真夜中の対挑戦者
もう少しで時計の針が二つ揃って真上に来る頃。
晩飯を皆で取ったのは、既に五時間も前の話だ。
未だ慣れぬ宿直勤務、雛は必死で眠るまいと頑張っていた。
「眠いよぉ」
「ちゃんと起きてろよ。もうすぐ、第二班の連中が買出しから戻ってくる頃…ふぁぁ」
雛の欠伸が伝染ったのか、勇磨が話の途中で大きく一つ。
「にしては、遅くない?」
「夢の森で二十四時間営業のコンビニって言ったら、まだ少ないみたいだからな」
「うーん…」
「近くに出来るみたいだけど、建設工事始まったばかりって聞いたし」
「そうだったね」
元々、夢の森は人工林がメインの埋立地なのだ。
住宅区画がまだ少ないのに、商店街があるだけでも珍しい。
買出し役がコンビニ探しの段階で苦労しているであろう、なんて事は容易に想像出来た。
留守番組の二人が、「もう少しかかりそうだ」と顔を見合わせたその直後。
オフィスのドアを蹴破らん程の勢いで御影が入ってくるなり、開口一番──
「た、高井さんが大変なのよ!誰か、救急箱っ!!」
高井の怪我は、本当に大した事は無かった。
ただ…
余りにも御影がオーバーだった所為で、医務室は引っ掻き回したように騒然としている。
警察医が帰った後なので、薬や薬品類の保管棚は施錠されていて使えなかった。
簡易な物は目の前に出してあるが、全てひっくり返っている。
焦った彼らが触った証拠だ。
「大袈裟なんだよ。蔵間は」
高井は「心配は有難いが」と、落ち着かない相棒を宥める。
外傷は無いのだが、袖をまくっている腕には赤黒い塗料がベッタリと付着していた。
どうやら、御影はこれを血と見間違って大騒ぎしたらしい。
「高井さんの言う通りだぜ」
「だってぇ…。赤いのベッタリ付いてるの見て、血だと思ったんだもん」
「確かに、それっぽい色だよね。暗がりで見たら、私も間違うかも」
「……本人が痛がってもいないのに、か?」
高井が自らそう言うものだから、三人は顔を見合わせて苦笑する。
それだけの余裕が、やっと訪れた。
「とにかく、怪我が無くて良かったッス」
「そうだね。高井さん大丈夫なんだから、御影も落ち着きなよ」
「でもさぁ…」
親友に肩を優しく掴まれて、不満はあれど落ち着く御影。
高井に言われて、隊員室から持ってきたタブレット端末を使い『発生事案の証拠』と腕を撮影する勇磨。
そこへ、高井を囲んだ一同の後ろから声が発せられた。
「──それにしても、これはヒドイですよね」
皆が驚いて振り向くと、大量の買い物袋を抱えている葉月が立っていた。
荷物に隠れて、顔が見えていない。
「あ!哲君ごめん」
「すまない葉月。荷物任せっきりにして」
「これ位、全く構わないですよ。って、この事じゃなくて」
よいしょ、と荷物を机に下ろして話を続ける。
「これって、朝のミーティングで言ってたものじゃないですか?」
「あぁ。だろうな」
「一連の『警察官に対する連続公務執行妨害事件』だね。まさか、こんな形で私達が関わるなんて」
「発端になった討伐軍アジトのガサ入れって、他の隊だったよな。何で夢の森にまで飛び火してるんだよ?」
「第一の管轄だから、夢の森から遠いのにね」
「軽犯罪レベルとはいえ、広範囲でやられると大変ですよ」
雛が答えた横で、高井が頷いている。
御影も葉月も同意する中で、勇磨だけが不可解な顔をした。
「オレ、そんな事聞いてない」
「そんなの志原だけよ。今朝、遅刻してきたから知らないんでしょ」
「うっ…。そ、そうか」
御影に睨まれて、勇磨はバツが悪そうに視線を外す。
雛が「後で教えたのに」と悲しい顔をした事にも、彼は気付かない。
「今日だけじゃないでしょ。アンタって、いつも大事な話するって時に限って居ないなじゃない」
「煩いっ!それはオレだけじゃないだろ!?」
「そうかしら?」
「それに、今はそんな事言ってる場合じゃないだろが」
いつもの言い合いが始まりそうになったのも、つかの間。
勇磨のその一言に、一同の視線は高井の腕に再び集中する。
唸りながら、それぞれが手掛かりを探り始めた。
「あれ?この塗料って、ペイント弾に使ってるのと同じですね」
