夢路の果てで


 遠いところにいる。
 もうずっと、届かない夢をみている。

 懐かしい心地がして銀時は目を開けた。少年と少女がソファに座っていた。何かがよそられた茶碗を手に持って、おいしそうにそれを頬張っている。向かい側には自分が座っていて、同じように茶碗を手にしている。二人につられて銀時も同じようにそれを頬張ってみた。味がしない、匂いもしない。器の中身を見ても、もやがかかっていてよくわからない。それでも、目の前の二人は楽しそうに食卓を囲んでいる。少年と少女の表情はぼやけていて見えない。何かを言おうとして銀時の口元が形作った。それは音を成さないけれど、不思議と二人の耳には届いたのか会話が進んでいく。二人の笑う気配がして、自然と頬が緩んだ。朝が来た。唐突にそう思った。掛け軸の文字が読めない。テレビの内容が理解できない。何もわからない、思い出せない。その中で、ただ、二人の声だけが銀時の鼓膜を震わせた。耳奥へと流れ込んできて、銀時の身体を優しく掻き回す。それがどうして、銀時にはとてつもなく懐かしく感じられた。


 微睡みから薄く目を開けて、いっしゅん、自分が何者でどこにいるのかわからなくなる。崩れた瓦礫に凭れているのだと気付いて、ゆっくりと周囲を見渡した。土埃が舞っている。夕焼けの陽を反射していて、銀時にはそれがひどく眩しく思えた。世界の終わりとは、終末とはきっとこんなもんなんだろう。両目はほとんど使い物にならないが、ぼやけた視界でも地球の成れの果てを察することはできた。どこだ、ここ。建物の廃材だろう物を支えにして立ち上がろうと力を込める。けれど足元がふらついてそのまましゃがみ込んだ。まるで首が座っていないかのように銀時の頭がかくんとかくんと揺れる。まったくと言っていいほど身体に力が入らない。銀時はゆるりとまぶたを落とした。この身体の主導権はもはや銀時にはなかった。朦朧とした意識の中でひたすら過去の記憶を辿ることだけが、銀時に許された最後の自由だった。意識が途切れ、身体を乗っ取られながらウィルスを撒き散らし、気付くと見知らぬ場所で目が覚める。それがもう何年と、続いている。

