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私の母は強い人だ。
まだ私が小さい頃に父を亡くし、女手ひとつで私を育ててくれた。
しっかりした肝の据わった性格で反対に気づかいすぎてよく疲れていた父とは上手くバランスがとれていたようだ。
父が死んでからきっとたくさん苦労をしていたのだろうけど、私にはそんな所を一切見せず、事実生活が苦しかったという記憶がない。
まあ、厳しいところもあったので世間一般で通るであろう反抗期も一応あったりしたのだが。
そして、そんな母のモットーは「一人でもきちんと生活できること」である。
裁縫、料理、掃除洗濯などの家事全般。はたまた母の生きてきた数十年から学んだ教訓に至るまで、とにかく色々と知識と技術を教えてもらった。
何がアンタの助けになるか分かんないから覚えておいて損はないはずよ、なんて耳にタコができるくらい言われてご教授いただいたものである。
その母が熱心に施してくれていた教えが今まさに役に立っていた。
生きていくためには食事は不可欠である。
シルビアさんと旅をするということは各地を転々とする訳で、すぐに町や村なんかに辿り着けなかったりもする。
だから日が暮れる前にキャンプをするのだ。
今まで生きてきた中でキャンプをしたことなんか片手で数えるくらいしかないインドア派だったので
初めは勝手が分からずシルビアさんに色々と教えてもらったものだ。
中でも外での自炊は難しく、母の教えにもアウトドア関係はなかったのでこればっかりは手数をこなしていくことで上達していくしかなかった。
初めはたどたどしかった手つきも次第に勝手が分かっていき、今となっては慣れたもので家で作るのと変わらない料理をこしらえることができるようになった。
旅をするというのはとても体力、気力を使うことなのできちんと栄養バランスも考えて食事を作らないといけない。
次に人里へ着く距離の関係で食材が不足してしまい、どうしても偏ってしまう時もあるけれどできるだけ気をつけてはいる。
特にシルビアさんは世界を渡り歩く旅芸人ということもあって、体はよく鍛えられていたし、肌ツヤも気を配っているのかきれいだ。
良い体は良い食事から。というのは真理であり事実なので、あれこれと旅の行程とにらめっこしてメニューを毎日試行錯誤している。
もちろん自分の健康のためでもあるのだが。
ここへ来てからは運動量も格段に増えたし、もちろん体力もとてもついた。
仕事で帰りが遅くなりがちで疎かになっていた食事も自炊するのできちんと食べられているし、睡眠も日が落ちれば休むことになるので十分にとれている。
前の世界より抜群に健康的な生活になっている。望んだことではないが・・・。
*****
「花子ちゃんってお料理上手よねー」
今日の夕食が終わり片付けている最中でシルビアさんがしみじみと言う。
一通り終わったのでお茶を二人分淹れてから彼の近くへと座る。
カップを渡せば「ありがとう」とお礼が返ってきて、私も自分のカップを傾けた。
今日は少し冷えるから熱いお茶がおいしい。
「母が熱心に教えてくれましたからね。
仕事で帰りが遅くなることが多かったので自然と作れるようになったっていうのもありますけど」
「へえ、そうなの。花子ちゃんのお母様も料理上手なのね」
「自分の家だから特別そう感じるのかもしれないですけど、他のお家よりはおいしいとは思っていましたね」
「みんな家庭の味っていうのかしら、そういうのが一番良いって思うのかも。
私も花子ちゃんの作る"和食"っていうの?初めて食べる料理ばかりなのにどこか懐かしくて、すごく好きよ」
「えへへ、そうですか?ありがとうございます」
シルビアさんの素直な誉め言葉に照れながら礼を言う。
驚いたことにこの世界は元いた場所とは違っても、食材や調味料は大きく変わらない。
確かに見たことも食べたこともない物はあったけれど、それほど差異はなかった。
特に、ここにも味噌や醤油なんかが存在すると知った時は思わず五体投地をしてから天に祈りを捧げたくなった。
日本人に生まれた以上、米に味噌、醤油、それと出汁味は省きたくない。