腕に顔を近づけたまま、葉月はかけている眼鏡を押さえてポツリと言った。
視線が彼に集まる。
「えっ?」
「あっ!?」
「おぉっ?」
「良く気付いたな。葉月」
言われてみれば、と自分の腕をまじまじと見る高井。
何となく残っている臭いも、ペンキ系の物と同じだった。
「高井さん。腕にこれが付く前に、変な物音が聞こえませんでした?」
「いや。『乾いた発射音』ってヤツだろう?」
「はい」
「音も痛みも無かった。本当に、全く何も気付かなかったんだ」
御影も、彼と一緒に思い出してみた。
乾いた発射音とは、銃器による発砲音の一種を指している。
それに該当するのは、エアガンやガス銃。
普段銃器を使い慣れている彼女にとって、それは聞き慣れたものの筈。
不意に聞こえれば、高井だって即座に対応するだろう。
「あたし、高井さんと一緒に車降りて隣に居たんだけど。そんな音なんて、全然しなかったわよ?」
「あのさ…」
おずおずと雛が手を上げた。
勇磨と御影が振り返る。
「どした、雛?」
「塗料の付き方、エアガンで撃ったのとは違うよね」
「確かにそうだな。着弾創もない」
「飛んできた弾が当たったなら、こんな風には付きません。もっと、こう…ベチャッとなる筈」
「うんうん」
指摘の通り、まるで何かで線を引いた様。
この塗装の付着は、明らかに不審だ。
「銃みたいな装置を使ったのとは、違いますね。明らかに人為的なモノです」
「そうそう。何か、人の指とか手でべたーって塗った感じがするんだけどな」
「…だとしたら、指紋とか付いてるんじゃないの?」
御影はそう言って高井の腕を見たが、それらしきものは一つも見当たらない。
腕組みをして、首を傾げる。
「見たって判んねーよ。──あ!」
「どうしたの勇磨?」
「こういう時の為に、良い物があるんだった」
勇磨が立ち上がって、バタバタと医務室を出て行く。
御影だけは、何の事か判った。
「あぁ、アレ使うのね。貰っといて良かった」
「アレ?」
「また怪しげなモノ、使うんじゃないだろうな」
「大丈夫よ、多分。『念の為に』って皆ビニール手袋装備してて、正解だったわ」
「まだ、腕の現状維持してて!洗ったら駄目ッスよ」
最後に顔だけ出してそう付け加えると、勇磨は行ってしまった。
数分後、勇磨は開発室から鑑識用のコンテナボックスを持ってきた。
中から取り出した箱には、何かの小瓶と刷毛のセットが入っている。
「何持ってきたの?」
雛が興味深々で尋ねた。
それに対し、「よくぞ聞いてくれた」と云わんばかりに勇磨が胸を張って答える。
「これは『デベロッパー』っていう、人間の皮膚から指紋を取れる薬なんだ」
「そんな名前だっけ?その薬品」
「お前が貰ったんだろが」
勇磨が呆れると、御影は笑って誤魔化す。
在庫が余っている面白そうな物をゴッソリ貰ってきただけで、まだ中身を把握していなかった。
「あはは…。何だか面白そうね、志原」
「高井さんはくすぐったいと思うぞ」
「よくそんな物、仕入れましたね。これを使うのは僕に任せて下さい」
「葉月さんは、鑑識の経験があったッスね。餅は餅屋だ」
小瓶を葉月に差し出す勇磨。
頷いて受け取ると、手際良く準備を始める葉月。
テーブルに置かれた箱からマスクを取り出し、上着を脱いで装備を整えた。
手伝う勇磨も、それに倣う。
「これより始めます。お二人は離れて見ててくださいね」
「はーい」
「了解です」
「高井さん、宜しいですか?」
「え?あ、あぁ」
塗料の付いた周りを、刷毛で丁寧に塗っていく。
この二人以外は、その作業をじっと見つめていた。
「大丈夫ですか?高井さん」
「平気だ。続けてくれ」
「うわぁ…二人共、本物の鑑識さんみたいだよ!」
「もう少し、範囲を広く塗ってみた方が良いですよ。こんな感じで」
「そっか。…これでどうかな?」
葉月のレクチャーを受けながら、勇磨は手を動かす。
真剣に犯人を見つける手掛かりを探す筈が、すっかり楽しい実験タイムと化した。
「なぁ。どうしてそんな物が、此処にあるんだ?」
高井が怪訝そうに聞くが、その質問は最もである。
特警隊は任務上、一般的な警察職じゃ触る機会もない物を、限度はあるものの自由に扱う事が許されている。
