悪友の結婚
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番外編
「結婚するんだよね」
任務を終え、一番面倒な報告書の作成をしている時だった。顔を上げると、そこには真剣な面持ちで書類の確認をしている同僚の姿。なんだ、空耳か。オレは再び紙にペンを滑らせた。
「無視かよ」
また顔を上げる。すると、今度は不服そうにオレを睨んでいる同僚と目があった。仕方なくオレはペンを置く。
「誰が?」
「僕がだよ」
「…今日、何月何日だっけ」
少なくとも4月1日じゃねぇよ、と同僚…今日も任務を共にした雲隠れの忍び、早瀬千秋は言った。オレの心の内を読んだようである。流石、付き合いが長いだけのことはある。
結婚って、あれだよな。男女が契りを交わして、一緒に住んで、あれやこれやしてしまう制約の多いアレ。
ついにやってしまったか。オレは哀れみの気持ちを隠さず、奴の肩をポンと叩いた。
「あんまり気を落とすなよ」
「……」
「まあ、結婚ってそれなりにいいものだと聞くぞ。で、ガキが産まれんのいつ?」
子供できてねえよ。千秋は静かに言った。今日一番驚いた。絶対に女を孕ませて、責任をとらされるんだと思ったのに。
千秋は雲隠れの中でも一番大きい財閥の一人息子だ。加えて成績優秀で容姿端麗、風流才子とは千秋のためにあるような言葉である。幼少期から当たり前のように女にモテて、本人も無類の女好き。食った女は数知れず、しかし誰とも付き合わない。オレが知っている早瀬千秋とはそういう男である。
「そもそもお前、彼女いたの?」
千秋は書類にペンをコツコツと叩きながら少し考えるような仕草を見せた。
「彼女っつーか…お見合いというか、なんというか」
「お見合いねぇ…」
これまた意外な出会いである。ということは相手も相当家柄の良いお嬢さんに違いない。
千秋が結婚か。可哀想に、と会ったこともない女性に心の内で同情する。奥さんは千秋の本性を知っているのだろうか。いや、知らないだろうな。こんな苦労必須の結婚、進んでしたい女性なんていないだろう。断言できる。コイツは3日あれば絶対に浮気する。
千秋はなんとなく夢現の表情である。
オレは書類に三度目を落とした。残りの枠を埋めながら、微妙に落ち着かない気持ちをそっと包み込む。
「今度紹介してな」
千秋は少しの沈黙の後、ああ、と答えた。
****
それから2週間後。とある任務終わりに千秋がオレの肩を叩いた。
「シー。これから少し時間ある?」
オレは独身一人暮らしである。家で待つ人間もいなければ、やることもない。
しかしそれを伝えるのも癪なので、少しだけならな、と答えた。千秋は時間はそんなに掛からない、と言った。
「彼女、近くに来てるみたいなんだ。紹介したいんだけど」
彼女、というのは奥さんのことだろう。1週間前に入籍した、という話だけは聞いている。
今、世界で一番不幸な女性。興味がないと言ったら嘘になる。
オレはいいぜ、と言った。千秋は無言で頷いた。
連れてこられたのは小洒落た甘味処だった。コイツこんなところ知ってんのか。さすが女に困ったことがない男である。門扉を潜ると、入り口付近に座っていた女性と目が合う。心の中にふわっと春風が吹いた。
『早瀬様』
桜色の唇が、隣の男の名前を呼んだ。奴が長年の付き合いの中でも一度も見たことがないくらいに顔を綻ばせている。
「ごめんね、待った?」
『いいえ。今来たところです』
女性は席を立ち、オレに深々と頭を下げた。
『初めまして。早瀬の妻です』
その後、彼女が自分の名前を言った気がしたがオレの耳には届かなかった。わなわなと震える感情がオレの心を支配する。
クソ千秋め。この面食いが。めちゃくちゃ美人じゃねえか。
「こちら、僕の奥さん。で、これが同期のシー」
「死ね」
「は?」
「…いや、なんでもない」
うっかり心の声が口から漏れてしまった。彼女は再びオレに頭を下げる。
『貴方がシーさんですか。お話は伺っております』
座って、と千秋が彼女に促した。彼女は一歩踏み出しオレにどうぞ、と椅子を引く。大和撫子かよ、と思いながらオレは席に腰を下ろした。千秋が当然のように奥さんの横に腰掛ける。
「迷わなかった?」
『はい。きちんと地図を見て来たので。ただ少し肌寒い気がしました。まだ気温に慣れなくて』
「帰りは僕の服を貸してあげる。体を冷やすのは良くないから」
夫婦の仲睦まじい会話を聞きながら、オレは既に帰りたい気持ちで一杯である。
しかしそういうわけにはいかず、千秋とオレは珈琲、奥さんはミルクティーを頼んだ。
