朝露の頬
信号待ち、エンジンの音がうるさい車内で、土方はせり上がってくる欠伸を噛み殺した。目の下にまるで殴られたかのようなクマを携えて、その眼球はおもむろに窓ガラスの向こう側を見た。薄く霧が立ち込めている。隊服の内ポケットから煙草を取り出す。手にした重さから空箱だと気づいたとき、土方は無意識に舌打ちをしていた。ぐしゃりと箱を握り潰す。そんな様子を横目に見た山崎が、自販機寄ってきますか、と土方に言葉をかけた。労りの色があったような気がしたのは、錯覚か。
「ああ」
山崎がエアコンのつまみを赤寄りに回した。ごおお、と吹き出し口から生温かい風が流れ出す。信号機が青になったのを目視したあと、土方は足りない睡眠時間を補うようにまぶたを閉じた。
上から二段目、左から四番目のボタンを押して、若干の間のあと常喫の煙草が落ちてくる。マヨボロと印刷された箱から透明なフィルムを剥がし取って、自販機の横のゴミ箱に押し入れた。はァ、とこぼれた吐息は白く湿る。早朝の巡回はキツい、寝起きの体にあの寒さは鞭を打たれるようだ、そんな隊士たちのぼやきが脳裏をよぎった。体の芯が勝手に震えてくる。むき出しの素手はすでに感覚が麻痺し始めている。そそくさと山崎の待機している車へ戻ろうとしたときだった。自販機の隣にある、奥まったゴミ捨て場に人影があるのを土方はたしかに見た。足を踏み入れる。散乱したゴミの真ん中、重なったゴミ袋に深く沈む男の姿。ぴくりともしない。死んだような状態でうつむく白い頭を目にしたとき、土方は、あ、コイツ死んでる、と本気で思った。トレードマークの片肌脱ぎは崩れてもはや両肌脱ぎ。両手両足が四方八方に投げ出された様子は、まさに酔っ払いのそれだった。半袖のジャージから覗いた腕の色が白く抜けている。脱力した下半身を軽く蹴っ飛ばす。反応がない。反動でぐらついた体がゴミ袋からずり落ちた。かくん、と上に向いた顔は赤く腫れている。耳、鼻、そして頬。開けっぱなしの口からは涎の垂れたあとが伸びている。
「万事屋」
肩を掴んで大きく揺さぶった。ガサガサと背後から音が鳴るだけで、目を覚ます気配がない。チ、と思わず舌打ちをする。あきらかに凍傷を起こしている。コイツは何時間ここに放置されていたのか、土方には知る由もないが、もし昨晩コイツが飲み歩いていたとして、それからずっと──。
ずり落ちた袖を腕に通し直す。開いたままの口から白く湿った息がこぼれる。生きている。頬を手の甲で数回叩いたが、やはり反応がない。冷えきった肌の感触に身震いがした。土方はゴミ捨て場から一旦出て、路駐しているパトカーへと目を向けた。運転席でうつらうつらしている山崎と目が合う。山崎はこちらに気づいて微かに目を瞬かせたあと、何かを察したような挙動で土方を見つめた。めんどうごとですか、と山崎の眠たげな幻聴が聞こえた。ちがいねェ。その場で待機しろと目配せして、土方はゴミ捨て場へと踵を返した。
冷えて硬直した腕を肩に回そうとしたときだった。外気に晒されて乾いた唇が静かに震えた。薄らと開いた目には水の膜が張っている。ア、と低く喉で鳴った音は、ひどくかじかんでいた。
「さ、み」
土方はかまわず銀時の腕を引っぱった。自分の肩に乗せて、片腕を腰に回して支える。引きずるような体勢になって、全身にのしかかる重さに土方は呻いた。テメェの足で立て、とまるで死体のように動かない男を叱咤する。ぐったりとした様子の銀時は土方の声が聞こえたのかどうなのか、少ししたあと「たたねェ」と声をもらした。
土方は訝しげに銀時を見た。ぐらぐらと揺れる白い頭。たてない、ではなく、たたない。何を言ってるんだコイツは、そう思っていると、うつむいた銀時から掠れた声がもれ始めた。
