春に君を待つ

 日差しが暖かい。いよいよ、春だ。
 降谷は、久々に町を歩いて、季節が変わったことに気が付いた。
 用事が終わった休日の事だった。少し、散歩でもしながら帰ろうと、降谷は、駅への道を逸れた。
 先程までは、親しくしている部下の自宅にいた。生まれたばかりの赤ちゃんに会わせてもらって、それが素晴らしい出来事で、降谷は実にいい気分だったのだ。
 小さな命は、ほの暖かく、柔らかだった。こんなに可愛い存在がこの世にいるのかと、降谷はまるで初孫を喜ぶ爺さんの気持ちになった。
「降谷さん、ご結婚は?」
 長い付き合いの部下は、降谷が子ども好きだと知って、意外そうだった。
「いや、本当に縁がない」
 隠しても仕方ない。降谷は正直に答えた。
 可愛い赤ちゃんを見ると、羨ましいとは思う。だが、自分に家庭は荷が重いとも思う。
「昔は、上の人からの見合い話もあったがな」
 最近は、まるで降谷は戦力外扱いだ。
「降谷さん、忘れたんですか?」
「ん?」
「見合い話を『同性愛者なので』って断ったでしょう?」
「へ?いつ?」
「五年くらい前ですよ」
「覚えてないが、流石にそれは口から出まかせだって分かるだろ」
「その頃、多様性とかハラスメントとか、急に取り立たされてきた頃でしたから、上もビクビクしてて、降谷さんはすっかり腫れ物扱い認定されてます」
「じゃあ、僕は、上の連中からゲイだと認識されてるのか」
 そう思うと、上の連中の降谷への態度に合点の行く事が多い。結婚云々も聞かれないし、女の子のいる店にも誘われないのだ。
「気を使わせたなぁ」
 申し訳ないような、馬鹿らしいような、おかしな気持ちになって、降谷は笑ってしまった。
 抱かせてもらった赤ちゃんも、腕の中でふにゃと笑った。
 この子がこの世に産まれたことに比べたら、自分の性嗜好が誤解されてることなんてどうでもいい話だ。
 本当に、ちっぽけな事なのだ。
 新しい命に比べて、今の自分は、なんと小さい存在だろうか。
 何もかも順調な筈の人生なのに、不意に自分の生き方が不安になる。
 春というのは、目紛しく季節が進む。己が置いてきぼりをくらったようで訳もなく焦ったり、色めく景色に浮かれたり、降谷もどこか忙しない自分に気付いてはいたのだった。
 知らない町を歩いてみたいなんて、らしくない事を考えるのも、そのせいだろうか。
 線路との位置関係は意識しつつ、人の気配がある道を選んで進む。一駅か二駅は、景色を楽しみながら歩いてみるのも良い。
 賑やかな商店街を通り抜け、洒落た店先で足を止めたり、咲いてる花の名前を調べてみたり。それから、古めかしい喫茶店でコーヒーも飲んでみた。
 そうしたら、これが、実に美味いコーヒーを出されたものだから驚いた。散歩もしてみるものだ。
 ふうっと一息吐く。
 そして、五年前のことを思い出してみた。
 人生で一番忙しく生きていた頃だ。
 上の人間は降谷を支えてくれるような相手を宛てがいたかったのだろう。私生活なんて持たない男への、せめてものお節介だったかもしれない。
 しかし、降谷には時間がなかった。見合いして、恋愛に似た関係を築くことすら煩わしいと思っていた。
 ましてや結婚して家庭を持つ?どう足掻いても無理だ。
 自棄っぱちで「ゲイだ」と言ったのだろう。いや、もしかしたら「FBIの赤井秀一といい仲だ」とも言ったかもしれない。なんとなく、赤井との仲も探られていたから、まとめて片付けてしまったのだ。
 勿論、赤井とは恋愛関係にない。それどころか、友人かどうかも怪しい。
 では、奴との仲は何か?