 
 終わらせる。何もかも、終わらせなければ。それだけをずっと、ずっと考えていた。ナノマシンウィルス、白詛、魘魅、それらが頭の中で反芻する。十五年前のあのとき自身に寄生したウィルスは、銀時の身体を我が物のように操り、世界の行く末をただただ見つめ続けた。それが鬼の背負いし業だと嘲笑うかのごとく、宿主に絶望を与えることこそが自らの本懐だと言わんばかりに。
 あるとき、目を開けると、どこかのビルの屋上に銀時は佇んでいた。向かいにある建物の、病室の窓から女の姿が見える。ベッドに横たわる女からは色素が抜け落ちていた。ぼうっとした視界がその真っ白な毛髪を認識したとき、胸のあたりがひどくざわついた。心臓を鷲掴みにされたような圧迫感に銀時の意識は満たされる。伏せられた女の睫毛が小さく震え、おもむろにこちらを向いた。は、と漏れた息は女のものか、はたまた自分のものか。焦点の合わない両目を数回瞬かせて、そうして女は再び眠りに落ちた。それを見届けたあと、銀時の意識は途切れた。
 またあるとき、目を開けると、そこには墓石があった。目の前に墓が建っていた。竿石の部分に彫られた名前はもやがかかって見えなかったが、それが自分の墓なのだろうと銀時には察せられた。坂田銀時は死んだ、それは当たらずといえども遠からずな答えだった。まるで生きる屍のようだと銀時は思う。もはや、この世界に坂田銀時は存在しない。終わりたい、もう、終わりにしたい。
 ナノマシンが銀時の身体で各地をさ迷い歩いていたのは、なにもウィルスを撒き散らすだけのためではなかった。見せたかったのだ。己が手で滅んでいく世界を、大切なものが壊れゆく様を、それを見つめ続けることしかできない自身の無力さを、宿主である白夜叉に。白詛を患い死を待つだけの女を目にしたときも、自分の墓を前にしたときも、身体の中に形成されたコアからナノマシンの声が響き続けていた。──これが鬼の背負うべき業だ、と。愛する者も憎む者も全て喰らい尽くし、この星でただ一人哭き続けるがいい、と。銀時の身体はナノマシンの支配下にあり、五感はすでに麻痺しかかっていた。銀時の身体は、すでに限界を迎えつつあった。視覚が上手く機能しない。愛する者、憎む者、かつての自分にはそんなものがいたのだろうか。友人が、仲間が、家族とも呼べるような存在が。わからない。いたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。いたとしても、何も、思い出せないのだ。機能を失った両目では、何も見えやしない。どうだっていいと思った。世界を救えれば、呪われた因果からこの世界を解放できれば。銀時はひたすらに願う。終わりたい、終わりにしたい、いやだ、もう、いやだ。
 そう蹲って乞うと、目の前の二人は大袈裟なほど身を竦めた。両手で握り締めた短刀は自らの腹部に突き刺さることなく、畳の上に転がり落ちた。身体の中心から両腕に向かって梵字が迫り上がってくるのを目にして、背筋がぞわりとする。気色悪い。強張る身体を押さえつけて、銀時は助けを求めるかのように二人を仰ぎ見た。やはり、二人の表情はわからなかった。自分にとってどのような存在だったのかはわからないが、きっと大切なものだったのだと思う。どうせならば二人に終わらせてほしかった。身体もろくに動かせない、もう何も思い出せない自分が最期を看取ってもらうなら。もしそれが叶うのならば、自分はこの二人に終わらせてほしい。不思議とそんな途方もないことを思った。銀時の口元が弧を描く。──ありがとう。ふいに感謝の言葉が溢れた。何に対してか、今までありがとうなのか、終わらせてくれてありがとうなのか。それは銀時自身にもわからなかった。少年の右手に握られた真剣が小刻みに震えている。隣に立つ少女が拳を強く握り締める。少年の刀を振りかぶる気配がした。銀時は静かにまぶたを閉じて、二人の居るほうへと自らの首を差し出した。そうしてじっと終わりを待った。けれど、どれほど待っても、自分はまだ息をしていた。そのうち噛み殺したような嗚咽が聞こえて、その音が湿った熱を孕んでいるとわかったとき、銀時は胸の内から溢れてくる行き場のない感情に咽びそうになった。顔を上げると、少年と少女が泣き崩れている。泣き声の合間に自分の名前を呼んで、全身を震わせて縮こまりながら。できない、できない。そうやって泣いている。そして二人を泣かせたのは、間違いなく自分だった。何を、しようとしていた。自分はいったいこいつらに、何を、させようとしていた? 鼓膜を突き刺す泣き声が、ナノマシンに支配された銀時の身体を揺さぶり続ける。違う。こんな声を、聞きたいんじゃない。俺は、ただ。
 視線を下に落とすと、自身の両腕は真っ赤に染まっていた。爪の隙間にどす黒い汚れが詰まっている。ぼうっと前を見るとそこに二人はおらず、代わりに髪の毛が束になった塊のようなものが落ちていた。引き寄せられるように手を伸ばす。銀時は亜麻色をしたその物体を柔く抱きとめた。それが誰の頭部なのか銀時には思い出せない。思い出せないけれど、それでも、何物にも代え難い思いがそこにはあった。自分の背負った咎を二人にも負ってほしくない。あんな泣き声、もう二度と聞きたくない。泣かせたくない。笑ってほしい。自分のいない世界で、幸せに生きていってほしい。銀時はゆっくりと瞬きを繰り返した。二人の泣く声がいつまでも耳元で揺れ続けている。
 そんな、救いようのない夢をみた。


 視界は真っ赤に染まっていた。それがひどく眩しく思えて、銀時は薄く目を開けた。瓦礫の隙間から夕焼けの陽が射し込んでいる。どこかで見た光景のような気がしたけれど、銀時にとってはどうでもいいことだった。終焉の時が近づいている。世界の、ではない。長い間終わりを渇望していたこの身体も、ようやく終わることができる。
 五年前の自分に全てを託した。タイムマシンに事の全容を伝え、五年前の自分に過去への道案内をするようにと頼んだ。銀時が主人だと理解したのか、タイムマシンは何も言わずただ静かに頷いた。あれだけ言うことを聞かなかった身体もそのときだけは主導権を取り戻し、それが銀時には滑稽に思えて仕方なかった。もう何もかも遅いのに。十五年前のあのときから、自分の帰る場所など、もうどこにもないのに。
 少年と少女が自分の名前を呼んでいる。それはひどく優しい声色だった。夢をみている、と銀時は思う。気がつけば遠いところまで来てしまっていた。世界を救う、そればかりを考えていた。終わることを渇望していた。護ろうとしていた。けれど何を護ろうとしていたのか銀時には思い出せない。それでも、もう充分だと思った。少年と少女の声がする。銀時の鼓膜を震わせる。そうやって二人が自分の名前を呼んでくれるから、たとえ自分の存在が消えて失くなってもよかった。たとえ、坂田銀時がこの世界から消えてしまったとしても。

 ──どこに行く気アルか。
 声が聞こえる。とても、懐かしい心地がする。
 ──なんでまた行っちゃうんだよ! ようやく……また会えたのに!
 耳に馴染む声。それは銀時にとってひどく聞き慣れた声だった。そして、何度も、何度も何度も、夢の中で自分の名前を呼んでくれた声だった。声のするほうへ頭を向けようとして、力が入らず前のめりに頽れる。視界が暗くぼやける。

 ──銀ちゃん!
 ──銀さん!

