Starting Moon
さて、こちらは犯人側。
「──脱げ」
「…は?」
下水道の真ん中で勇磨は、吉本の言葉を理解したくなくて、聞き返した。
「俺、こっからは高井の制服着て行かなきゃいけねーんだよ」
「…」
「だから脱いでくれ」
普段なら蹴りの一つでも食らわせて抵抗するのだが、銃口がこちらを向いているとなるとそうもいかない。
と言っても、頷きたくもなくて勇磨はそのまま固まってしまう。
「…じゃあ、脱がすぞ」
だが、相手はそれを肯定したのだと解釈したらしい。
レインコートに手が伸びてくる。
否、正確には手を伸ばそうとした。
しかし、その手はレインコートまでには届かず、そのまま己の右足の脛を覆う事となる。
「…痛っっ!!」
勇磨が隙を突いて、ここぞとばかりに脛を勢い良く蹴ったのだ。
見事なクリティカルヒット。
吉本は銃を持っていた右手も、勇磨の腰に巻かれていた縄も離してしまった。
…当然、そんな状況で逃げ出さない人なんか居ない。
勇磨はうずくまる吉本の隣に落ちていた銃を着服して、スタコラと逃げ出した。
とにかく、近くのマンホール目指して。
「あっ!」
それを最初に見つけたのは、雛であった。
数歩後ろから、地図から顔を上げて御影がついてくる。
「誰か、うずくまってる」
「…どれ?」
「犯人かなぁ」
「でも、志原居ないじゃん?」
しかし、こんな所じゃ一般人も居ないだろう。
応援が降りてきたという連絡も、来ていない。
「行ってみよう」
雛は意を決して、その人物に近づいた。
「あの。どうかしましたか?」
「…足が」
雛の声に、うずくまっている男は泣いた後の鼻が詰まったような声で答えた。
「?…足が、どうしたんですか?」
雛は男の肩に手をやった。
もし負傷しているのなら、例え犯人とて担いで行かなければならない。
だが、男はその手を強く掴むなり口調を荒くする。
「お前の同僚に、右足の脛を──」
『思い切り蹴られた』と言いたかったのだろうが、その言葉はバズーカーの銃口で完全に塞がれた。
御影による、悪魔のような笑顔付き。
「ほう。それは何かい、警官にやられたとでも言いたい訳?」
「…」
「で、その警官は何処に居るの?監禁してるとかなら、もうちょっと罪が重くなるわよ」
悪魔は鼻で笑っている。
雛本人よりも、先程の狙撃事案が相当頭にきていたらしい。
それは次第に凄みを帯びている。
犯人はそれにビビったのか、一度は離しかけた雛の手を引っ張って再び握り締める。
それに体が付いていかずバランスを失った彼女を、御影の方へ突き飛ばす。
二人が共に倒れそうなところを、逃げ出した。
「あっ!」
「うわっっ⁉」
だが、犯人は雛の反射神経の鋭さを甘く見ていた。
雛は御影にぶつかるギリギリで、器用に身を翻し足止めを防いだ。
しかし、狭い場所な故に床へ転がる形になり足首を捻ってしまったらしく、すぐには起き上がれない。
「雛、大丈夫!?」
「大丈夫、それより犯人追って!」
起こそうとした御影の手を払って、雛は犯人が逃走した方向を指す。
「早く!」
「…解った、マップ渡しとく。それと、このプレートも」
そう言って御影はあの代物を手渡し、発信機を取り出した。
「私の発信機は二十八番だから。プレートにランプが反応したら、残りの三つのマンホールの中のどれかを探して!」
「了解」
「待ってるから。どうせなら、二人で確保したいじゃない?」
「…うん」
「じゃ、後でね!」
御影は余裕の笑みを浮かべて、犯人の後を追っていった。
その足音が聞こえなくなったところで、雛はゆっくりと起き上がる。
