暮らすことと生きること
名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
※8のパーティチャット若干のネタバレ有り
「花子!花子はいるか!!」
少しハスキーで艶のある声が私の名前を呼ぶ。
それはおやつ時を少しばかり過ぎた頃のこと。間食にしようと買っておいたカップ麺に給湯室とは名ばかりの普通のキッチンがある部屋からお湯を頂戴して、いつもの自分のデスクで3分をいまかいまかと待っている時だった。突然私を呼んで文字通り飛んで室内に入ってきた我が上司。ソンヒさんが血相を変えてやって来た。そのただならぬ様子にもしや何かやらかしてしまったかと内心冷や汗をかいていたのだが、全く心当たりがない。いや、でも、気づかぬうちに粗相をしでかしている可能性もある。仕上がりを待つカップ麺のことが少し気になったが意を決し「何かありましたか」と神妙な面持ちで彼女の事を見る。
「……ヤツが、あれが出たんだ……!」
鬼気迫る表情とその一言で私は全てを察した。みんな大嫌いなあの黒いでかい不愉快極まりない例の虫が出てしまったのだ。
「ジュンギさんは……」
「あいつは今別件でいなくてな。頼れるのが花子しかいないんだ。頼む、一緒に来てくれ!」
私の手をぎゅうと握られて懇願されては断るという選択肢はない。まあ最初から断るつもりなんてなかったけれども。それでも一応食べられるのを待っているカップ麺の事は非常に心残りではあるが。一仕事終えたら確実に伸びきっているであろうしょうゆラーメンに心の中で合掌し、許しておくれ伸びても完食してあげるからと心の中で謝りつつソンヒさんに引きずられていった。
*****
「お、終わったか……?」
部屋の入り口から恐々とこちらを窺うソンヒさんに軽く頷いてみせればあからさまにほっとした表情をみせた。普段のクールな顔とはえらい違いである。こんな表情を私に見せてくれるほど少しは信頼されて、許してくれているのかなとちょっとだけ浮わついた気持ちになる。ソンヒさんに連れられて部屋に来たもののもし隠れられていたらどうしようとか考えていたがそれも杞憂に終わった。堂々と床を這いずり回っているそれにぞわっとしたものの、なるだけ深く考えないようにして持参した丸めた新聞紙で叩き、間髪いれず殺虫剤を噴射してとどめをさした。動かなくなったヤツを大量のティッシュで包んでビニール袋にいれる。汚れた床を掃除すればヤツがいた痕跡はなくなった。我ながら手早い処理である。
「花子がいて本当に助かった。相変わらず手際がいいな」
「まー、一人暮らしが長いと慣れますよね。なにしろやってくれる人は自分しかいないですから」
誰だってヤツの相手は嫌である。見ただけで嫌悪感でいっぱいになるあの虫なんて好きだという人はかなり少ないだろう。一人暮らしを始めた当初、自分の部屋でヤツとエンカウントした時は酷い有り様だった。殺虫剤を置いていなかったものだから、ネットでかじった情報で台所用洗剤をあちらこちらに撒き散らし、最終的に動きが鈍ったヤツを履いていたスリッパで渾身の力をこめて叩き潰した。あの時は後処理が本当に大変だった。そして買ったばかりのスリッパもダメにしてしまった。そんな苦い経験もあって殺虫剤はもちろん忌避剤を置いたり、掃除をこまめにするなど気をつけるようになったのだ。しかし、注意してても出るときは出る。その度人は強くなるのだ。だからといって出てきてほしいわけはないが。
「そうなのか……。いやしかし、私は一向に慣れる気がしないな……」
「ご心配なく。アレが現れた時は私たちが退治しますので!」
胸を張って宣言すればソンヒさんはふっと微笑んでありがとうと言ってくれた。どんな些細な事でもソンヒさんの力になりたいという気持ちに嘘はないが、こと虫関係のことについては特に気にかけておかなければならない。なぜなら以前ソンヒさんがヤツに出会した時に銃火器を持ち出し、部屋中を蜂の巣にしようとしたからだ。そんなことが度々あってはたまらないのでコミジュル内では掃除や虫等の害虫が発生する原因への配慮が厳しく行われているのである。ソンヒさんにも万が一見た時は必ず誰かに言うことと約束されている。