が、今回の代物は一体何に使うつもりだったのか。
「これね。こないだ隊長にくっついて本庁に行った時に、貰ったのよ」
「そんな風に、簡単に貰える物じゃないよね!?」
「専門職用品だもん。それ以外の需要自体って、思いつかないのも当然よ」
「…そうじゃなくて。『隣の家でお裾分けしてくれた、ご飯のおかず』みたいな言い方をするな」
御影は、まるで『バーゲンでお得な掘り出し物を見付けた主婦』の如くお気楽な声音。
高井は肩を落とした。
「志原の知り合いが機捜に居てね。ちょっととおねだりして来たのよ」
「こいつ、テレビショッピングに出てくる女の人みたいな交渉の仕方してて。何か沢山貰ってきたッス」
「あの時はミニパトじゃなくて指揮車で行ったから。『いっぱい詰めるじゃない?』って思ってぇ」
「ディスカウントストアの買い出しかよ」
「…隊長、呆れてただろうなぁ」
「色んな意味でスゴイな。お前ら」
「こういうのも欲しいなら、科警研に頼めば良いですよ。簡単に一式、揃えてもらえるんじゃないかな」
「哲君。それ、かなり魅力!」
「僕が居た所なら、話付き易いと思いますよ。協定があるので」
「すごい特例だよね」
「そうだな。隊が設立したっていっても、まだ試験的運用なのに」
「確かに、オレ達って普通じゃないッスね。…よし」
先刻とは違い、いつもの和やかムードになってきた医務室。
薬品を塗り終わって、勇磨が立ち上がる。
「暫くしたら、指紋があれば浮かび上がってくるッス。誰も触らないように」
「僕、検索の準備しますね」
葉月も立ち上がる。
しかし、高井がもう片方の手でそれを制した。
「──ちょっと待て」
「どしたの、高井さん?」
「買い出した物、早く冷凍庫に仕舞ってくれ!」
「…忘れてた」
その中には、御影がオヤツにと買ったアイスクリームが入っていた。
「溶けてるわね。きっと」
「えっ⁉」
問題の指紋は、綺麗に浮かび上がった。
証拠の写真も残したし、被害届の書類も作成した。
作業は順調だ。
医務室ではなく、隊員室へ戻ればよいものを…
彼らはそこまで考えが至らないというか、事件の分析と解決に頭をフル回転し過ぎている状態。
現場で使う後方支援用のノートPCまで持ち出して、葉月の手によって解析と割り出しが行われていた。
隊員のパーソナルデータから高井と御影の指紋まで呼び出して、丁重に比較させる。
犯人には前科があって、検索もあっと言う間にヒットした。
「前科二犯だな、コイツ」
勇磨がノートPCの画面を睨んで言った。
雛も溜息を吐く。
洗い終えた腕をタオルで拭きながら、高井も覗き込んだ。
「過去にも、同じような事件起こしてるんだね。二件も」
「コイツ知ってる。職質でも『警察にケンカ売ってる』って豪語する奴で、有名なんだ」
「高井さんって、いつも捜査情報詳しいですよね」
「八王子署に居た頃の経験…って言いたいところだが。生安だし、ちょっと畑が違うんだよな」
「生活安全課かぁ。優しい高井さんには刑事課より似合ってそうだね」
事件が発生すると、野原は高井を捜査班へ情報収集に出す。
副隊長としてだけでなく、捜査の経験がある事を鑑みての結果だ。
長が欲しい情報をちゃんと引き出してくれるのは、流石といったところか。
本来は葉月も同行させたいらしいが、システム操作に長けたのが他に居ない所為でいつも一人だ。
御影はいつもそれが誇らしいのだが、恋人だと公言していないのでおとなしくしている。
今回はそれも災いしてか、余計にモヤモヤしているようだ。
「犯人、何だか憎たらしい顔だね」
「全く、腹立つヤツだわ。毎日命懸けの警察官を何だと思ってるのかしら!?」
「御影さんの言う通りですよ。…あれ?」
御影が憤る傍らで、キーボードを操作している葉月の手が止まる。
「この対象、現住所が夢の森になってますよ」
「ん?」
「作業員なのか。第二夢の森の開発工事で来たみたいだな」
「そのまま、真っ当に仕事していれば良かったのに」
四人が一斉に画面を凝視する。
マップを呼び出し、該当する住所を入力して検索を試みた。
