幻影
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美しい人だ。
一本にきちんと結ばれた黒髪がよく似合っている。
額の中央で分けられた長めの前髪は、さらりと頬にかかり、秀麗な顔立ちをほんの僅かだけ隠しているようにも思えるし、逆に引き立てているようにも思える。
外食先で昼食を終えて、程よい満腹感にぼうっとしながらも視線をはずすことなくその姿をしっかりと捉えていた。
この人とは最近昼時に来ればかち合うことに気がついていた。
毎日でないにしても頻繁に訪れるこの飯屋で自分は大体決まった席に座るのだが、その人もいつも大体同じ位置に座っていた。
それも一人で。
存在に気がつかない振りをしていたけれど、何度か見かけるうちにまた来ていると目で追うようになってしまっていた。
美しい人を見すぎてしまうのは悪い癖だ。
誰とは言わないけど、自分の職場兼住まいには様々な系統別の容姿に優れた人――特に異性――は結構いるから見慣れている筈なのだが、それでも特別注目してしまうくらいこの人は美しいのだ。
悪い癖はここまでにしてさっと帰ろう、そう思って懐を探って、あれ?と思った。
探せど探せど財布が無いのだ。
人間観察をしすぎた己に罰が当たったのかもしれない。
そんな迷信じみた納得をし、覚悟を持って会計に向かった。
「ごめんなさいっ、実は財布を忘れてしまって。あの、戻ってすぐ取ってくるので少し待ってていただけますか」
「あら、いいですよ。名無しさんさん、今日じゃなくって」
恥を忍びつつ謝罪をすると、顔見知りの店員は笑顔でそう応対してくれた。
「ええっ、でも悪いです」
「いいんですよ」
「うぅ……本当にすみません。ありがとうございます。
明日、必ず明日また来て払いますから」
すみません、本当すみませんと繰り返し、へこへことお辞儀をし、出来うる限りの謝罪を尽くして店を出ようとしたときだった。
「おい、名無しさん」
ぶっきらぼうに声をかけてきたその人は、ある意味今もっとも逢いたくない相手だった。
少しずれた時間に昼飯を食べに来店した石田三成に出会ってしまったのだ。
「お前、俺の部屋に忘れていたぞ」
「ええっ、本当に!うそ!助かったよ」
三成がぽんと財布を渡してきた。
ある意味、否、物凄く助かった。
「ありがとう、三成」
ついはしゃぐように礼を述べると、何か言いたそうに見える三成の顔に嫌な予感を憶えたが、気持ちを切り替えようと財布を開いた。
「本当にお二人は相性がいいですよね」
店員が更ににこやかな口調になった。
三成と一緒に食べに来ることも何度もあるから、今までをずっと見てきた第三者視点ではそう映るのだろう。
間の抜けた自分と、完璧主義の三成、性格の組み合わせとしては悪くないのかも。
「そうだな。出来の悪いこいつが無銭飲食という愚行を犯すところをタイムリーに阻止できて何よりだ。そういう意味では相性抜群といえるかもな」
しかし三成の口は悪い。
最大限の皮肉を尽くし、にやりと笑う様に反抗できるわけもなく、会計卓のほうを向いて、すみません、すみませんと言いながら支払いをしたのだ。
なんとなくさっきまで座っていた席のほうを眺めてみたが、見惚れた黒髪の美しい人は既に居なくなっていた。
***
「最近は平和だな。犯罪は減少傾向、昨今発生したのは軒並み軽犯罪。
例を挙げれば、野菜泥棒、のぞき、変質者……そして『食い逃げ』、まあそんなところだな」
仕事の書類を取りに三成の部屋を訪れてみれば、また嫌味を食らわされた。
強調するように最後に食い逃げを持ってくるあたり、先ほどからの流れを引きずった三成なりの目一杯の嫌がらせである。
「食い逃げじゃないのに……財布を忘れただけだよ」
「食い逃げする輩は皆、往々にしてそういうしょうもない頭の悪い言い訳をするものだ」
楽しそうに毒舌をかましてくる三成だが、確かな説得感はあるから溜め息をついてしまう。
「食い逃げ未遂で申し訳ございませんでした、じゃあもう行くね」
「おや、普段はいつもだらだらと居座るくせに今日は随分と速やかに出ていくな」
「だって食い逃げ犯ってこれ以上言われたくないもん、それじゃあね」
冗談めかして笑いながら三成の部屋を出た。
ちょうどこちらへと向かってくる幸村と出逢った。
「あ、幸村、おつかれさま」
「お疲れ様です」
万人受けする笑みを絶やさない幸村は今日も変わらず微笑んでいた。
「三成に用事?」
「ええ、そうなんです」
「そっか。じゃあね、おつかれさま」
そんな彼に軽く会釈をして、自室へ向かってまた歩き始めた。
幸村も三成の部屋に入っていったようで、戸を開閉する音が聞こえた。
最近、平日執務時間内に幸村が三成を訪ねることが多い気がする。ふとそんなことを感じていた。
***
次の日の昼、さすがに昨日の飯屋に行くのは少々恥ずかしかったので、別の店に行くことに決めていた。