「休憩中にすまないな。本当に助かったよ」
「いいえー、とんでもないです。また何かありましたら呼んでください」
ソンヒさんに見送られ部屋を後にする。途中洗面所で手をきれいに洗ってから、デスクに戻るとやはりというべきかすっかり麺は伸びきってしまっていた。こればっかりは仕方ないよなぁ。捨てるという選択はないので伸びた麺を啜りきちんと完食してから業務を再開した。
*****
「花子、ちょっといいか。」
ソンヒさんが次に顔を覗かせたのは、あらかた仕事を片付けた頃合いだった。
「はい。なんですか?」
「今日この後夕食でもどうかと思ってな」
「え!いいんですか!行きたいです!」
思ってもみない誘いに二つ返事で了承する。ソンヒさんとはたまにご飯を誘っていただいたり、遊びに連れて行ってくれたりする。以前の職場だと考えられないことだが、ここの方たちとは自分で言うのもなんだがなかなか良好な関係を築けているのではないかと思っている。業務内容は別として。
「そうか、もう仕事はキリが良さそうか?」
「はい。ちょうど終わったところです」
「なら早速だが向かうとしよう」
「わかりました。すぐに用意しますね!」
デスク周りをささっと片付けて、ロッカーから鞄と上着を出してソンヒさんの元へ向かう。行こうか、と歩き出す彼女の隣に並ぶ。心の中はもうソンヒさんと食べる夕飯のことで頭がいっぱいだった。
*****
ソンヒさんから何が食べたいかと聞かれて私は即答でラーメンと答えた。おやつ時のカップ麺の名残である。ベストな状態で食べられなかった事もあり、すっかりラーメンの口になっていたのだ。ソンヒさんとよく行くいつものお店に入り、手早く注文を済ませる。おしぼりで手を拭いて、先に出されていたお冷やを飲んで一息つく。
「ラーメンといえば……」
「なんですか?」
「いつも美容室で私はラーメン特集の雑誌を渡されるのだが。そんなにラーメンが好きそうに見えるか?」
何を言うのかと思えばソンヒさんからまさかのおもしろ発言が出てきたので、飲んでいた水を吹き出しそうになる。同時に込み上げる笑いをなんとか胸の中に押し込んで、表情筋をフル活用して話を聞いた。ソンヒさんがあまりにも真剣に話すので笑うわけにはいかないのだ。
「ラーメン好きに見えるかどうかといえば全然そうは見えませんよ」
「そうか?でも毎回出されるんだ」
「私も最初はファッション誌を出されましたけど、その中のおいしいパン屋さん特集を食い入るように見てたせいか、次からはグルメ系の雑誌を出してくれるようになりましたね」
「それでも最初は違ったんだろう?私の場合初めからラーメンの雑誌だったんだ」
「たまたまですよー。そんな気にすることないです。それにソンヒさんラーメン好きでしょう?」
「まあ、嫌いではないが……」
複雑だといった表情のソンヒさんにひたすら気にしないと説いていたら、店員さんの元気な声と共に料理が続々と運ばれてきた。
「お待たせしましたー!餃子とレタス炒飯大盛、唐揚げです!」
「やった!ほら、ソンヒさんごちそうがきましたよ」
「ああ。取り分けてやるから落ち着け」
美味しそうな料理が次々と運ばれてきてあからさまにそわそわと落ち着きがなくなった私を見てソンヒさんが笑った。料理と一緒に持ってきてくれた取り皿の山から一枚ソンヒさんが手にすると、自ら取り分けてくれる。普通なら上司にそんなことさせられないのだが、ソンヒさんは何故か私にご飯をよそって渡すのが好きらしい。曰く、どれだけ山盛りにしてもぺろりと美味しそうに食べてくれるのが嬉しいのだそうだ。それを聞いた時は少し照れ臭かったのを覚えている。
「ほら、たくさん食べるといい」
「わあ!ありがとうございます!」
ソンヒさんから次々とお皿が渡される。こんもりと皿に盛られた炒飯に積み上げられた唐揚げ、きれいに行儀よく並んだ餃子。目の前に並んだごちそうに勝手に喉が鳴る。
「いただきます」
「いただきます」
ソンヒさんと一緒に手を合わせる。
