返せていない。
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