しろいのろい


「いッ……!」
 左肩に鈍い痛みが走る。噛まれた、と気づいたときには、反射的に土方を押し退けるように腕を伸ばしていた。けれどその身体はびくともせず、覆い被さる体勢でさらに深く歯が食い込んだ。
「ッじかた、おい、どうしたんだよ!」
 苦痛に顔を歪めながら、土方の名前を呼んだ。弱々しく身体を揺さぶると、ゆっくりと口元が離れてゆく。解放に安堵したのも束の間、傷口を舌先で舐られる感触に、小さく肩が跳ねる。外気に触れて、ぴりぴりと痺れるように痛んだ。
「悪ィ」
 はぁ、と土方の吐息が首元にかかる。そのまま頭を凭れさせて、背中を抱きとめられる。縋るようなその感覚に、俺は土方を緩く抱きしめ返していた。
「どうしたよ。なんかあったか。今日はいつにも増してワイルドじゃねーの」
「血、出てるな」
 沈んだ声で呟いて、再び傷口に触れる。無意識に強ばった身体をなだめるように、土方はゆっくりと舌を這わせた。それはまるで、野生の動物が毛繕いをする様と似ていて、思わず「猫みてぇ」と笑みを零した。
「血が出るまで噛みついたのはお前だろうが。どうしてくれんのこれ。急につけてくれちゃって、こんなん丸見えじゃねーか」
 何かがあったのだろう。今日の土方はやけに沈んでいる。仕事を根詰めて疲れが溜まっているのかと思ったが、おそらくそうではないのだろうなと、様子を窺ってなんとなく思った。
「万事屋」
「はいはい、万事屋ですよーっと」
 軽くおちゃらけてみても、今日の土方には通用しないようだ。左肩に顔をうずめたままゆったりと息をする様子は、ひどく安心しきっているように見えた。はぁ、とまた息を吐く。
「わざとだよ。てめェがどこほっつき歩いても、それさえありゃあ簡単に見つけられんだろ。だから、わざとだよ」
「何だそれ。お前、銀さんが通行人からおちょくられるの見たいわけ? 旦那またお熱ですねーって、からかわれるの見て楽しむわけ? 趣味わりーよばーか」
「それくらいがてめェにはお似合いだろ。道標でも撒いとかねェと、お前の居場所はあてが多すぎて困る」
「俺が行方不明にでもなっちゃうって? ペットじゃねーんだから、たとえ道に迷ったとしても俺はちゃんと戻ってきますよ。心配性だなー、土方は」
 けらけらと笑うと、よりいっそう強く抱きしめられた。着流しが皺になるくらい、いっそう強く。普段はあまり甘えることのない土方の珍しい姿に、あれ、これは本当に何かあったかな、と察する。それでも聞こえる声音は落ち着いていた。プライベートのときも仕事のときも変わらぬ耳にする、心地の良い土方の声だった。
「お前が、目を離せばどっか行っちまうんじゃないかって、時々不安になる。てめェが万事屋のガキ共を置いてどこか行っちまうなんざ、そんなことはありえねェ、わかってる。たとえ俺に、俺たちに何も言わなくたって、お前がガキ共を第一に思ってる限り、突然姿を消すなんて真似しねェのもわかってる。わかってんだよ。けど、てめェのことを知れば知るほど、てめェのバカみてーな笑顔に惹かれるほど、不安になんだよ。町中をふらっふら一人で出歩いて、そこら中をツケで払って回って、そんなてめェを知れば知るほど。……お前が、俺たちを置いて、一人で行っちまいそうで」
 嫌なんだよ。お前も、そんなこと考えちまう俺自身も。
 震えていた。先程まで落ち着いていた声色には、今は悲痛の色が滲んでいた。土方の額が強く押しつけられる。何かを堪えるような土方の息遣いが、着物越しに感じられた。
 俺の心臓が、小さく、どくんと跳ねた。
 そんな素振りは見せなかった。土方は今まで、そんなことは一切考えてないとでもいうような態度で俺と接してきた。
 勤務中に、甘味処で団子を頬張る俺とばったり出くわしたとき。非番の日に、馴染みの店で二人、酒を酌み交わし談笑したとき。もう何度目かわからない逢瀬、涙かなんだかわからない体液でぐしゃぐしゃになって、それでも互いを求めて愛し合い、一夜を共にしたとき。
 ──お前はいつも、そんなことを考えていたのか。
 いい歳したおっさんが恥ずかしさに頬を赤らめて、それでも土方だからと、愛しているからと、浮かべた俺の微笑みを見てお前は、いつか来る別れに怯えていたのか。
 そしてそれはきっと、土方だけじゃないのだろうということも、俺は知っていた。わかっていた。怯えていたのはお前だけじゃないんだ。本当は、俺は知ってたんだよ、土方。お前だって、新八だって、神楽だって──俺だって。いつか来る別れを察知して、いつか来る悲しみに怯えていた。
 震える背中を強く抱きしめた。離れないように。離れてしまっても、決して忘れないように。
 土方。ひじかた。
 お前にはお見通しなんだな。
 いつか来る別れも。俺が大切に抱えているものも。すべて。
「ごめんな」
 土方の背中に伸ばした左腕の、普段なら着流しで隠れる部分が、今は包み隠さず晒されている。震える土方からは決して見えない。数日前に怪我をしたと巻いた包帯の、それでも覆いきれないほど数を増やした痣──それが単なる痣なんかではないことも、俺は十二分に気づいていた。
 いつか来る別れは、もう、すぐそこまで迫っていた。
 土方に噛まれた傷口が、ひどく痛む。
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