そこからはひたすら食べ進めた。感想を言ったり、他愛のない会話を交えながら美味しく楽しい食事会は和やかに過ぎていく。途中できたメインのラーメンもやってくれば気分は最高潮だった。これであのやわやわになったカップ麺の記憶も報われる。ついでに顔を出した彼女を震え上がらせた黒い虫の姿も頭にひょいと浮かんできたが、即座に蓋をして無かったことにした。
しばらく2人で麺を啜って、鍋を振る音や注文を繰り返す店員さんの声なんかが耳を通っていく。厨房の熱気と温かい食事に外からも内側からも温もりが籠っていくのが分かる。店内の騒がしいけれど、どこか心地よい喧騒をBGMに程なくして全ての料理を平らげた。私は言うまでもないが、ソンヒさんもこれでなかなかよく召し上がる方なのだ。
「はあ、ごちそうさまでした」
「いつ見ても惚れ惚れする食べっぷりだな。見ているこちらも気分が良い」
「えっ、そうですか?恐縮です」
「花子と食事をするのは楽しいよ。無論それ以外でもだが」
謎多き組織コミジュルは意外にアットホームな職場であった。求人募集にこの文言が書かれていたら間違いなくヤバめの会社であるが、ここはそんなことはなく文字通りアットホームであった。上司と部下の距離は近いけどもちろん締めるところは締めるし、武闘派の一見恐い人達も仲間内では気さくで優しい人も多かった。部外者であった私の事も受け入れてくれて、ボスであるソンヒさんは食事だけでなく、たまに遊びにも連れて行ってくれた。ゲームセンターで対戦ゲームをしてクレーンゲームで取れないぬいぐるみと格闘したり、釣り堀でおしゃべりしながら釣糸を垂らしてみたり、夜の浜北公園を散歩してきらきらと光る夜景を眺めたり。そこにはジュンギさんも混ざることも多く、気がつけば彼らと仕事でもプライベートでも付き合うことが多くなった。入りたての頃は自身の安否を心配していたが、昔の自分が見たらきっと驚くことだろう。
「そろそろ出ようか。もう思い残しはないか?」
「はい!すごく満足です!」
「それは良かった」
ソンヒさんはにこりと微笑むと店員さんを呼んで会計をしにレジの所へと行った。ソンヒさんはいつも私にご飯をごちそうしてくれる。私が財布を出そうとすると「私がしたくてしていることだから気にするな」そう言って強く制される。私は自分が大食漢だと自負しているので申し訳ないのだが「たくさん食べる花子の姿が見たいんだ」と晴れやかな笑顔で言われてしまった事があるので、有り難くごちそうになっている。
油の染みた暖簾を潜って外で待っているとすぐにソンヒさんもお店から出てきた。
「ソンヒさんごちそうさまでした!とっても美味しかったです」
「そうか。それは何よりだ」
少し古ぼけたラーメン屋から異次元の美人が出てくる画角はいつ見ても不思議な感じがした。ソンヒさんにご飯のお礼を言い、そのまま帰宅するのかと思ったら少し前を歩く彼女が立ち止まった。
「そうだ、花子。腹ごなしに少し歩かないか?」
左に垂らした緩やかにウェーブのかかった髪が小首を傾げた事でさらりと揺れる。断る理由もなく、むしろ嬉しいお誘いに私はすぐに「行きます!お供します」と返事をした。それを受け取り彼女は頷くと優雅に歩くのを再開する。私も今度は隣に並んで夜の街を何とはなしに眺めながら歩く。夜の異人町は場所にもよるが概ね賑やかだ。既に出来上がっているサラリーマンの人達が次の店の算段をつけていたり、若い女の子のグループがきゃらきゃらと笑い合いながら身を寄せ写真を撮っている。夜はこれからだと客引きをしている店員さんに、同伴出勤するであろうキャバクラのお姉さんと肩を組む男性。あちこちからひっきりなしに人が行き交い、楽しげに多種多様の話し声と熱気がこの街を包み込んでいた。
「今日も賑やかですねぇ」
「そうだな。花子、ちゃんと前を向いて歩かないとぶつかるぞ」
ふわふわとした足取りで危なっかしく見えたのかソンヒさんが注意してくれる。それなのに、周囲を観察しながら余所見をして歩いていたのが悪かったのか、すぐ傍を千鳥足の若者がふらりと通りがかる。危うくぶつかりそうになったが、その前にソンヒさんがすばやく腕を引いてくれたので事なきを得た。
「まったく言った傍から……」
「おっと。すみませんソンヒさん、助かりました」