現れたアイコンの位置は、署から然程離れていない。
第五隊の警邏(パトロール)コースにも面していたので、どんな場所かは全員すぐに思い出せた。
真っ先に焦れて騒ぎ出したのは、やはり御影。
「早速、逮捕しに行こうっ!」
「御影落ち着いて。準備もしてないし、その前に隊長へ連絡入れないと」
「そうだ。俺達が動くなら、本部にも発報しなくちゃいけない」
「──おう。隊長なら、ここに居る」
一堂がギョッとして振り返った、その先。
野原がいつの間にか、開け放たれたままの入口にもたれ掛かっていた。
「隊長⁉」
「いつこちらに!?」
「先刻」
高井と勇磨が焦って立ち上がる。
「どうして、ココに居るって分かったんですか?」
「仮眠取ってたけど腹減ったから、オフィス戻ったら誰も居なかった。んで廊下に出たら、何やら一階の医務室辺りが騒がしいと」
「食堂はもう閉まってるから、エントランスは誰も行かないもんね」
「ここも滅多に人が来ないですから。これだけ人が居れば判っちゃいますね」
「だよね。来るって言ったら、メディカルチェックとかで通う私達くらいだもん」
葉月と雛が、野原に理解を示す。
「だろ。んで、何やってたんだ?」
「えっと…」
「事件発生です!」
「事件?買出しには行けたのか?」
「は、はい。それが…」
「もう犯人も判ってるんです!」
「順を追って、ちゃんと説明しろ。俺は分からないって」
どれどれ、と野原がパソコンを覗き込もうとした時であった。
「隊長、これは事件です!出動しましょうっ!!」
「事件事件って。画面の情報だけじゃ分からないし、判断も出来ない」
「ですから、犯人はもう判ってるんですってば!」
そんな事はおかまいなしで、御影はやる気満々。
「だから。何が起こったのか、俺達がちゃんと説明しないと」
「そうだよ御影。高井さんが被害に遭ったんだし」
「むぅ…」
御影はもどかしいが、仕方ない。
高井と共に、事の顛末を話し始める。
いつもよりも大げさな身振り手振りで説明するが、野原は座って真剣に聞いてくれた。
葉月と勇磨の補足も、気合が入っている。
雛も、野原の後ろでシッカリ聞ききながら頭の中を整理している。
一通りの事情説明が終わり、長が状況を把握したのは数分を要した。
「成程。残念だが夜食は後回し、だな」
「ね、隊長!出動ですよ!!」
「…そうだな。腹減ってるんだが、仕方ない」
やたっ、と嬉しそうに反応する者が一名。
残りは苦笑か、冷たい視線を向けるだけである。
「各自防護と対逃走を考慮して装備の上、車庫へ集合」
「了解!」
「俺は本部と課長に連絡を取って、捜査員の派遣と逮捕状とか手配する。被害証拠の写真と書類データ、貰おうか」
「はい」
野原は念の為にと、デスクから隊長専用の携帯端末を持ってきていた。
怪しい騒ぎ方に「武器の方が良かったか」とも思ったのだが、正解だったようだ。
その場で葉月から情報を転送してもらう。
「転送完了です。まだテンプレートに整理してない段階なので、写真情報が散らかってるんですが…」
「緊急事態なんだ、仕方ないさ。これだけ鮮明で詳細もバッチリなら、本部も理解してくれるだろう」
「申し訳ありません隊長。買い出しだけだったので、まさかこんな事になるとは…」
「高井が謝る事じゃない、お前さんは被害者だ。…相棒が若干騒がしいが、出動すればおとなしくなるだろう」
自分が巻き込まれて不安であるにも関わらず、高井は頭を下げた。
「気にするな」と、優しい口調で宥める野原。
微笑みの一つでも添えられたら良いのだがそれが出来ないので、不器用ながらも声音で気遣う事にした。
「捜査本部にも送るから、帰ってきたらすぐ報告書作成な。以上、解散」
そう言って第五隊長は廊下に出ようとしたが、何かを思い出したように止まる。
もう少しだけ、指示を付け加えた。
「処置台と棚、ちゃんと片付けてから来るように」
「…あっ」
「地震が起きた後みたいじゃないか。警察医に出禁喰らうぞ?」
全員がビシッと起立すると、野原は頷いて医務室を出て行く。
雛達は鮮やかな協力プレイで片付けると、準備の為に散らばっていった。