 ああ、どうして忘れていたんだろう。
 あんなに、大切だったのに。

 銀時はたまらず二人の名前を呼ぼうとした。けれど口から漏れるのは嗄声ばかりだった。とめどなく血が溢れる。ごぼ、と微かな音を立てて、銀時のかさついた唇が濡れた。身体中の血が流れ出ていく感覚。息が詰まる。
 遠くのほうで二人の泣き声がする。少し大人びたようで、昔と何も変わらない懐かしい声。過去の記憶がまるで走馬灯のように頭をよぎった。けれど、かつてのように頭を撫でてやりたくとも、銀時の身体はもう微動だにしない。ふいに時空を切るような爆発の音が聞こえた。縋るような二人の泣きわめく声が後を追う。それが自分を呼ぶ声でないとわかっていても、頭を撫でて抱きしめて、二人の名前を呼びたいと銀時は心の底から願った。
 お願いだから、泣かないでくれよ。





 午前七時、目覚ましが鳴ったのを条件反射で引っぱたく。静かになったジャスタウェイを枕元に、布団にくるまり芋虫のように丸くなる。うとうと。おはようございまーす、と玄関から投げられた声に、閉じかけのまぶたが震えた。足音が近づいてきて、小気味よい音を立てて襖が開け放たれる。
「銀さん、起きてください」
 もうちょい、と声を漏らす。それきり返事をしないでいると、銀時の起きる気配がないのを察して、まるで悪代官の帯回しのごとく布団がひっぺがされた。朝ご飯、準備しますから。早く起きてくださいよ。足音が遠ざかっていく。観念したように銀時はのそりと起き上がった。どうにか居間まで歩いたところで力尽きて、そのままソファに寝そべってすうすうと寝息を立てた。洗面所で水の跳ねる音、ばたんと冷蔵庫を閉める音。その生活音は耳に入り込んできて、当たり前のように平和が通りすぎていく。ぬうと頭上に影が落ちる。
「あの、さすがにいぎたないんですけど」
 手にしたお盆を置いて、呆れ顔でこちらを覗き込む。だから言ったんですよ飲みすぎだって、のぼやきを聞き流しながら、あーいいなァこういうの、となんとなく思った。
「何がですか」
 なにがって、なにが。掠れた声で問うと「いやだから。いいなーって、言ったじゃないですか今」そんなこと言ったっけ。うう、と唸りつつ銀時は寝惚け眼を擦った。ふと掛け軸の糖分の文字が目に入る。
「……なんか、こう、名前よばれて。はやく起きなさい、とか言われると、アレ、かぞくみたいな……」
 下から逆光になった顔を覗き返すと、メガネの奥にある瞳と目が合った。無言でじっと凝視されて危うく吸い込まれそうになる。なんつー顔してんだ。
「はいはい銀ちゃぁん、早く起きなさいヨー!」
 ふいに洗面所からすっ飛んできたパジャマ姿が、寝そべる銀時ごとソファの角を思いっきり蹴り飛ばした。
「いでっ」

 生卵をアツアツの白米に乗せて醤油をかける。箸で掻き混ぜて口いっぱいに頬張った。味も匂いも、慣れ親しんだものだった。茶碗を手に持ちながら、食卓の向かい側に目を向ける。テレビのブラック星占いを観ながら「銀ちゃん今日の占い一位アルよ」とか「結野アナ髪伸びましたね〜」とか雑談する二人を、ぼんやりと瞬きをしながら眺めていた。あのさァ、と声を漏らすと、食べかけの茶碗ごと銀時を振り返る少年少女。
「こっぱずかしいこと、言っていい?」
 二人は微かに首を傾げる。それぞれ箸を動かしながら、続きを促すように銀時を見つめる。澄んだ眼。穢れも知らないような瞳が、射し込む太陽の光できらめいている。今、言わなければいけない気がした。
「お前らと万事屋やってんの、すんげー楽しい」
 それはするりと口をついて出た。何の気なしの言葉だった。二人はじわじわと目を見開いたあと「そうですね、僕もです」「当たり前ヨ」そう笑って、銀時の鼓膜を震わせた。二人のぬるい温度がひどく心地よくて、ゆるくまぶたを閉じる。どこまでも行けるような気がして、銀時は笑った。
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