初めてこちらで味噌汁を作り、飲めたときの感動は旧知の友と感動の再会をしたようであった。
「慣れ親しんだ料理が食べられるってこんなに安心できるものなんですね。遠く離れて初めて気づきました」
私は生まれてこのかた海外旅行にも行ったことがないので、日本から出たのが初めてだったのだ。
しかもそれがまさか異世界に行ってしまうだなんて誰が思いつくだろうか。
母から習った味は安心と共に寂しさも感じてしまう。
感傷的になってしまったと話題を変えようと俯いていた顔を上げたところだった。
いつの間にか隣に座っていたシルビアさんが私の左肩に手をまわし、そっと引き寄せられた。
突然のことに目を白黒させていると頭の上から穏やかに名前を呼ばれる声が聞こえる。
「大丈夫よ花子ちゃん」
肩を抱いていた手は頭へと移動して、あやすようにぽんぽんとゆっくり撫でられる。
「こっちに来られたんだもの。きっとまた帰ることができるわ。旅をしていたら何かそういう情報も掴めるかもしれないし……。そう、何にも心配いらないわ」
その暖かな温もりに、声に、喉がぐうっと熱くなって胸の奥底が苦しくなった。
シルビアさんとの旅は楽しい。
いろんな町を見たり、壮大な風景に酔いしれたり、不思議な出来事に触れたり、毎日新鮮でとても楽しいことは間違いない。
それでもふとした瞬間にどうしようもない不安に苛まれることがあるのだ。
私はいつになったら帰ることができるのだろうかと。
向こうではもう私は死んだことになっているもしれないだとか、母もきっと心配しているのではないか
私はとんでもない親不孝ものだとかいつも同じようなことをぐるぐると考えてしまう。
誰も私の事を知らない世界で一人きり。
そんな真っ暗な気持ちに襲われて、頭も心も動かなくなる。
でも、シルビアさんはそんな私の胸の内を見透かしたように優しく包んでくれている。
何故だか分からないけれど確証もないことなのにシルビアさんが言葉にしてくれると不思議と大丈夫だという気になるのだ。
今も寂しさや不安なんかがほろりと崩れてどこかへ消えてしまった。
ただ、その手のひらのあたたかさに安心している。
「……そう、ですね。ありがとうございます。
私、シルビアさんの隣なら寂しい気持ちなんてなくなっちゃうと思います」
「ふふ、そうね。だって私はみんなを笑顔にする旅芸人だもの。
傍にいる女の子を笑わせることもできないなら芸人として失格だわ!」
シルビアさんがおどけたように言って、私も普通に笑うことができた。
しばらく焚き火のパチパチと火の粉がはぜる音を聞いて、静かな夜を過ごしていた。
夜も更けてきて、シルビアさんが「そろそろ寝ましょうか」と言った所でお開きになった。
テントに入って寝る準備をする。
少し広めのテントは二人で並んで眠っても全然問題ない。
最初は同じテントで寝ることにどぎまぎしたのだが、シルビアさんの中性的かつ紳士的な態度ですぐに慣れてしまった。
さあ、寝転ぼうといったところで横から手が延びてきたと思うとするりと髪を一房取られた。
「でも、花子ちゃんがいなくなっちゃったらすごく寂しくなっちゃうわね」
長い睫毛が頬に影を落として、少し憂いを帯びた表情で私の事を見ていた。
呆気に取られて「えっ」と言葉が詰まってわたわたとしている内にぱっと手が離れて、いつものにこりと笑みをたたえたシルビアさんに戻る。
「―なんてね、おやすみ花子ちゃん」
「お、おやすみなさい……」
ランプの明かりが落とされて、たちまちテント内は暗くなる。
ゆったりとした眠気が訪れていたのに、先程の出来事ですっかりどこかへ行ってしまった。
何故だかは分からないが何か引っ掛かるような気がしてモヤモヤしていたのだが
これだけ長い間共に旅をしてきたのだから寂しくなるのも当然だろうと気づき、すっきりした所ですとんと眠ることができた。
いつ帰ることになるかは分からないが、きっと私もシルビアさんと離れるのは悲しくなる。
だから今はこの旅を目一杯楽しもうと改めて決意したのだった。
18.12.01
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