晩飯を皆で取ったのは、既に五時間も前の話だ。
未だ慣れぬ宿直勤務、雛は必死で眠るまいと頑張っていた。
「眠いよぉ」
「ちゃんと起きてろよ。もうすぐ、第二班の連中が買出しから戻ってくる頃…ふぁぁ」
雛の欠伸が伝染ったのか、勇磨が話の途中で大きく一つ。
「にしては、遅くない?」
「夢の森で二十四時間営業のコンビニって言ったら、まだ少ないみたいだからな」
「うーん…」
「近くに出来るみたいだけど、建設工事始まったばかりって聞いたし」
「そうだったね」
元々、夢の森は人工林がメインの埋立地なのだ。
住宅区画がまだ少ないのに、商店街があるだけでも珍しい。
買出し役がコンビニ探しの段階で苦労しているであろう、なんて事は容易に想像出来た。
留守番組の二人が、「もう少しかかりそうだ」と顔を見合わせたその直後。
オフィスのドアを蹴破らん程の勢いで御影が入ってくるなり、開口一番──
「た、高井さんが大変なのよ!誰か、救急箱っ!!」
高井の怪我は、本当に大した事は無かった。
ただ…
余りにも御影がオーバーだった所為で、医務室は引っ掻き回したように騒然としている。
警察医が帰った後なので、薬や薬品類の保管棚は施錠されていて使えなかった。
簡易な物は目の前に出してあるが、全てひっくり返っている。
焦った彼らが触った証拠だ。
「大袈裟なんだよ。蔵間は」
高井は「心配は有難いが」と、落ち着かない相棒を宥める。
外傷は無いのだが、袖をまくっている腕には赤黒い塗料がベッタリと付着していた。
どうやら、御影はこれを血と見間違って大騒ぎしたらしい。
「高井さんの言う通りだぜ」
「だってぇ…。赤いのベッタリ付いてるの見て、血だと思ったんだもん」
「確かに、それっぽい色だよね。暗がりで見たら、私も間違うかも」
「……本人が痛がってもいないのに、か?」
高井が自らそう言うものだから、三人は顔を見合わせて苦笑する。
それだけの余裕が、やっと訪れた。
「とにかく、怪我が無くて良かったッス」
「そうだね。高井さん大丈夫なんだから、御影も落ち着きなよ」
「でもさぁ…」
親友に肩を優しく掴まれて、不満はあれど落ち着く御影。
高井に言われて、隊員室から持ってきたタブレット端末を使い『発生事案の証拠』と腕を撮影する勇磨。
そこへ、高井を囲んだ一同の後ろから声が発せられた。
「──それにしても、これはヒドイですよね」
皆が驚いて振り向くと、大量の買い物袋を抱えている葉月が立っていた。
荷物に隠れて、顔が見えていない。
「あ!哲君ごめん」
「すまない葉月。荷物任せっきりにして」
「これ位、全く構わないですよ。って、この事じゃなくて」
よいしょ、と荷物を机に下ろして話を続ける。
「これって、朝のミーティングで言ってたものじゃないですか?」
「あぁ。だろうな」
「一連の『警察官に対する連続公務執行妨害事件』だね。まさか、こんな形で私達が関わるなんて」
「発端になった討伐軍アジトのガサ入れって、他の隊だったよな。何で夢の森にまで飛び火してるんだよ?」
「第一の管轄だから、夢の森から遠いのにね」
「軽犯罪レベルとはいえ、広範囲でやられると大変ですよ」
雛が答えた横で、高井が頷いている。
御影も葉月も同意する中で、勇磨だけが不可解な顔をした。
「オレ、そんな事聞いてない」
「そんなの志原だけよ。今朝、遅刻してきたから知らないんでしょ」
「うっ…。そ、そうか」
御影に睨まれて、勇磨はバツが悪そうに視線を外す。
雛が「後で教えたのに」と悲しい顔をした事にも、彼は気付かない。
「今日だけじゃないでしょ。アンタって、いつも大事な話するって時に限って居ないなじゃない」
「煩いっ!それはオレだけじゃないだろ!?」
「そうかしら?」
「それに、今はそんな事言ってる場合じゃないだろが」
いつもの言い合いが始まりそうになったのも、つかの間。
勇磨のその一言に、一同の視線は高井の腕に再び集中する。
唸りながら、それぞれが手掛かりを探り始めた。
「あれ?この塗料って、ペイント弾に使ってるのと同じですね」
腕に顔を近づけたまま、葉月はかけている眼鏡を押さえてポツリと言った。
視線が彼に集まる。