「…よいしょっ、っと」
捻った左足を、軽く地面についてみる。
ジンワリと痛みが広がるが、出血はないのでまだ良かった。
「うん。走るのは未だちょっと無理だけど…、歩く位なら大丈夫そうだね」
こんな場所で、歩くのさえままならないとなると……
少し不安になったが、思ったより症状は軽かったようだ。
歩くと少々痛むが、それも耐えられない程ではない。
(だけど。時間が経てばきっと、もっと痛くなるよね)
のんびりしてはいられない。
雛は勇磨を探し始めた。
「くそっ…!」
誰も居ない中、勇磨は焦っていた。
闇雲に探しても、どうしようもないと解かってはいるものの…
とにかくマンホールに向かいさえすれば、雛達が近くに居るような気がしたのだ。
だが、夢の森埋立地の下水道は最新の設備で作られた為に、ルートも複雑になっていた。
(ここから、どうすれば良いんだ…)
勇磨には、そのルートを攻略する地図が無い。
ダウンロードしてあった端末は、吉本が持っていったまま。
警察手帳に仕込まれたICチップが無いと承認確認が出来ないので、犯人が奪ってもロクに使えないのは不幸中の幸いである。
圏外なので通話は使えないが、内蔵GPSは特殊な仕組みだ。
地上に残った第五隊も、居場所が突き止められた事だろう。
武器は辛うじてあるものの、手錠付きの両手首では扱うのも大変だ。
失くさないように厳重に仕舞ったポケットの中の鍵を探りたくても、彼の体は柔軟性が足りなかった。
吉本や他に居るであろう犯人と遭遇する前に、何としても味方と合流しなければならない。
運悪く捕まるような事になれば、今度は何をされるか…
(別のマンホールを、探すしかないか)
「長居は禁物だ」と、勇磨は道を引き返そうとした。
その時。
ピッと視界の端に一瞬赤い光が映り、そして──
「うわぁぁっ!!」
何かもう、例えて言い表せないような物体と言うか。
とにかくドロッとした悪臭を三乗したような液体が顔にかかり、勇磨はその場にしゃがみ込んだ。
『もしも、発信機が作動した時の為に、オプションを付けてみました』
一方で、壁に片手を突きながら、ゆっくり移動中の雛。
その脳裏に、御影の言葉が蘇る。
(そう言えば。御影が言ってた『オプション』って、一体何だったんだろう?)
とんでもない代物には違いない。
雛は茶色い地獄を想像しつつ、差し掛かった通路の交差点で地図と現在地を見比べる。
すると、ポケットに入っていたプレートが突然鳴り出した。
「…もう捕まえたの?」
電子音と共に、ランプが赤く光っている。
該当枠の数字を確かめた。
「十六?」
御影のとは違う番号だ。
これは、新たな犯人との遭遇になるだろうか。
だとしたら、捻った患部が悪化する前に取り押さえなければならない。
「十六番は…右を曲がって、突き当りを左か」
こうなったら謎のオプションが、犯人にとって少しでも強力な足止めになっている事を望むしかない。
雛はその場所へ急ぐ。
そして約五分後。
この世じゃ存在しようも無いと思われる悪臭と、発生源の液体か何かを浴びて悶えている勇磨を発見したのであった。
「雛ぁっ!!」
「──勇磨!」
ボロボロに泣き腫らした目で、勇磨は顔を上げる。
悪臭と液体、どちらにやられたかは定かではない。
が、精神的だけでも十分に泣ける状況だ。
「だ、大丈夫そうだけど。あの…」
「解ってる。もう近寄りたくないだろ」
「……ごめんね」
雛と勇磨の間は数メートル離れている。
が、手錠の鍵を渡す為に一度だけ近寄った彼女の目には、既に涙が溜まっている。
それだけ凄まじいのだ。