呆れたと顔にもありありと出ていて申し訳なく思う。今度は気をつけて歩こうと体勢を整えたところで右手がひょいと何かにさらわれた。驚いて自分の手の先を見ればソンヒさんが私の手をしっかりと握っていた。
「え、えっ?ソンヒさん?」
「ふふ、危なっかしくて見てられないからな。手を繋いでやろう」
特別だぞ。と付け加えられ、顔に熱が集まるのが分かる。彼女のような人がやると、なんと破壊力の強い事だろう。握られた手はソンヒさんの黒い手袋越しだけれど、温もりが伝わって私の心まで満たしてくれる。
手を繋いで歩いているだけなのに、先ほどまで混沌としていた街並みが一気に輝いて見える。元々楽しそうだなぁと他人事のように景色が流れていたというのに、今は自分が最高に幸せで楽しいんだぞ、と自慢したくなるような不思議と浮わついた気分になってくる。それほどお酒は飲んではいないというのに口からは勝手に笑みがこぼれていた。理由は明白だが。
「ふふ」
「何笑ってるんだ」
「すみません。嬉しくて。それに楽しいです」
「ふっ、何だそれは」
彼女が履くのは高いヒールのものばかりで私はいつもソンヒさんを見上げていた。今も少し見上げてソンヒさんの顔を見れば、彼女も楽しげに表情を緩めてこちらを見ていた。
「しかし、そうだな。私も楽しいよ」
「じゃあ同じですね」
「ああ。一緒だ」
ただ、何でもないいつも通りの日常の一幕だ。それだというのに私は今ひどく安心と幸福を感じている。「せっかくだ、浜北公園へ夜景でも見に行くか」そうソンヒさんが言って公園の方へと方向転換をする。小気味良い、かつかつとピンヒールがコンクリートを叩く音に私の背の低いパンプスのペタペタと地面を蹴る音が雑踏の中に混ざっていく。
「今夜もまたカップルがたくさんいるんでしょうねえ」
「だろうな。なに、私たちも負けてはいないさ。こっちには花子が居るのだからな」
「すごい口説き文句ですね。惚れていいですか」
「ふっ、前から私の事が好きなくせに」
「んふふ、ばれてましたか」
「ああ。知ってるよ」
今日も大変なことがいくつもあった。
けれど1日の締めくくりがこれ程すてきで楽しいことで終わるのであれば、また明日からも頑張ろうと思えるのだ。
「花子!花子はいるか!!」
少しハスキーで艶のある声が私の名前を呼ぶ。
それはおやつ時を少しばかり過ぎた頃のこと。間食にしようと買っておいたカップ麺に給湯室とは名ばかりの普通のキッチンがある部屋からお湯を頂戴して、いつもの自分のデスクで3分をいまかいまかと待っている時だった。突然私を呼んで文字通り飛んで室内に入ってきた我が上司。ソンヒさんが血相を変えてやって来た。そのただならぬ様子にもしや何かやらかしてしまったかと内心冷や汗をかいていたのだが、全く心当たりがない。いや、でも、気づかぬうちに粗相をしでかしている可能性もある。仕上がりを待つカップ麺のことが少し気になったが意を決し「何かありましたか」と神妙な面持ちで彼女の事を見る。
「……ヤツが、あれが出たんだ……!」
鬼気迫る表情とその一言で私は全てを察した。みんな大嫌いなあの黒いでかい不愉快極まりない例の虫が出てしまったのだ。
「ジュンギさんは……」
「あいつは今別件でいなくてな。頼れるのが花子しかいないんだ。頼む、一緒に来てくれ!」
私の手をぎゅうと握られて懇願されては断るという選択肢はない。まあ最初から断るつもりなんてなかったけれども。それでも一応食べられるのを待っているカップ麺の事は非常に心残りではあるが。一仕事終えたら確実に伸びきっているであろうしょうゆラーメンに心の中で合掌し、許しておくれ伸びても完食してあげるからと心の中で謝りつつソンヒさんに引きずられていった。
*****
「お、終わったか……?」
部屋の入り口から恐々とこちらを窺うソンヒさんに軽く頷いてみせればあからさまにほっとした表情をみせた。普段のクールな顔とはえらい違いである。こんな表情を私に見せてくれるほど少しは信頼されて、許してくれているのかなとちょっとだけ浮わついた気持ちになる。ソンヒさんに連れられて部屋に来たもののもし隠れられていたらどうしようとか考えていたがそれも杞憂に終わった。堂々と床を這いずり回っているそれにぞわっとしたものの、なるだけ深く考えないようにして持参した丸めた新聞紙で叩き、間髪いれず殺虫剤を噴射してとどめをさした。動かなくなったヤツを大量のティッシュで包んでビニール袋にいれる。汚れた床を掃除すればヤツがいた痕跡はなくなった。我ながら手早い処理である。
