暮らすことと生きること
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それはふとした気まぐれのようなものだった。
ハン・ジュンギがソンヒに報告を終えてから、あとはもう帰宅するだけとなったところで、なんとなく足を外ではなく別のフロアへと進ませていた。ソンヒが自分に命じてスカウトしてきたプログラマー。彼女がいる部屋である。特に理由はなく、少し様子を見てこようと思っただけ。誰に向けて言い訳するでもなく、心の内でそう呟きながら部屋を覗く。しかし、彼女の姿はどこにもなく、中にはいつも花子と仕事をこなしているシンだけしかいなかった。入口から覗くハンの存在に気づいたシンがくるりとキャスター付きの椅子を回転させて向き直る。
「お疲れ様、参謀さん。花子さんなら大きなタッパー持って屋上に行ったよ」
まだ何も聞いていないのにシンは当然のように花子の行き先をハンに教えた。別に花子に用があって来たわけではない、と喉元まで言葉が出かかったが、この場に足を運んでる時点であまり意味を成さない気がして音にすることはなかった。それにシンの見透かしたような言動に僅かに決まりの悪さを覚える。
「……ありがとうございます」
「いいえー」
いろいろ言い訳したいような気持ちを抑えて礼だけ述べると、シンはにこにこと笑ってハンを見送った。そこがまた彼を落ち着かないような気持ちにさせる。
部屋を後にして屋上への階段を上る。なぜ花子を探すような真似をしているのだろうかと段を重ねて上る内に疑問がふつふつとわいてきたが、途中から考えていることも馬鹿らしくなり止めた。しばらくして一番上へとたどり着き、重く錆び付いた扉を開ける。開いた際に扉がぎいぎいと音を立てた。その音でもう気づかれているだろうと思ったが、何も隠す必要はないとそのまま屋上へと足を踏み入れる。外はすっかり夜が深くなっていた。しかし、あちこちに焚かれた電灯があるせいでそれほど暗さは感じない。さほど広くない屋上にシンが言っていた通り、彼女はいた。
「あ、ジュンギさん。お疲れさまです」
ハンの来訪に気づいた花子がゆるく笑いかける。
ご丁寧にレジャーシートが下に敷かれ、その上に花子が座っており、周りには持参したであろうタッパーが並べられていた。
「お疲れ様です。相変わらずよくここに来られるのですね」
「いやあ、普段が室内で缶詰状態なんで休憩の時くらいは外で風にあたりたいなーって」
花子は食事以外の休憩時にも屋上へと頻繁に訪れていた。仕事上ほとんどを画面と向き合い室内に閉じ籠っているので気が滅入るのだろう。かくいうハンも時々ここには足を運んでいた。花子と鉢合わせることも珍しくはない。そんな時たらたらと雑談をしたり、ただ無言でぼうっとしたり、いつしか同じ空間を共有することが自然になっていた。お互い話すことも話さないことも傍に居て苦ではなかったのだ。
花子はハンに対して自身の向かい側をぽんぽんと叩くと座るように促した。
「ご飯食べましたか?」
「……いえ、まだです」
「おにぎりたくさん作ってきたんです。よかったらどうですか?」
ハンが近づいて花子が持ち上げたタッパーを覗けば、そこにはおにぎりが大量にみっしりぎっちり詰まっていた。
「ちゃんとラップで握ったんで大丈夫ですよ!」
「私が気にしたのはそこではないのですが。また随分と沢山作ったのですね」
「はい!米3合分の力作ですよ!」
めちゃくちゃ握ってやりました。と謎の達成感に満ちた顔で花子は答えた。
花子はとても、いやかなりの大食漢である。だからと言ってふくよかであるとか逆に痩せすぎているとかそういう訳ではない。至って標準的な体型である。いくら食べても太りにくい体質らしく、本人曰く金銭的な問題がなければいくらでも食べられる、とのこと。彼女の体質を聞いたら羨む人は多い。
ハンが最初に彼女に出会った時も大量の点心を黙々と食べていた。幾度となく花子が職場やそれ以外でもよく何かを食べている姿を見かけているのでもう特につっこんだりはしない。
「作りすぎです。まあ、花子さんなら問題なく完食するんでしょうが」
「うっ……。でも昨日の夕食後からおにぎりの口になってたんですよ。明日は朝早く起きておにぎり作るぞ!って」
「夕飯直後から次のご飯の事を考えないで下さい。花子さんらしいと言えばそうですが」