悪臭が、気分が。
思わず現実逃避したくなるような、状況が。
ちなみに拉致された相棒と再会出来た安堵感は、一瞬で吹っ飛んでいる。
「あ、あの。ハンカチ使う?」
それでも雛は普通を装ってか、ハンカチを差し出す。
数メートル先の相棒へ。
「…そっちへ行く」
勇磨も、彼女の限界に気付いたのだろう。
手錠を外し腰の縄を解くと、レインコートのポケットへ捻じ込んで立ち上がる。
被さっていたフードを降ろしてコートを脱ぎ、顔に跳ねた液体を無事な部分で拭く。
傍で流れ落ちている雨水でそれを洗い流して、やっと相棒と再会をきちんと果たした。
「あれ?もう臭いしない」
「あぁ、レインコートに付いただけだからな。制服は無事だったよ」
雛のハンカチを借りて顔を拭いた勇磨は、「一応備品だから」とレインコートの袖を腰に巻いた。
「ハンカチ、洗って返すな」
「いいよ。それより……痛っ」
御影を追おうと言おうとしたが、捻った足首が痛み出した。
雛はしゃがみこんでしまう。
すぐに立てない相棒を目前に、勇磨は突然の事で慌てる。
「どうした!?」
「大丈夫だよ。先刻、足首捻っちゃって」
雛が痛みを堪えながら微笑もうとする。
ゆっくりと立ち上がったその直後、再びプレートが鳴り出した。
今度は予定通りだ。
「あっ!」
「何だそれ?」
「御影が犯人を捕まえたみたい。勇磨、行こう!」
「待て、雛」
無理に走り出そうとした彼女の肩を掴み、勇磨は厳しい顔をする。
「放っておいても腫れるのに、走ったら余計に酷くなるだろ」
「でも…!」
確かにその通りだが、今は一刻も争う事態だ。
雛は困って俯いた。
「ほら」
見かねて、勇磨は肩を貸そうとした。
が、考え直したのか予告もなしに雛を抱きかかえる。
「──よっ、と」
「え…っ!?」
余りにも不意で、雛は赤面した。
「急ぐなら、こっちの方が良いだろ?」
「…うん」
「ナビ、頼んだぞ」
「りょ…かい」
雛は一瞬だけ勇磨の腕の暖かさに触れてから、地図を見てナビゲーター役に努めた。
午後十八時十八分。
雛と勇磨が御影を発見したのは、ランプが点灯してから約十五分後の事。
「おーい、こっちこっちぃ…って」
御影は二人の登場姿に「ありゃ」と突っ込まずに入られない。
意地悪く微笑む。
「お楽しみのお邪魔だったみたいね?」
「うっせぇ」
「な、…御影ったら」
頬を赤くしながら勇磨がぶっきらぼうに答えた。
雛も何か答えようとしたが、恥ずかしさが言葉を閉ざしてしまった。
二人っきりの間、別に何か口外出来ないような事をした訳ではないのだが。
それが初々し過ぎて、「小学生じゃあるまいし」とツッコミを入れようとした御影。
親友を優しく降ろした勇磨の姿にピンと来た。
「志原、その腰に巻いてあるレインコートの染みって…」
「んあ?」
「もしかして、アレ被ったの?」
現在の勇磨には、ツッコミどころが満載のようだ。
「…あれ、お前が仕掛けたんだな?」
「とんでもない。勝手に引っかかった、アンタが間抜けなだけよ」
「な、何をぉっ!!」
ホホホと勇磨の怒りの鉄拳から逃れながら、御影は華麗なステップで雛の後ろへ隠れた。
「さて、志原巡査。君はこの状態で、あたしを倒すつもりかね?」
「くっ…、雛を盾にしやがって。それが親友のする事か!」
「まぁまぁ、二人とも」
いつの間にか出動任務遂行中から普段の二人に戻りそうになって、やんわりと雛が間に入った。
「それで、犯人は?」
「?」
緩やかに「今は事件に専念しなさい」と主張する。
一瞬眉を顰めてから、御影は思い出したかのように後方を指差した。