 降谷は、思い立って、赤井にメールを送ってみた。
「貴方と出会ってから、もう十年になりますね」
 だから、なんだ?自分で打った文章に苦笑する。
 これを受け取った赤井は首を傾げるだろう。
 だが、驚く事に、すぐに返事が届いたのだった。
「十年か。長いようで短いな」
 会話のような文章だった。
 あの男の。滑らかな低い声を思い出した。
 奴はどうしてるのだろう。結婚とか?してないだろう。赤井は降谷より家庭に向いてない。
「君の活躍は、聞いてる。随分と出世したそうだな」
 赤井の方からメールが届いた。このやりとりを続けようというのだ。
「四月から外務省に出向します。ここ数年は、警官の仕事はあまりできてないです」
 ちょっとだけ愚痴が出た。
 一昨年、小規模ながら日本でテロ事件が起きた。出向中の降谷は、お呼びでなかった。何をすることもできず、見守るだけ。その歯痒さは、実にやるせないものだった。
「俺も、国土安全保障省に呼ばれている」
「へぇ、どうするんです?」
「さぁ、決めてない」
 投げやりだ。赤井の方も、仕事は色々あるのか。いや、日本語の文章が苦手な人だった。それで、喧嘩になったことも、何度か。
 異文化コミュニケーションは、なかなか難儀なのだ。
「最後に会ったのは、いつでしたっけ?二年前?」
「去年、裁判で会っただろ」
「挨拶しかしてないです」
 降谷がアメリカを訪ねた時、同じ裁判の関係者として顔を合わせたのだ。
「君がすぐに帰国すると思わなかった。誘うつもりだったんだ」
「本当に?」
「あぁ。その前に、電話で言い合いになったからな、仲直りしたかった」
「そんなの、覚えてない」
 メールに日本語と英語が混じり出した。
 こうなると、喧嘩になりがちだ。降谷は英語に愛想を載せられない。赤井は元から愛想がない。
「また、電話ください。今度は、言い合いになんてならないから」
 降谷は、随分と素直にそう送った。
 次に、連絡を取るのはいつだろうか。
 十年も付き合いがあるのに、実にそっけない仲だ。
 ブブブブ
 喫茶店のテーブルの上で、スマホが震えていた。
 画面には“A”。赤井だ。
 降谷は慌てて勘定を済まして、店の外に出た。
「も、もしもしっ」
「やぁ、降谷くん」
 先程、思い描いた。懐かしい男の声だった。実にいい声だ。耳触りがいい、甘くないチョコレートみたいな声だった。
 さっき、色恋の仲だったなんて嘘を吐いてたことを思い出したせいか、少しばかり艶っぽく聞こえてしまう。
「久しぶりだな」
「本当に電話してきた」
「あぁ、君が連絡をくれるのを待ってたからな」
「やばい、口説かれてる」
「ははは」
 赤井は十年目で初めて、友人みたいに笑った。
 喫茶店から、数十メートル。他愛無い話をしながら進み、小さな公園で降谷は腰掛けた。
「あぁ、こちらはもうすぐ桜が咲きそうですよ」
 公園の桜の蕾が膨らんでいた。
「それは、一緒に見ようと誘われてるのかな?」
「ふふ、それもいいですね」
 ベンチに座って、花が咲く前の木を眺める。遠くに子どもの声。天気も良い。実にいい午後だ。
「もう、十年ですよ」
 感慨深い。
 もう十年だ、この男との付かず離れずの付き合いは。
「初めて会った時の貴方、本当に怖かった。死神みたいで」
「君は、アイドルみたいだった」
 赤井はとんでもないことを言った。
「は?」
「テレビに出てるアイドルみたいだったろ、君」
「そんなことないです。ちゃんと、ピリッとしてましたよ」
「見た目で舐められるからな、君は」
「色男過ぎると損します」
「ハハッ」
 また、赤井は笑った。
 降谷の見た目は、認めたくないが、若いのだ。若さを安っぽさと取られる事もある。
 赤井だって、初対面では、降谷を舐めきっていた。
「僕たち、仲悪かったですよね」
 出会った頃の事を鮮明に思い出す。
「まあな。君が俺を嫌ってた」
「嫌ってなかったです」
 口数の少ない大人の男。赤井は、実に痺れる男振りだったのだ。降谷は自分に無い男らしさとか渋さに、密かに憧れていた。まぁ、それも、最近になって漸く認めたところだ。
 それと、赤井への複雑な感情も。
「僕、貴方には甘えていたんですよね」
「ん?」
「八つ当たりみたいに嫌った振りして」
「いいさ。それでも分かっていた、君が本心では俺を頼りにしてくれてると」
「若い頃は、貴方となら、なんでもできるって、思ってましたから。色々と無茶してしまったな」
「犯罪組織でのコンビネーションは伊達じゃないな」
「そう、それ」
 自分が鍛えてきた部下たちより、赤井の方が降谷を自由に動かしてくれた。
 降谷は五年前、大きな掃討作戦で、最前線を張った。そんなつもりはなかったが、周りからは死ぬ気か?と何度も聞かれた。
 赤井はそう言わなかった。赤井だけは、降谷を死なせる気が無かったからだ。