「花子がいて本当に助かった。相変わらず手際がいいな」
「まー、一人暮らしが長いと慣れますよね。なにしろやってくれる人は自分しかいないですから」
誰だってヤツの相手は嫌である。見ただけで嫌悪感でいっぱいになるあの虫なんて好きだという人はかなり少ないだろう。一人暮らしを始めた当初、自分の部屋でヤツとエンカウントした時は酷い有り様だった。殺虫剤を置いていなかったものだから、ネットでかじった情報で台所用洗剤をあちらこちらに撒き散らし、最終的に動きが鈍ったヤツを履いていたスリッパで渾身の力をこめて叩き潰した。あの時は後処理が本当に大変だった。そして買ったばかりのスリッパもダメにしてしまった。そんな苦い経験もあって殺虫剤はもちろん忌避剤を置いたり、掃除をこまめにするなど気をつけるようになったのだ。しかし、注意してても出るときは出る。その度人は強くなるのだ。だからといって出てきてほしいわけはないが。
「そうなのか……。いやしかし、私は一向に慣れる気がしないな……」
「ご心配なく。アレが現れた時は私たちが退治しますので!」
胸を張って宣言すればソンヒさんはふっと微笑んでありがとうと言ってくれた。どんな些細な事でもソンヒさんの力になりたいという気持ちに嘘はないが、こと虫関係のことについては特に気にかけておかなければならない。なぜなら以前ソンヒさんがヤツに出会した時に銃火器を持ち出し、部屋中を蜂の巣にしようとしたからだ。そんなことが度々あってはたまらないのでコミジュル内では掃除や虫等の害虫が発生する原因への配慮が厳しく行われているのである。ソンヒさんにも万が一見た時は必ず誰かに言うことと約束されている。
「休憩中にすまないな。本当に助かったよ」
「いいえー、とんでもないです。また何かありましたら呼んでください」
ソンヒさんに見送られ部屋を後にする。途中洗面所で手をきれいに洗ってから、デスクに戻るとやはりというべきかすっかり麺は伸びきってしまっていた。こればっかりは仕方ないよなぁ。捨てるという選択はないので伸びた麺を啜りきちんと完食してから業務を再開した。
*****
「花子、ちょっといいか。」
ソンヒさんが次に顔を覗かせたのは、あらかた仕事を片付けた頃合いだった。
「はい。なんですか?」
「今日この後夕食でもどうかと思ってな」
「え!いいんですか!行きたいです!」
思ってもみない誘いに二つ返事で了承する。ソンヒさんとはたまにご飯を誘っていただいたり、遊びに連れて行ってくれたりする。以前の職場だと考えられないことだが、ここの方たちとは自分で言うのもなんだがなかなか良好な関係を築けているのではないかと思っている。業務内容は別として。
「そうか、もう仕事はキリが良さそうか?」
「はい。ちょうど終わったところです」
「なら早速だが向かうとしよう」
「わかりました。すぐに用意しますね!」
デスク周りをささっと片付けて、ロッカーから鞄と上着を出してソンヒさんの元へ向かう。行こうか、と歩き出す彼女の隣に並ぶ。心の中はもうソンヒさんと食べる夕飯のことで頭がいっぱいだった。
*****
ソンヒさんから何が食べたいかと聞かれて私は即答でラーメンと答えた。おやつ時のカップ麺の名残である。ベストな状態で食べられなかった事もあり、すっかりラーメンの口になっていたのだ。ソンヒさんとよく行くいつものお店に入り、手早く注文を済ませる。おしぼりで手を拭いて、先に出されていたお冷やを飲んで一息つく。
「ラーメンといえば……」
「なんですか?」
「いつも美容室で私はラーメン特集の雑誌を渡されるのだが。そんなにラーメンが好きそうに見えるか?」
何を言うのかと思えばソンヒさんからまさかのおもしろ発言が出てきたので、飲んでいた水を吹き出しそうになる。同時に込み上げる笑いをなんとか胸の中に押し込んで、表情筋をフル活用して話を聞いた。ソンヒさんがあまりにも真剣に話すので笑うわけにはいかないのだ。