「あぁ。あっちで気絶してる」
「あっち?」
雛と勇磨が見た、その向こうには──
「…」
「…」
「ね。あんまり近寄りたくないでしょ?」
遭遇(エンカウント)した当事者以外、絶句している。
不気味な静寂に包まれた空気が、一瞬通り過ぎた。
「そんなこんなで。ここまで離れて、いつの間にか忘れちゃってたけどねぇ」
御影の笑い声をBGMに、二人の数十メートル先には『残酷』としか言いようが無い惨劇の現場があった。
勇磨が被ったよりも倍と思われる量の、《あの液体》が体中にまとわり付いている物体、もとい犯人と思われる人物が倒れていた。
よくよく見ると、吉本だ。
「いやぁ、考案者のあたしが言うのも変だけどさ。凄いわね、《腐ったトマト弾+α》の威力は」
「へ?」
「もう十五分もあのまんまなのよ」
「…あれが腐ったトマト弾+αなの?」
「うん」
気を失いたい衝動に駆られながらも、涙が出そうな瞳を強く閉じる。
トマト自体に罪はないのだが。
関する全ての記憶を思い起こす事さえ、暫くは止めておこうと心に決めた雛。
勇磨も、こんなモノを被弾した自分を同情したくなった。
流石に二人共、倍の量を被った犯人の安否を心配せずには居られない。
「制圧執行、成功。良し!」
「じゃねーよ」
「何を以て良しなのか、分からないよ…」
「三人揃ったところで、さっさと犯人確保して地上(うえ)に出ますか♪」
雛の心中を知りようも無い御影は、嬉々として手錠を取り出し雛に渡す。
それを握らされた本人は、更に顔が引き攣った。
「…はぅ」
「はい。こういう事は、サクサク行くわよ」
正直言って、近寄りたくない。
たじろいでいる雛の背中をポンポンと叩きながら、御影はしれっと言った。
彼女は、例の液体の殺人的な臭いに鼻が追いつかなくなっているようだ。
生みの親でも麻痺してしまう程なのか。
「おい。蔵間」
勇磨の呼びかけは、天の一声であった。
彼に振り向いた二人は、指をさされた方向へ視線を移す。
「何よ、志原?」
「起きたみたいだぜ。犯人」
「えっ!?」
「え?」
半泣きの雛と、喜びを感じている御影の声が見事にハモった。
只一人冷静な勇磨。
(こういうトコも、コンビネーション抜群なんだよな)
仲良しで羨ましいなどと頭の隅で思いながらも、二人を背後にして庇いながら犯人の出方を待つ。
御影も、雛を守るように銃を構えた。
三人が臨戦態勢に入り、沈黙が訪れる。
「…あ、あ」
犯人は、取り敢えず日本語において一番最初の母音を吐いた。
数十メートルを隔てた緊迫感も、それで終わる。
「ま…、ママーッ!!!」
「マザコンかい」
現金強盗まで仕出かした大の男が、大声で泣き叫び始める。
発狂しながら泣き捲くる犯人の声の中で、御影はポツリ呟いた。
「男も、弱くなったもんだわ」
「同感」
「人間、誰しもそうだよ?」
勇磨も溜息混じりに呆れ帰る。
そして、相棒の肩に触れた。
「…さて。こっからは、お前達の仕事だな」
「え?」
「そーよ。私達、そのためにここまで来たんだもん」
雛が見上げるその視界の端で、御影もウィンクして答えた。
お守り発信機を勇磨へ一旦預け、確保報告と状況説明を頼む。
「勇磨…」
「行ってこい。そんで、一緒に帰ろうぜ」
「…うん!」
雛は相棒の優しい目に背中を押してもらい、御影と共に歩き出した。
未だ泣きじゃくっている吉本の前で、手錠を構える。
「――強盗容疑及び、公務執行妨害の現行犯で逮捕する!」
二人の声が、今回の事件に華々しく終止符を打った…かのように思えた。
「──脱げ」
「…は?」