テイクアウト出来る店に行き、城に戻って食べようと目論んでいたのだ。
しかし、いざ目当ての店に来てみたはいいのだが昼時はとても混んでいた。
行列に並ばないといけないほどなのだ。
ラインナップとしては具材の種類豊富なおにぎり、汁物、それと日替わりで何種か惣菜が置かれているのだが、旨いと評判の店なのだ。
二ヶ所ある会計処それぞれに長い列が出来ていて自分もその片方に並んでいた。
買い物を終えた人を避けるため一歩だけ横にずれたときだった。
「あっ、ごめんなさい」
横の列に並ぶ人物に財布を握った手をとんと当ててしまったのだ。
先に謝りの言葉を発してから、その人物のほうに視線を注いだ。
「いいえ、大丈夫ですよ」
「あっ」
その人の顔を見て驚嘆し、うっかり妙な声をあげてしまった。
なぜならその人は例の飯屋で何度か見ている、あの美しい人だったからだ。
こういう場合、どうすればいいのだろうか。
貴方のことはお店で見ていて存じています、なんて言ったら付き纏いみたいで怪しいから絶対に言うべきではないだろう。
そんなことを考えていると、目の前の人は優しく微笑んでくれた。
「貴女は…… 名無しさん殿、ですよね」
「えっ、どうして、わたしの名前を?」
「すみません、突然御名前を言い当てるなど不躾で怪しいですよね。実は昨日、貴女様がお会計の際にお財布をお忘れになっている遣り取りを見聞きしていたもので」
確かにこそこそ話していたわけではなく、通常のトーンで喋っていたから周囲にまる聞こえていたって当たり前だ。
なんだか、また恥ずかしくなってきた。
「わ、やだ、恥ずかしい。わたし、本当見苦しいところを見せてしまってすみません。
お騒がせしました」
「いいえ」
焦って大袈裟に弁明するこちらの姿を見て、楽しそうに上品な笑みを見せてくれた。
「あ、あのお店には結構行かれるんですか?」
話題を変えるように自分から質問していた。
「そうですね、多いときは、週の半分くらいは行ってますね」
「ああ、そうなんですか。美味しいですもんね、しかもお値段もお手頃で。わたしもよく行くんですけど、昨日の件があるからしばらくは行くの恥ずかしいかなぁ……なんて」
恥ずかしさを隠したくて早口になってしまい、誤魔化すような照れ笑いもしてしまっていた。
「それで今日はこのお店にされたのですね」
「まさにそのとおりです!今日はちゃーんと、財布も持ってきましたので」
つい張り切って発言すると、また彼は優しく微笑んでくれるのだった。
「それでは、わたし失礼しますね」
今日は間違いなく会計をし、注文したおにぎりと豚汁を受け取ってさあ帰ろうと思っていた。
「名無しさん殿、もし宜しければ、明日お店に来てはいかがですか?
私は明日また行くつもりなんです」
「えっ?」
この人の突然の言葉の真意がわからず、語尾に疑問符をつけて返事をした。
「昨日のことがあって、あのお店にお一人では行きづらいかもしれませんが、こんな風に声掛けをすると多少なりとも行きやすい、いいきっかけかなと思いまして」
つまり、簡単にいうとお店に来なよと言ってくれている。
だけど、相席しましょうと誘ってくるものではない。
「すみません、余計なお世話だとは存じますが」
はっきりはしない言い方だが、また会えそうですね、という意味も込められているのかもしれない。
そう受け取ることにした。
「そんな、余計なお世話だなんて思いません。じゃあ明日行こうかな……と思います。
そうさせていただきます」
「ありがとうございます、勝手ながらせっかくのご縁だと感じてしまったものですから」
初めて会った訳ではないが、初めて喋った相手の勧めに安易に乗ってしまった自分は軽薄かもしれない。
もう少し以前の自分なら知らない人とここまで会話は続けない。
けれど、彼から優しい目を向けられながら、謙虚で一歩も二歩も引くような不思議な距離感からなされる提案は何故だか断ることが出来なかった。
食事をご一緒しましょうと正式なお誘いをしてくるわけでもなく、あくまでも提案という形をとるその姿勢は此方から追いかけたくなるような気持ちにすらさせてくるのだ。
「もしまたお逢いできれば嬉しいです、それでは……」
立ち去ろうとする彼がゆっくりと踵を返そうとすると、昨日より少し高い位置で結ばれた長い髪も揺れていた。
「あ、あの……お名前を、貴方のお名前を教えていただけませんか」
そう問うと、彼はなにかを考えるようにゆっくりと俯いた。再び顔をあげると、瞳はほんの一瞬だけ迷うような奥ゆかしい色に変わったが、また優しげな眼差しに戻っていた。
「十兵衛、私の名は十兵衛……そう申します」
品の良い微笑を浮かべる様も、さらりと揺れる黒い髪も、陽の光の下では一層美しく見えた。
【幻影】―To be continued―
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