酒を飲んだ。長谷川とかいうオッサンと。わかれて、女をひっかけてラブホに行ったが、うまくいかなかった。たたなかった。だから今度は一人で飲んで、それで。
途切れ途切れに、喉を詰まらせながら銀時は言う。ずず、と鼻水をすする音はすっかり乾いている。しょうもないと土方は思った。死因が酔っ払ってゴミ捨て場で寝て凍死、など、バカすぎて笑う気も起きない。
土方の首筋に冷えた吐息がかかる。首をそちらに向けると、鼻先が掠めるほど近くに銀時の顔があった。まつげに目やにがこびりついている。水気を含んだまぶたが小刻みに震える。そこから覗く銀時の赤く濁った瞳が、誰かを探すような、何かにすがりつく色を持って、ふいに眼前にいる土方を捉えた。
「なんで、おまえ、が、いんの」
それはこっちのセリフだ。言いかけて、実際に土方の口から出たのは、立てっつってんだろうが、だった。踏み出した足がもつれそうになる。ぐらりと重心が傾いて、土方はとっさに銀時の体を引き寄せた。寒さで弱々しく震えている。
「だから、たたねぇんだって……」
うう、とうめき声をあげつつ、銀時は引きずられたままの両足に力を込めた。ガクガクと震えが止まらない。膝がどうしようもなく笑って、踏ん張りがきかない。
「おまえ、じゃ、ない、と」
鼻にかかった声が耳の奥に届く。土方はぎょっとして銀時を見た。銀時の頭はうつむいている。生まれたての子鹿のように、どうにか自力で立とうと健闘している。その震えは土方にも伝わって、前に踏み出そうとする足を持っていかれてひどくもどかしい。生まれたての成人男性ふたりが凍えそうになりながらゴミ捨て場で震えている。しかもこんな朝っぱらに。何してんだ、俺は。ひとりごちる土方の頬は冷たくこわばっている。やっぱりコイツをこのままここに置き去りにして、ヒーターの効いた車内に戻りたい、と土方は心の底から思った。視界の端で白い頭がゆらゆらと揺れる。ん、ふふ、と銀時は甘く鼻を鳴らした。
「何笑ってんだテメェ」
「だって、おまえ、のツラみてると、なんか」
銀時の不安定に揺らめく瞳にじっと射抜かれる。ふつふつと得体の知れない感情が煮えたぎって、土方は動かせない手足に代わって白髪頭に頭突きをかました。その衝撃でふたりの体幹がブレる。濁ったうめきをあげて、それでも銀時は鼻声で笑う。やべ、たった、かも。その声を耳にして、土方のなかで何かが切れる音がした。土方は今度こそ支えていた両腕を離した。絡まった体が解けて、銀時は受け身も取れず地面に叩きつけられる。ガサリ、と下敷きになったゴミ袋が音を立てた。土方はそのまま振り返りもせずゴミ捨て場を後にしようとする。背中に銀時の嗄れた声を浴びながら。
「お、まっ、おれ、たてねぇって……!」
「勃ってんだろうが」
土方は目を細めた。立ち込めていた霧はほとんど晴れて、隙間から朝日の光がまぶたを覆ってくる。懐から煙草を取り出して口に咥えた。土方にとって、今日一本目の煙草だった。ライターで火をつける。そうして吐き出した白は土方の息なのか紫煙なのかわからない。何やってんだ、俺は。土方は再度思う。けれど本気で死んでいると思った男が白い息をこぼしたとき、ほんの、ほんの少しばかり安堵したのだ。凍死寸前の冷えきった肌の、頬の感触。土方はかじかんだ両手を擦り合わせて自らの頬にあてた。生きている実感がした。
おいてくなって。背後で声を震わせる銀時は寒さでもはや咳き込み始めている。その乾いた音を聞きながら、朝空に小さく白を吐き出していく。煙草一本吸い終わるまで焦らしたあと、土方はようやくゴミ捨て場を振り返った。
お題は『ふたりへのお題ったー』さまから。
https://shindanmaker.com/122300
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