下水道の真ん中で勇磨は、吉本の言葉を理解したくなくて、聞き返した。
「俺、こっからは高井の制服着て行かなきゃいけねーんだよ」
「…」
「だから脱いでくれ」
普段なら蹴りの一つでも食らわせて抵抗するのだが、銃口がこちらを向いているとなるとそうもいかない。
と言っても、頷きたくもなくて勇磨はそのまま固まってしまう。
「…じゃあ、脱がすぞ」
だが、相手はそれを肯定したのだと解釈したらしい。
レインコートに手が伸びてくる。
否、正確には手を伸ばそうとした。
しかし、その手はレインコートまでには届かず、そのまま己の右足の脛を覆う事となる。
「…痛っっ!!」
勇磨が隙を突いて、ここぞとばかりに脛を勢い良く蹴ったのだ。
見事なクリティカルヒット。
吉本は銃を持っていた右手も、勇磨の腰に巻かれていた縄も離してしまった。
…当然、そんな状況で逃げ出さない人なんか居ない。
勇磨はうずくまる吉本の隣に落ちていた銃を着服して、スタコラと逃げ出した。
とにかく、近くのマンホール目指して。
「あっ!」
それを最初に見つけたのは、雛であった。
数歩後ろから、地図から顔を上げて御影がついてくる。
「誰か、うずくまってる」
「…どれ?」
「犯人かなぁ」
「でも、志原居ないじゃん?」
しかし、こんな所じゃ一般人も居ないだろう。
応援が降りてきたという連絡も、来ていない。
「行ってみよう」
雛は意を決して、その人物に近づいた。
「あの。どうかしましたか?」
「…足が」
雛の声に、うずくまっている男は泣いた後の鼻が詰まったような声で答えた。
「?…足が、どうしたんですか?」
雛は男の肩に手をやった。
もし負傷しているのなら、例え犯人とて担いで行かなければならない。
だが、男はその手を強く掴むなり口調を荒くする。
「お前の同僚に、右足の脛を──」
『思い切り蹴られた』と言いたかったのだろうが、その言葉はバズーカーの銃口で完全に塞がれた。
御影による、悪魔のような笑顔付き。
「ほう。それは何かい、警官にやられたとでも言いたい訳?」
「…」
「で、その警官は何処に居るの?監禁してるとかなら、もうちょっと罪が重くなるわよ」
悪魔は鼻で笑っている。
雛本人よりも、先程の狙撃事案が相当頭にきていたらしい。
それは次第に凄みを帯びている。
犯人はそれにビビったのか、一度は離しかけた雛の手を引っ張って再び握り締める。
それに体が付いていかずバランスを失った彼女を、御影の方へ突き飛ばす。
二人が共に倒れそうなところを、逃げ出した。
「あっ!」
「うわっっ⁉」
だが、犯人は雛の反射神経の鋭さを甘く見ていた。
雛は御影にぶつかるギリギリで、器用に身を翻し足止めを防いだ。
しかし、狭い場所な故に床へ転がる形になり足首を捻ってしまったらしく、すぐには起き上がれない。
「雛、大丈夫!?」
「大丈夫、それより犯人追って!」
起こそうとした御影の手を払って、雛は犯人が逃走した方向を指す。
「早く!」
「…解った、マップ渡しとく。それと、このプレートも」
そう言って御影はあの代物を手渡し、発信機を取り出した。
「私の発信機は二十八番だから。プレートにランプが反応したら、残りの三つのマンホールの中のどれかを探して!」
「了解」
「待ってるから。どうせなら、二人で確保したいじゃない?」
「…うん」
「じゃ、後でね!」
御影は余裕の笑みを浮かべて、犯人の後を追っていった。
その足音が聞こえなくなったところで、雛はゆっくりと起き上がる。
「…よいしょっ、っと」
捻った左足を、軽く地面についてみる。