「えっ?」
「あっ!?」
「おぉっ?」
「良く気付いたな。葉月」
言われてみれば、と自分の腕をまじまじと見る高井。
何となく残っている臭いも、ペンキ系の物と同じだった。
「高井さん。腕にこれが付く前に、変な物音が聞こえませんでした?」
「いや。『乾いた発射音』ってヤツだろう?」
「はい」
「音も痛みも無かった。本当に、全く何も気付かなかったんだ」
御影も、彼と一緒に思い出してみた。
乾いた発射音とは、銃器による発砲音の一種を指している。
それに該当するのは、エアガンやガス銃。
普段銃器を使い慣れている彼女にとって、それは聞き慣れたものの筈。
不意に聞こえれば、高井だって即座に対応するだろう。
「あたし、高井さんと一緒に車降りて隣に居たんだけど。そんな音なんて、全然しなかったわよ?」
「あのさ…」
おずおずと雛が手を上げた。
勇磨と御影が振り返る。
「どした、雛?」
「塗料の付き方、エアガンで撃ったのとは違うよね」
「確かにそうだな。着弾創もない」
「飛んできた弾が当たったなら、こんな風には付きません。もっと、こう…ベチャッとなる筈」
「うんうん」
指摘の通り、まるで何かで線を引いた様。
この塗装の付着は、明らかに不審だ。
「銃みたいな装置を使ったのとは、違いますね。明らかに人為的なモノです」
「そうそう。何か、人の指とか手でべたーって塗った感じがするんだけどな」
「…だとしたら、指紋とか付いてるんじゃないの?」
御影はそう言って高井の腕を見たが、それらしきものは一つも見当たらない。
腕組みをして、首を傾げる。
「見たって判んねーよ。──あ!」
「どうしたの勇磨?」
「こういう時の為に、良い物があるんだった」
勇磨が立ち上がって、バタバタと医務室を出て行く。
御影だけは、何の事か判った。
「あぁ、アレ使うのね。貰っといて良かった」
「アレ?」
「また怪しげなモノ、使うんじゃないだろうな」
「大丈夫よ、多分。『念の為に』って皆ビニール手袋装備してて、正解だったわ」
「まだ、腕の現状維持してて!洗ったら駄目ッスよ」
最後に顔だけ出してそう付け加えると、勇磨は行ってしまった。
数分後、勇磨は開発室から鑑識用のコンテナボックスを持ってきた。
中から取り出した箱には、何かの小瓶と刷毛のセットが入っている。
「何持ってきたの?」
雛が興味深々で尋ねた。
それに対し、「よくぞ聞いてくれた」と云わんばかりに勇磨が胸を張って答える。
「これは『デベロッパー』っていう、人間の皮膚から指紋を取れる薬なんだ」
「そんな名前だっけ?その薬品」
「お前が貰ったんだろが」
勇磨が呆れると、御影は笑って誤魔化す。
在庫が余っている面白そうな物をゴッソリ貰ってきただけで、まだ中身を把握していなかった。
「あはは…。何だか面白そうね、志原」
「高井さんはくすぐったいと思うぞ」
「よくそんな物、仕入れましたね。これを使うのは僕に任せて下さい」
「葉月さんは、鑑識の経験があったッスね。餅は餅屋だ」
小瓶を葉月に差し出す勇磨。
頷いて受け取ると、手際良く準備を始める葉月。
テーブルに置かれた箱からマスクを取り出し、上着を脱いで装備を整えた。
手伝う勇磨も、それに倣う。
「これより始めます。お二人は離れて見ててくださいね」
「はーい」
「了解です」
「高井さん、宜しいですか?」
「え?あ、あぁ」
塗料の付いた周りを、刷毛で丁寧に塗っていく。
この二人以外は、その作業をじっと見つめていた。
「大丈夫ですか?高井さん」
「平気だ。続けてくれ」
「うわぁ…二人共、本物の鑑識さんみたいだよ!」
「もう少し、範囲を広く塗ってみた方が良いですよ。こんな感じで」
「そっか。…これでどうかな?」
葉月のレクチャーを受けながら、勇磨は手を動かす。
真剣に犯人を見つける手掛かりを探す筈が、すっかり楽しい実験タイムと化した。
「なぁ。どうしてそんな物が、此処にあるんだ?」
高井が怪訝そうに聞くが、その質問は最もである。
特警隊は任務上、一般的な警察職じゃ触る機会もない物を、限度はあるものの自由に扱う事が許されている。
が、今回の代物は一体何に使うつもりだったのか。