飲み物を待つ最中も、千秋が熱心に奥さんに話しかけている。顔はデレデレ、オレの存在は完全に無視である。
お前オレに紹介する気あるのか、と内心舌を打った。
『シーさんは』
それを見兼ねてか、奥さんがオレに話題を振った。
『とても優秀な忍びなんですよね。なんでも雷影様の側近だとか』
感知タイプのオレは雷影様に補佐として使われることが多い。それに対してバリバリ攻撃タイプの千秋は戦場の最前線に立つことが多かった。オレより千秋の方が数段優秀なのに、褒められるのはなんとなくいい気にはならない。
「別に。オレなんかより千秋の方が優秀ですよ」
オレの不機嫌を察したのか、奥さんが大きな瞳をパタパタと瞬かせている。
千秋がすかさず机の上の布巾をオレの顔面に投げる。見事にヒットしてぶっ、と吹いた。
「きったねぇな、何すんだよ」
「困ってるじゃないか。ごめんね」
お前が謝るのはオレだろう、と思ったが千秋は既にオレの顔を見ていない。奥さんが小さく首を横に振った。
『いえ。すみません。気分を害させてしまったみたいで』
不満な様子を一切見せず、素直に謝る奥さん。千秋とは大違いだな、と思いながら運ばれて来た珈琲に口をつける。思いの外熱くて吹き出しそうになったのを必死に堪えた。口の中の皮がべろん、と剥ける。
「ここのは熱いから、少し冷ました方がいいよ」
『わかりました』
知ってるなら先にオレに言え、とイラついたがもう突っ込むのも面倒である。
痛む口を一人で慰めながら、オレはコーヒーカップを置いた。
「奥さん」
『はい?』
「貴方雷の人間じゃありませんよね。出身はどちらですか?」
「彼女は火の国だよ」
答えたのは千秋だった。オレは雷影様の側近である。例え他国でもそれなりの家系であれば把握しているはずだが、オレは彼女を見たことがない。
「お家柄は?」
『…特にありません。普通の家庭です』
やっぱりな、とオレは頬の内側を噛んだ。
他所の国の女。それだけならまだしも格式すらないという。こんな下女と変わらぬ女が、雷の国屈指の早瀬に嫁いできただなんて。
ギロ、と千秋に睨まれる。しかしそれを無視してオレは言った。
「そのご年齢で、分相応という言葉をご存知ない?」
『……』
「何故あなたみたいな女が、寄りにもよって早瀬に嫁いできたんですか」
「シー!」
千秋が声を荒げた。いいんですよ、と冷静に奥さん。
『そう思われるのは当然です。私は早瀬様とは到底釣り合わない女ですから』
「そんなことはない」
被せるように千秋は言った。死ね、と顔に書いた千秋がオレを睨みつける。
「僕が一方的に求婚したんだ。彼女はそれに応えてくれただけだよ」
ごめんね、と千秋がまた奥さんに謝っている。奥さんもまた、いえ、と応えた。
話は盛り上がらず、飲み物が冷めた頃にはもう会計に立ち上がっていた。千秋がオレが払うと言った言葉に遠慮せず、店を後にする。
夕刻の冷えた風がオレの頬をくすぐった。そのまま帰路に着こうとすると、シーさん、と歌うような声。振り返れば、そこにはやはり奥さんが立っていた。
奥さんはオレを見て、遠慮がちに瞼を伏せた。こんなに長い睫毛を持った人間をオレは初めて見たかもしれない。
『お時間とらせてしまってすみませんでした』
できればあまり話したくない人種である。奥さんは上目遣いで気遣わしげにオレを見ている。あんなに冷たくされたのにまだ話しかけてくるなんて、彼女は繊細な見た目に反して図太いのかもしれない。
『シーさんは…』
少しだけ間をあけて、奥さんは言った。
『主人のことが好きなんですね』
「…………は?」
眉間に皺を寄せたオレに、誤解を生む発言をしたことに気づいたのだろう。慌ててそういう意味じゃなくて、と彼女は続けた。
『友人としてです。とても気にしてくださっているんだなと』
「……」
そういうことか、と納得はしたものの俄かには肯定し難い話である。
千秋とオレは、無駄に付き合いの長い悪友である。それ以上でも以下でもない。
「ただの腐れ縁ですよ」
『……』
奥さんは笑った。初めて見た彼女の笑顔に不覚にもドキッとする。
爽やかな風がオレたちの間を駆け抜けていく。奥さんは長い髪を手で押さえていた。たったそれだけの仕草が絵画のように美しい。彼女はまるで、花のような女性だった。
『これからも、主人をよろしくお願いします』
悪い子じゃなさそうだ、と思ってしまったオレは、千秋に負けず劣らず単純馬鹿なのかもしれない。
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