ジンワリと痛みが広がるが、出血はないのでまだ良かった。
「うん。走るのは未だちょっと無理だけど…、歩く位なら大丈夫そうだね」
こんな場所で、歩くのさえままならないとなると……
少し不安になったが、思ったより症状は軽かったようだ。
歩くと少々痛むが、それも耐えられない程ではない。
(だけど。時間が経てばきっと、もっと痛くなるよね)
のんびりしてはいられない。
雛は勇磨を探し始めた。
「くそっ…!」
誰も居ない中、勇磨は焦っていた。
闇雲に探しても、どうしようもないと解かってはいるものの…
とにかくマンホールに向かいさえすれば、雛達が近くに居るような気がしたのだ。
だが、夢の森埋立地の下水道は最新の設備で作られた為に、ルートも複雑になっていた。
(ここから、どうすれば良いんだ…)
勇磨には、そのルートを攻略する地図が無い。
ダウンロードしてあった端末は、吉本が持っていったまま。
警察手帳に仕込まれたICチップが無いと承認確認が出来ないので、犯人が奪ってもロクに使えないのは不幸中の幸いである。
圏外なので通話は使えないが、内蔵GPSは特殊な仕組みだ。
地上に残った第五隊も、居場所が突き止められた事だろう。
武器は辛うじてあるものの、手錠付きの両手首では扱うのも大変だ。
失くさないように厳重に仕舞ったポケットの中の鍵を探りたくても、彼の体は柔軟性が足りなかった。
吉本や他に居るであろう犯人と遭遇する前に、何としても味方と合流しなければならない。
運悪く捕まるような事になれば、今度は何をされるか…
(別のマンホールを、探すしかないか)
「長居は禁物だ」と、勇磨は道を引き返そうとした。
その時。
ピッと視界の端に一瞬赤い光が映り、そして──
「うわぁぁっ!!」
何かもう、例えて言い表せないような物体と言うか。
とにかくドロッとした悪臭を三乗したような液体が顔にかかり、勇磨はその場にしゃがみ込んだ。
『もしも、発信機が作動した時の為に、オプションを付けてみました』
一方で、壁に片手を突きながら、ゆっくり移動中の雛。
その脳裏に、御影の言葉が蘇る。
(そう言えば。御影が言ってた『オプション』って、一体何だったんだろう?)
とんでもない代物には違いない。
雛は茶色い地獄を想像しつつ、差し掛かった通路の交差点で地図と現在地を見比べる。
すると、ポケットに入っていたプレートが突然鳴り出した。
「…もう捕まえたの?」
電子音と共に、ランプが赤く光っている。
該当枠の数字を確かめた。
「十六?」
御影のとは違う番号だ。
これは、新たな犯人との遭遇になるだろうか。
だとしたら、捻った患部が悪化する前に取り押さえなければならない。
「十六番は…右を曲がって、突き当りを左か」
こうなったら謎のオプションが、犯人にとって少しでも強力な足止めになっている事を望むしかない。
雛はその場所へ急ぐ。
そして約五分後。
この世じゃ存在しようも無いと思われる悪臭と、発生源の液体か何かを浴びて悶えている勇磨を発見したのであった。
「雛ぁっ!!」
「──勇磨!」
ボロボロに泣き腫らした目で、勇磨は顔を上げる。
悪臭と液体、どちらにやられたかは定かではない。
が、精神的だけでも十分に泣ける状況だ。
「だ、大丈夫そうだけど。あの…」
「解ってる。もう近寄りたくないだろ」
「……ごめんね」
雛と勇磨の間は数メートル離れている。
が、手錠の鍵を渡す為に一度だけ近寄った彼女の目には、既に涙が溜まっている。
それだけ凄まじいのだ。
悪臭が、気分が。
思わず現実逃避したくなるような、状況が。
