オレンジジュース
喉奥が乾燥してしょうがなくて、水、水とあたりを見回したけれど都合の悪いことに自販機のひとつもない。それじゃあと、視界の端に映った茶屋に足を踏み入れた。レジのほうからひゃあ、と小さく悲鳴があがる。空いた席を探していると見慣れた姿が見えて、ノークッションで向かい合わせになっているもうひとつの椅子に腰かけた。あ、すいません。オレンジジュースお願いします。手を振って店員に知らせる。
正面に向き直って旦那の表情を窺うと、軽く眉を顰めてスプーンを咥えていた。かちかち、と鉄製の音がする。
「なにやってんの」
「喉渇いたんで寄りました。近くに自販機もなかったんで」
「それ」
旦那が顎で指し示す。隊服に残った返り血だった。スカーフは白いから拭っても目立つ。ごしごしと擦ってみると、水分の少ない赤色の絵の具みたいに手のひらにへばりついた。あーあ、ばっちい。ズボンになすりつける。
「俺のじゃないんで大丈夫ですよ」
「何が大丈夫なんだよ」
「心配しなくても」
「するわけねーだろ。TPOをわきまえろっつってんの」
グラスの底に落ちた生クリームをこそぐ。迷惑そうな表情を浮かべて、掬ったそれを丁寧に舐めとる。旦那は慣れてるでしょう。それにしても喉渇いたなあ、飲み物はまだかと待っているとちょうどよく運ばれてきた。
オレンジジュースです。テーブルに置かれる。さっき悲鳴をあげた女の店員だった。真っ白な前掛けをしていて、俺のとは全然違うなと思った。支給されたては同じ真っ白だったのに、血に塗れまくって洗って使い回すうちに少し黄ばんだ色になったスカーフ。血の色は上手く抜けないとオレンジのような、赤みの入った黄色になる。そうでなくとも俺のスカーフは、赤い飛沫で汚れていることのほうが多いのに。
ずずずー、とストローを一気に吸い上げる。オレンジジュースはやっぱりおいしい。少し生き返った気がする。
「屯所まで距離あるんで着替えられねェんですよ。いいじゃないですか、仕事帰りのサラリーマンみたいなモンだ」
「どこに血塗れのリーマンがいるよ。せっかくパフェ食ってたのに血なまぐさくて気分悪くなってきたわ」
旦那に言われるなら相当なのか。自分じゃあ血なまぐさいのかどうなのかわからない。自分の体臭はわかりにくいと言うし、けれどこれは俺のじゃないのにと思考が揺れる。
「こういう仕事はブラックなんですよ。高給取りはたいていそうだ。風呂に入ったってこの時間じゃあ、またどっかの気の利かねェ攘夷浪士の返り血浴びることになるでしょうよ」
路地裏に捨て置いた、気の利かない攘夷浪士の死体はもう回収されただろうか。電話越しに報告して、現場で待機していろと言われたけれど、どう言い訳したら持ち場を離れたことに納得してもらえるだろうか。オレンジジュースがおいしいから後回しにしよう。
かちゃかちゃ、と呆れ顔で残った生クリームをかき集める。いちごソースと撹乱されて赤みがかっている。隊士が増えたら俺の仕事も減るのになあ、とくぼみのある溶け始めた氷をストローで弄ぶ。汗をかいたコップの側面に手のひらをなびって、乾いた赤が少しだけ滲んだ。
「真選組に入隊する気ありませんか、旦那」
「嫌だね」
ぴしゃり。俺の話を聞いているのかいないのか曖昧だった旦那が言い放った。
「俺が言うのもなんですが、アンタ向いてますよ、こういうの」
「さっきブラックだとか言ってなかった」
なんだ、ちゃんと聞いてるじゃねェですかィ。旦那は食べ終わったのか、スプーンをグラスの中に放り投げて頬杖をつき始めた。むすりと頬が膨らんでいるように見えた。
「じゃあ料理人とかはどうですか。旦那の料理、一度食ってみてーなァ」
「いや順序おかしくね。それアレだろ、無理難題のあとにレベル下げた要求すると受け入れてもらいやすいっていう」
しかもまったく関係ねーし、と旦那はすぐにでも席を立ちそうな雰囲気でいる。
「似てますよ、刀で斬るのと包丁で切るのは。人間の肉かそれ以外の肉かの違いってだけで」
「そもそもベクトルがちげーんだよ。お前はどうだか知らねーけど、こっちは料理なんて毎日すんの。それにお前は攘夷浪士斬ったあとに食うのかよ」
そう言われて、さすがの俺でも食人はしたことがないと半笑いした。でも、そうだ。まるで自分の血肉みたいに、つい今しがた他人の身体を流れていた血の赤を身にまとっても、俺は違和感すら覚えない。通常の人間なら、ひゃあと声を震わせるだろう。魚屋が魚を捌いて別のものにする流れ作業みたいに、俺たちは人間を斬ってただの肉塊にしている。
「それでおまんま食ってるんで間接的には、まあ、そういうことになりますかね」
旦那はわかりやすく眉間に皺を寄せて、備え付けの紙ナプキンで口元を拭いた。くしゃくしゃと握って、パフェのグラスに詰める。あ、賛否両論あるやつ。ずずずー、とオレンジジュースを喉に流し込む。水増しされて薄まっていた。
「それ、ゴリラに言うんじゃねェぞ」
懐から薄っぺらい二つ折りの財布を取り出す。旦那はひい、ふう、みいと口の中で呟きながら、小銭をテーブルに叩きつけるように置いた。ご馳走さん。店員のほうへ手をあげる。後ろ姿を見つめる。旦那は終始むすくれた顔つきをしていた。
テーブルの端にある伝票を確認して、その値段に呆然とする。旦那の差し出した小銭に視線をやる。ひい、ふう、みいと数えて。
あれ、代金足りねーや。
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