「これね。こないだ隊長にくっついて本庁に行った時に、貰ったのよ」
「そんな風に、簡単に貰える物じゃないよね!?」
「専門職用品だもん。それ以外の需要自体って、思いつかないのも当然よ」
「…そうじゃなくて。『隣の家でお裾分けしてくれた、ご飯のおかず』みたいな言い方をするな」
御影は、まるで『バーゲンでお得な掘り出し物を見付けた主婦』の如くお気楽な声音。
高井は肩を落とした。
「志原の知り合いが機捜に居てね。ちょっととおねだりして来たのよ」
「こいつ、テレビショッピングに出てくる女の人みたいな交渉の仕方してて。何か沢山貰ってきたッス」
「あの時はミニパトじゃなくて指揮車で行ったから。『いっぱい詰めるじゃない?』って思ってぇ」
「ディスカウントストアの買い出しかよ」
「…隊長、呆れてただろうなぁ」
「色んな意味でスゴイな。お前ら」
「こういうのも欲しいなら、科警研に頼めば良いですよ。簡単に一式、揃えてもらえるんじゃないかな」
「哲君。それ、かなり魅力!」
「僕が居た所なら、話付き易いと思いますよ。協定があるので」
「すごい特例だよね」
「そうだな。隊が設立したっていっても、まだ試験的運用なのに」
「確かに、オレ達って普通じゃないッスね。…よし」
先刻とは違い、いつもの和やかムードになってきた医務室。
薬品を塗り終わって、勇磨が立ち上がる。
「暫くしたら、指紋があれば浮かび上がってくるッス。誰も触らないように」
「僕、検索の準備しますね」
葉月も立ち上がる。
しかし、高井がもう片方の手でそれを制した。
「──ちょっと待て」
「どしたの、高井さん?」
「買い出した物、早く冷凍庫に仕舞ってくれ!」
「…忘れてた」
その中には、御影がオヤツにと買ったアイスクリームが入っていた。
「溶けてるわね。きっと」
「えっ⁉」
問題の指紋は、綺麗に浮かび上がった。
証拠の写真も残したし、被害届の書類も作成した。
作業は順調だ。
医務室ではなく、隊員室へ戻ればよいものを…
彼らはそこまで考えが至らないというか、事件の分析と解決に頭をフル回転し過ぎている状態。
現場で使う後方支援用のノートPCまで持ち出して、葉月の手によって解析と割り出しが行われていた。
隊員のパーソナルデータから高井と御影の指紋まで呼び出して、丁重に比較させる。
犯人には前科があって、検索もあっと言う間にヒットした。
「前科二犯だな、コイツ」
勇磨がノートPCの画面を睨んで言った。
雛も溜息を吐く。
洗い終えた腕をタオルで拭きながら、高井も覗き込んだ。
「過去にも、同じような事件起こしてるんだね。二件も」
「コイツ知ってる。職質でも『警察にケンカ売ってる』って豪語する奴で、有名なんだ」
「高井さんって、いつも捜査情報詳しいですよね」
「八王子署に居た頃の経験…って言いたいところだが。生安だし、ちょっと畑が違うんだよな」
「生活安全課かぁ。優しい高井さんには刑事課より似合ってそうだね」
事件が発生すると、野原は高井を捜査班へ情報収集に出す。
副隊長としてだけでなく、捜査の経験がある事を鑑みての結果だ。
長が欲しい情報をちゃんと引き出してくれるのは、流石といったところか。
本来は葉月も同行させたいらしいが、システム操作に長けたのが他に居ない所為でいつも一人だ。
御影はいつもそれが誇らしいのだが、恋人だと公言していないのでおとなしくしている。
今回はそれも災いしてか、余計にモヤモヤしているようだ。
「犯人、何だか憎たらしい顔だね」
「全く、腹立つヤツだわ。毎日命懸けの警察官を何だと思ってるのかしら!?」
「御影さんの言う通りですよ。…あれ?」
御影が憤る傍らで、キーボードを操作している葉月の手が止まる。
「この対象、現住所が夢の森になってますよ」
「ん?」
「作業員なのか。第二夢の森の開発工事で来たみたいだな」
「そのまま、真っ当に仕事していれば良かったのに」
四人が一斉に画面を凝視する。
マップを呼び出し、該当する住所を入力して検索を試みた。
現れたアイコンの位置は、署から然程離れていない。