ちなみに拉致された相棒と再会出来た安堵感は、一瞬で吹っ飛んでいる。
「あ、あの。ハンカチ使う?」
それでも雛は普通を装ってか、ハンカチを差し出す。
数メートル先の相棒へ。
「…そっちへ行く」
勇磨も、彼女の限界に気付いたのだろう。
手錠を外し腰の縄を解くと、レインコートのポケットへ捻じ込んで立ち上がる。
被さっていたフードを降ろしてコートを脱ぎ、顔に跳ねた液体を無事な部分で拭く。
傍で流れ落ちている雨水でそれを洗い流して、やっと相棒と再会をきちんと果たした。
「あれ?もう臭いしない」
「あぁ、レインコートに付いただけだからな。制服は無事だったよ」
雛のハンカチを借りて顔を拭いた勇磨は、「一応備品だから」とレインコートの袖を腰に巻いた。
「ハンカチ、洗って返すな」
「いいよ。それより……痛っ」
御影を追おうと言おうとしたが、捻った足首が痛み出した。
雛はしゃがみこんでしまう。
すぐに立てない相棒を目前に、勇磨は突然の事で慌てる。
「どうした!?」
「大丈夫だよ。先刻、足首捻っちゃって」
雛が痛みを堪えながら微笑もうとする。
ゆっくりと立ち上がったその直後、再びプレートが鳴り出した。
今度は予定通りだ。
「あっ!」
「何だそれ?」
「御影が犯人を捕まえたみたい。勇磨、行こう!」
「待て、雛」
無理に走り出そうとした彼女の肩を掴み、勇磨は厳しい顔をする。
「放っておいても腫れるのに、走ったら余計に酷くなるだろ」
「でも…!」
確かにその通りだが、今は一刻も争う事態だ。
雛は困って俯いた。
「ほら」
見かねて、勇磨は肩を貸そうとした。
が、考え直したのか予告もなしに雛を抱きかかえる。
「──よっ、と」
「え…っ!?」
余りにも不意で、雛は赤面した。
「急ぐなら、こっちの方が良いだろ?」
「…うん」
「ナビ、頼んだぞ」
「りょ…かい」
雛は一瞬だけ勇磨の腕の暖かさに触れてから、地図を見てナビゲーター役に努めた。
午後十八時十八分。
雛と勇磨が御影を発見したのは、ランプが点灯してから約十五分後の事。
「おーい、こっちこっちぃ…って」
御影は二人の登場姿に「ありゃ」と突っ込まずに入られない。
意地悪く微笑む。
「お楽しみのお邪魔だったみたいね?」
「うっせぇ」
「な、…御影ったら」
頬を赤くしながら勇磨がぶっきらぼうに答えた。
雛も何か答えようとしたが、恥ずかしさが言葉を閉ざしてしまった。
二人っきりの間、別に何か口外出来ないような事をした訳ではないのだが。
それが初々し過ぎて、「小学生じゃあるまいし」とツッコミを入れようとした御影。
親友を優しく降ろした勇磨の姿にピンと来た。
「志原、その腰に巻いてあるレインコートの染みって…」
「んあ?」
「もしかして、アレ被ったの?」
現在の勇磨には、ツッコミどころが満載のようだ。
「…あれ、お前が仕掛けたんだな?」
「とんでもない。勝手に引っかかった、アンタが間抜けなだけよ」
「な、何をぉっ!!」
ホホホと勇磨の怒りの鉄拳から逃れながら、御影は華麗なステップで雛の後ろへ隠れた。
「さて、志原巡査。君はこの状態で、あたしを倒すつもりかね?」
「くっ…、雛を盾にしやがって。それが親友のする事か!」
「まぁまぁ、二人とも」
いつの間にか出動任務遂行中から普段の二人に戻りそうになって、やんわりと雛が間に入った。
「それで、犯人は?」
「?」
緩やかに「今は事件に専念しなさい」と主張する。
一瞬眉を顰めてから、御影は思い出したかのように後方を指差した。
「あぁ。あっちで気絶してる」
「あっち?」
雛と勇磨が見た、その向こうには──