これでもまだ朝ごはんに食べたので減ったほうなんですけどねぇ。首をひねって花子は言うがまだあったのかとつっこむことはせずハンは流すことにした。
「あ、おにぎりだけじゃないですよ。おかずもちゃんと作ってるんで」
もう1つのタッパーにはこれまた多めに盛られた玉子焼きにタコに飾り切りされたウインナー、きゅうりと大根に人参の糠漬けがきっちり詰め込まれていた。
「ご覧の通りたくさんありますので、嫌でなければ食べていってください」
「……それでは、お言葉に甘えて」
ハンがシートの上に腰を下ろすと、花子は嬉しそうに破顔した。それからいそいそと傍らのトートバッグから割り箸と紙コップを取り出す。
「はい。お箸どうぞ。飲み物はお茶しかないんですけど」
「ええ、かまいませんよ。ありがとうございます」
コップにお茶を注ぎ手渡されたのを受け取って、ハンは内心妙な気持ちになっていた。以前屋上で初めて花子が作ってきたお弁当を貰った時。それ以来花子とは特に約束をした訳ではないが、お弁当を持参する時は多めに作ってくるようになった。もちろん必ずしもいっしょに食べられるわけではない。その点、花子はたとえ量が多くても一人で完食できるので問題はない、が。問題はそこではない。ハンは花子が自分の為に多く作ってくれているのだと気づいていた。もしハンが来たらいっしょに食べられるようにと。それが無性にむず痒いような、嬉しいような、形容しがたい気になるのだ。
「おにぎりの具、おかかと昆布と鮭がありますけど、どれがいいですか」
「……鮭で」
「お、ジュンギさんお目が高い。鮭はちゃんと切り身買ってきてたのを焼いてほぐしたんですよ。瓶のやつじゃないんです」
ほめてください。と得意気にしてるのをはいはい。えらいですねぇ、と適当にあしらいながらハンはお手製のおにぎりにかぶりつく。ふつうのおにぎりと変わらないはずなのにやけにおいしく感じた。
「おいしいですよ」
「そうですか!たくさんありますからどんどん食べてくださいね!」
適当にあしらわれ、気持ちが込もっていないと憤慨していた花子だったが、ハンにおいしいと言ってもらえた途端嬉しそうにはにかんだ。ころころと表情の変わる人だと思いながらハンはあっという間に1つ目を完食した。
「ところでなぜソーセージをタコの形に切ってあるのですか」
「え、だってお弁当の定番じゃないですか。タコになってた方がテンション上がりません?」
「全く共感できません」
「そうですかー。ジュンギさんにはこの遊び心が分からないんですね」
「馬鹿にしてます?」
「してないです!してないですからデコピンしようとしないでください!!」
玉子焼きは甘いのもいいけどだし巻きとかしょっぱいのが好きだとか、最近糠漬けにハマっていて自分の糠床を育てているとか、他愛のない話を2人で月明かりも霞む人工的な光りの下でこぼしあう。時には会話を楽しみ、また黙って食事を続け、タッパーの中身は順調に減っていった。おにぎりをおいしそうに食べ進める花子を見て、何かいいようのないぬるい感情が内を満たすのが分かる。いったいそれがなんなのか。答えを考えるより、今はただこの心地の良い時間に身をゆだねていたかった。
「……って、ジュンギさん、私の話聞いてました?え、何か顔についてます?」
いつの間にかじっと見すぎていたのか花子がぺたぺたと自分の顔に触れながらたずねてくる。
「そうですねぇ、米粒がたくさん付いてますよ。」
「うそ!本当ですか!?どこ、どこですか!」
わたわたと焦ってあちこちに顔周りに触れる様子に思わずハンは笑ってしまった。その様子にウソだと分かった花子はひどいと怒っていたが全然こわくはない。むしろからかう度におもしろい反応が返ってくるので密かに楽しんでいるくらいだ。言ったらまたおもしろいことになるだろうかとハンは思うがそこは内密にしておく。まだ何かを言っている花子におもむろに昆布のおにぎりを口に押し付けて、強制的に口を塞いでから自身も玉子焼きに手を伸ばす。
「次は鮭にしようと思ってたのになぁ」
「どうせほとんどあなたが食べるのですからいいではないですか」
「それもそうですね」
当たり前のようにさらりと答えたので、またそれがおかしく小さく笑う。月の見えない電飾に照らされた夜の広場。そこで過ごす時間はひどくゆっくりと流れていった。
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