第五隊の警邏(パトロール)コースにも面していたので、どんな場所かは全員すぐに思い出せた。
真っ先に焦れて騒ぎ出したのは、やはり御影。
「早速、逮捕しに行こうっ!」
「御影落ち着いて。準備もしてないし、その前に隊長へ連絡入れないと」
「そうだ。俺達が動くなら、本部にも発報しなくちゃいけない」
「──おう。隊長なら、ここに居る」
一堂がギョッとして振り返った、その先。
野原がいつの間にか、開け放たれたままの入口にもたれ掛かっていた。
「隊長⁉」
「いつこちらに!?」
「先刻」
高井と勇磨が焦って立ち上がる。
「どうして、ココに居るって分かったんですか?」
「仮眠取ってたけど腹減ったから、オフィス戻ったら誰も居なかった。んで廊下に出たら、何やら一階の医務室辺りが騒がしいと」
「食堂はもう閉まってるから、エントランスは誰も行かないもんね」
「ここも滅多に人が来ないですから。これだけ人が居れば判っちゃいますね」
「だよね。来るって言ったら、メディカルチェックとかで通う私達くらいだもん」
葉月と雛が、野原に理解を示す。
「だろ。んで、何やってたんだ?」
「えっと…」
「事件発生です!」
「事件?買出しには行けたのか?」
「は、はい。それが…」
「もう犯人も判ってるんです!」
「順を追って、ちゃんと説明しろ。俺は分からないって」
どれどれ、と野原がパソコンを覗き込もうとした時であった。
「隊長、これは事件です!出動しましょうっ!!」
「事件事件って。画面の情報だけじゃ分からないし、判断も出来ない」
「ですから、犯人はもう判ってるんですってば!」
そんな事はおかまいなしで、御影はやる気満々。
「だから。何が起こったのか、俺達がちゃんと説明しないと」
「そうだよ御影。高井さんが被害に遭ったんだし」
「むぅ…」
御影はもどかしいが、仕方ない。
高井と共に、事の顛末を話し始める。
いつもよりも大げさな身振り手振りで説明するが、野原は座って真剣に聞いてくれた。
葉月と勇磨の補足も、気合が入っている。
雛も、野原の後ろでシッカリ聞ききながら頭の中を整理している。
一通りの事情説明が終わり、長が状況を把握したのは数分を要した。
「成程。残念だが夜食は後回し、だな」
「ね、隊長!出動ですよ!!」
「…そうだな。腹減ってるんだが、仕方ない」
やたっ、と嬉しそうに反応する者が一名。
残りは苦笑か、冷たい視線を向けるだけである。
「各自防護と対逃走を考慮して装備の上、車庫へ集合」
「了解!」
「俺は本部と課長に連絡を取って、捜査員の派遣と逮捕状とか手配する。被害証拠の写真と書類データ、貰おうか」
「はい」
野原は念の為にと、デスクから隊長専用の携帯端末を持ってきていた。
怪しい騒ぎ方に「武器の方が良かったか」とも思ったのだが、正解だったようだ。
その場で葉月から情報を転送してもらう。
「転送完了です。まだテンプレートに整理してない段階なので、写真情報が散らかってるんですが…」
「緊急事態なんだ、仕方ないさ。これだけ鮮明で詳細もバッチリなら、本部も理解してくれるだろう」
「申し訳ありません隊長。買い出しだけだったので、まさかこんな事になるとは…」
「高井が謝る事じゃない、お前さんは被害者だ。…相棒が若干騒がしいが、出動すればおとなしくなるだろう」
自分が巻き込まれて不安であるにも関わらず、高井は頭を下げた。
「気にするな」と、優しい口調で宥める野原。
微笑みの一つでも添えられたら良いのだがそれが出来ないので、不器用ながらも声音で気遣う事にした。
「捜査本部にも送るから、帰ってきたらすぐ報告書作成な。以上、解散」
そう言って第五隊長は廊下に出ようとしたが、何かを思い出したように止まる。
もう少しだけ、指示を付け加えた。
「処置台と棚、ちゃんと片付けてから来るように」
「…あっ」
「地震が起きた後みたいじゃないか。警察医に出禁喰らうぞ?」
全員がビシッと起立すると、野原は頷いて医務室を出て行く。
雛達は鮮やかな協力プレイで片付けると、準備の為に散らばっていった。
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