「ラーメン好きに見えるかどうかといえば全然そうは見えませんよ」
「そうか?でも毎回出されるんだ」
「私も最初はファッション誌を出されましたけど、その中のおいしいパン屋さん特集を食い入るように見てたせいか、次からはグルメ系の雑誌を出してくれるようになりましたね」
「それでも最初は違ったんだろう?私の場合初めからラーメンの雑誌だったんだ」
「たまたまですよー。そんな気にすることないです。それにソンヒさんラーメン好きでしょう?」
「まあ、嫌いではないが……」
複雑だといった表情のソンヒさんにひたすら気にしないと説いていたら、店員さんの元気な声と共に料理が続々と運ばれてきた。
「お待たせしましたー!餃子とレタス炒飯大盛、唐揚げです!」
「やった!ほら、ソンヒさんごちそうがきましたよ」
「ああ。取り分けてやるから落ち着け」
美味しそうな料理が次々と運ばれてきてあからさまにそわそわと落ち着きがなくなった私を見てソンヒさんが笑った。料理と一緒に持ってきてくれた取り皿の山から一枚ソンヒさんが手にすると、自ら取り分けてくれる。普通なら上司にそんなことさせられないのだが、ソンヒさんは何故か私にご飯をよそって渡すのが好きらしい。曰く、どれだけ山盛りにしてもぺろりと美味しそうに食べてくれるのが嬉しいのだそうだ。それを聞いた時は少し照れ臭かったのを覚えている。
「ほら、たくさん食べるといい」
「わあ!ありがとうございます!」
ソンヒさんから次々とお皿が渡される。こんもりと皿に盛られた炒飯に積み上げられた唐揚げ、きれいに行儀よく並んだ餃子。目の前に並んだごちそうに勝手に喉が鳴る。
「いただきます」
「いただきます」
ソンヒさんと一緒に手を合わせる。
そこからはひたすら食べ進めた。感想を言ったり、他愛のない会話を交えながら美味しく楽しい食事会は和やかに過ぎていく。途中できたメインのラーメンもやってくれば気分は最高潮だった。これであのやわやわになったカップ麺の記憶も報われる。ついでに顔を出した彼女を震え上がらせた黒い虫の姿も頭にひょいと浮かんできたが、即座に蓋をして無かったことにした。
しばらく2人で麺を啜って、鍋を振る音や注文を繰り返す店員さんの声なんかが耳を通っていく。厨房の熱気と温かい食事に外からも内側からも温もりが籠っていくのが分かる。店内の騒がしいけれど、どこか心地よい喧騒をBGMに程なくして全ての料理を平らげた。私は言うまでもないが、ソンヒさんもこれでなかなかよく召し上がる方なのだ。
「はあ、ごちそうさまでした」
「いつ見ても惚れ惚れする食べっぷりだな。見ているこちらも気分が良い」
「えっ、そうですか?恐縮です」
「花子と食事をするのは楽しいよ。無論それ以外でもだが」
謎多き組織コミジュルは意外にアットホームな職場であった。求人募集にこの文言が書かれていたら間違いなくヤバめの会社であるが、ここはそんなことはなく文字通りアットホームであった。上司と部下の距離は近いけどもちろん締めるところは締めるし、武闘派の一見恐い人達も仲間内では気さくで優しい人も多かった。部外者であった私の事も受け入れてくれて、ボスであるソンヒさんは食事だけでなく、たまに遊びにも連れて行ってくれた。ゲームセンターで対戦ゲームをしてクレーンゲームで取れないぬいぐるみと格闘したり、釣り堀でおしゃべりしながら釣糸を垂らしてみたり、夜の浜北公園を散歩してきらきらと光る夜景を眺めたり。そこにはジュンギさんも混ざることも多く、気がつけば彼らと仕事でもプライベートでも付き合うことが多くなった。入りたての頃は自身の安否を心配していたが、昔の自分が見たらきっと驚くことだろう。
「そろそろ出ようか。もう思い残しはないか?」
「はい!すごく満足です!」
「それは良かった」
ソンヒさんはにこりと微笑むと店員さんを呼んで会計をしにレジの所へと行った。ソンヒさんはいつも私にご飯をごちそうしてくれる。私が財布を出そうとすると「私がしたくてしていることだから気にするな」そう言って強く制される。私は自分が大食漢だと自負しているので申し訳ないのだが「たくさん食べる花子の姿が見たいんだ」と晴れやかな笑顔で言われてしまった事があるので、有り難くごちそうになっている。