「…」
「…」
「ね。あんまり近寄りたくないでしょ?」
遭遇(エンカウント)した当事者以外、絶句している。
不気味な静寂に包まれた空気が、一瞬通り過ぎた。
「そんなこんなで。ここまで離れて、いつの間にか忘れちゃってたけどねぇ」
御影の笑い声をBGMに、二人の数十メートル先には『残酷』としか言いようが無い惨劇の現場があった。
勇磨が被ったよりも倍と思われる量の、《あの液体》が体中にまとわり付いている物体、もとい犯人と思われる人物が倒れていた。
よくよく見ると、吉本だ。
「いやぁ、考案者のあたしが言うのも変だけどさ。凄いわね、《腐ったトマト弾+α》の威力は」
「へ?」
「もう十五分もあのまんまなのよ」
「…あれが腐ったトマト弾+αなの?」
「うん」
気を失いたい衝動に駆られながらも、涙が出そうな瞳を強く閉じる。
トマト自体に罪はないのだが。
関する全ての記憶を思い起こす事さえ、暫くは止めておこうと心に決めた雛。
勇磨も、こんなモノを被弾した自分を同情したくなった。
流石に二人共、倍の量を被った犯人の安否を心配せずには居られない。
「制圧執行、成功。良し!」
「じゃねーよ」
「何を以て良しなのか、分からないよ…」
「三人揃ったところで、さっさと犯人確保して地上(うえ)に出ますか♪」
雛の心中を知りようも無い御影は、嬉々として手錠を取り出し雛に渡す。
それを握らされた本人は、更に顔が引き攣った。
「…はぅ」
「はい。こういう事は、サクサク行くわよ」
正直言って、近寄りたくない。
たじろいでいる雛の背中をポンポンと叩きながら、御影はしれっと言った。
彼女は、例の液体の殺人的な臭いに鼻が追いつかなくなっているようだ。
生みの親でも麻痺してしまう程なのか。
「おい。蔵間」
勇磨の呼びかけは、天の一声であった。
彼に振り向いた二人は、指をさされた方向へ視線を移す。
「何よ、志原?」
「起きたみたいだぜ。犯人」
「えっ!?」
「え?」
半泣きの雛と、喜びを感じている御影の声が見事にハモった。
只一人冷静な勇磨。
(こういうトコも、コンビネーション抜群なんだよな)
仲良しで羨ましいなどと頭の隅で思いながらも、二人を背後にして庇いながら犯人の出方を待つ。
御影も、雛を守るように銃を構えた。
三人が臨戦態勢に入り、沈黙が訪れる。
「…あ、あ」
犯人は、取り敢えず日本語において一番最初の母音を吐いた。
数十メートルを隔てた緊迫感も、それで終わる。
「ま…、ママーッ!!!」
「マザコンかい」
現金強盗まで仕出かした大の男が、大声で泣き叫び始める。
発狂しながら泣き捲くる犯人の声の中で、御影はポツリ呟いた。
「男も、弱くなったもんだわ」
「同感」
「人間、誰しもそうだよ?」
勇磨も溜息混じりに呆れ帰る。
そして、相棒の肩に触れた。
「…さて。こっからは、お前達の仕事だな」
「え?」
「そーよ。私達、そのためにここまで来たんだもん」
雛が見上げるその視界の端で、御影もウィンクして答えた。
お守り発信機を勇磨へ一旦預け、確保報告と状況説明を頼む。
「勇磨…」
「行ってこい。そんで、一緒に帰ろうぜ」
「…うん!」
雛は相棒の優しい目に背中を押してもらい、御影と共に歩き出した。
未だ泣きじゃくっている吉本の前で、手錠を構える。
「――強盗容疑及び、公務執行妨害の現行犯で逮捕する!」
二人の声が、今回の事件に華々しく終止符を打った…かのように思えた。
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