「結局、貴方ほど僕を理解してくれる人は居ないんですよ」
 五年前、何故、上司に「赤井と恋人関係にある」なんて嘘を吐いたのか、降谷は何となく分かった。この関係は、友人には収まらないのだ。奇妙に歪んだ仲なのだ。
 一時の、燃え盛る炎のような感情は、もうない。冷め切らぬ心の熾火が燻るだけ。憎んでいたかどうかも、もう判らない。
「僕も、貴方を理解したかった」
 降谷は少しばかり感傷的な呟きをこぼした。
「知らんのか?」
「え?」
「君は、俺の母親より俺を理解している」
 赤井はいつもの調子で冗談を冗談と分からない口調で言った。
 今度は降谷も笑った。
「五年前のこと、今でも夢に見ます。もちろん、貴方も出てきて」
「あぁ、分かるよ」
「命懸けで戦ったのは、あれが最後です。きっと、もう、最前線に立つことは無いんでしょうね」
「不謹慎だが、君と一緒に戦ったあの作戦は、楽しかった」
「うん、楽しかったです」
 別に死に急いだわけじゃない。命のスリルを求めてるわけでもない。ただ、限界まで、燃え尽きるまで、戦った記憶は、悪くないものだろう。
 あの時、心強く赤井の気配を感じていた。降谷を守ってくれてる。それが分かっていた。
「あの命懸けの時より、今の方が不安なんて、おかしいですかね」
 赤井には、何も隠せない。つい、弱音のような物を口にしてしまった。
「この道が正しいのか、分からなくなるんだろう?」
 赤井は降谷が言葉で表せない不安を分かってくれた。
「僕は日本を守りたいだけなんです。警官ですから、それが使命です」
「官僚になりたいわけじゃないか」
「認められるのはありがたいのですが」
「だが、君が進む道は国家の繁栄に繋がるのでは?」
「そうでしょうか」
 でも、降谷は、この用意された足場の悪くない道を進むことが苦痛だ。
「実は、俺も悩んでいる。引き抜きの話は、初めてじゃないが、今回は受けるかもしれない」
 赤井はぐっと声を潜めて言った。
「何故?」
 つられて、降谷の声もひっそりと囁き声になった。
「…俺も出世の話が出ていてね」
「おめでとうございます」
「まあな。素敵な個室が貰えるそうだ」
「へぇ」
「もう、狙撃手じゃないんだろうな、俺は」
 赤井はぽそっと呟いた。
「貴方の頭脳や捜査官としての勘は評価されて当然だと思います」
「腕にも自信があるが?」
「まだ、衰える年じゃないですね、確かに」
 だが、赤井も、もう最前線で戦う立場ではない。
「不惑って知ってます?」
「俺は、その歳になるな」
「僕、貴方は、とっくにその域に居ると思ってました。僕は、いつまでも貴方には追いつけなくて、でも、追いかけていれば迷わないでいられるような、そんな目印みたいな人だと」
「買い被ったな」 
「貴方が僕と同じような悩みを持つとは思わなかった」
 赤井は、いつも、降谷が持て余す事を既に捨て去っていると、そう思っていた。
「お互い、まだ惑わずには生きられないんですね」
「まだ若いってことさ」
 赤井の何気ない言葉。それは、今の降谷が一番、欲しかった言葉だった。
 降谷の不安は形になって、形が分かれば不安でもなくて、ただ、立ち向かえばいい対象でしかなくなって、別に大人しく受け入れる義理もない。
 そうだ。まだ、惑う歳なのだ。それほど、簡単に大人にはなれない。
 心のままに、道を選んでもいいのだ。
「まぁ、そんなわけで、君の声が聞きたかったんだ」
 赤井は、いつも少し先を行く男だった。降谷はその背中を追いかけてきた。
「僕の声で、先が決まりました?」
 だけど、いつのまにか赤井に追い付いて、肩を並べていたのかもしれない。
「いや、ちっとも」
 赤井ははっきりと言い切った。
「おいっ」
「しかし、心が浮き立った」 
 赤井はもう大人ぶった物言いはしなかった。
「僕も、もう少し頑張れそうです」
「桜に間に合うように会いに行くよ」
 赤井は簡単に言う。
「待ってます」
 降谷も簡単に答えた。
「存外、君と会ったら、全てを決められるかもしれないな」
「僕、何もアドバイスしないですよ」
「そんなの俺だってしない」
 あははと笑って電話を切った。
 叫びたくなるような、奇妙な高揚。そして、確かに感じた、自分の心の揺らぎ。
 五年前の自分は、それなりに考えて物を言ったかもしれないぞ。
 降谷は、長電話で温くなったスマホを眺めてそう思った。
 ゆっくりだが、確かに、降谷の気持ちは動いていたらしい。
 十年で漸く降谷は、この友情には収まらない奇妙な感情を恋のような物では?と認識した。
 もし、本当に、赤井が会いに来るのなら、その時は、二人で答え合わせをしよう。
 春の忙しない焦燥感は消えていた。
 代わりに、降谷の心は、赤井と同じように春めいて浮き立ったのだった。
1/1ページ
    スキ