油の染みた暖簾を潜って外で待っているとすぐにソンヒさんもお店から出てきた。
「ソンヒさんごちそうさまでした!とっても美味しかったです」
「そうか。それは何よりだ」
少し古ぼけたラーメン屋から異次元の美人が出てくる画角はいつ見ても不思議な感じがした。ソンヒさんにご飯のお礼を言い、そのまま帰宅するのかと思ったら少し前を歩く彼女が立ち止まった。
「そうだ、花子。腹ごなしに少し歩かないか?」
左に垂らした緩やかにウェーブのかかった髪が小首を傾げた事でさらりと揺れる。断る理由もなく、むしろ嬉しいお誘いに私はすぐに「行きます!お供します」と返事をした。それを受け取り彼女は頷くと優雅に歩くのを再開する。私も今度は隣に並んで夜の街を何とはなしに眺めながら歩く。夜の異人町は場所にもよるが概ね賑やかだ。既に出来上がっているサラリーマンの人達が次の店の算段をつけていたり、若い女の子のグループがきゃらきゃらと笑い合いながら身を寄せ写真を撮っている。夜はこれからだと客引きをしている店員さんに、同伴出勤するであろうキャバクラのお姉さんと肩を組む男性。あちこちからひっきりなしに人が行き交い、楽しげに多種多様の話し声と熱気がこの街を包み込んでいた。
「今日も賑やかですねぇ」
「そうだな。花子、ちゃんと前を向いて歩かないとぶつかるぞ」
ふわふわとした足取りで危なっかしく見えたのかソンヒさんが注意してくれる。それなのに、周囲を観察しながら余所見をして歩いていたのが悪かったのか、すぐ傍を千鳥足の若者がふらりと通りがかる。危うくぶつかりそうになったが、その前にソンヒさんがすばやく腕を引いてくれたので事なきを得た。
「まったく言った傍から……」
「おっと。すみませんソンヒさん、助かりました」
呆れたと顔にもありありと出ていて申し訳なく思う。今度は気をつけて歩こうと体勢を整えたところで右手がひょいと何かにさらわれた。驚いて自分の手の先を見ればソンヒさんが私の手をしっかりと握っていた。
「え、えっ?ソンヒさん?」
「ふふ、危なっかしくて見てられないからな。手を繋いでやろう」
特別だぞ。と付け加えられ、顔に熱が集まるのが分かる。彼女のような人がやると、なんと破壊力の強い事だろう。握られた手はソンヒさんの黒い手袋越しだけれど、温もりが伝わって私の心まで満たしてくれる。
手を繋いで歩いているだけなのに、先ほどまで混沌としていた街並みが一気に輝いて見える。元々楽しそうだなぁと他人事のように景色が流れていたというのに、今は自分が最高に幸せで楽しいんだぞ、と自慢したくなるような不思議と浮わついた気分になってくる。それほどお酒は飲んではいないというのに口からは勝手に笑みがこぼれていた。理由は明白だが。
「ふふ」
「何笑ってるんだ」
「すみません。嬉しくて。それに楽しいです」
「ふっ、何だそれは」
彼女が履くのは高いヒールのものばかりで私はいつもソンヒさんを見上げていた。今も少し見上げてソンヒさんの顔を見れば、彼女も楽しげに表情を緩めてこちらを見ていた。
「しかし、そうだな。私も楽しいよ」
「じゃあ同じですね」
「ああ。一緒だ」
ただ、何でもないいつも通りの日常の一幕だ。それだというのに私は今ひどく安心と幸福を感じている。「せっかくだ、浜北公園へ夜景でも見に行くか」そうソンヒさんが言って公園の方へと方向転換をする。小気味良い、かつかつとピンヒールがコンクリートを叩く音に私の背の低いパンプスのペタペタと地面を蹴る音が雑踏の中に混ざっていく。
「今夜もまたカップルがたくさんいるんでしょうねえ」
「だろうな。なに、私たちも負けてはいないさ。こっちには花子が居るのだからな」
「すごい口説き文句ですね。惚れていいですか」
「ふっ、前から私の事が好きなくせに」
「んふふ、ばれてましたか」
「ああ。知ってるよ」
今日も大変なことがいくつもあった。
けれど1日の締めくくりがこれ程すてきで楽しいことで終わるのであれば、また明日からも頑張ろうと思えるのだ。
3/3ページ