embrace
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思ったよりも長時間眠っていたようだ。
元々日当たりの良くないこの書庫内が更に暗さを増している。
今、俺の手はというと隣で横たわっている女へと伸びている。
細い背中を包むかのように。
その女は他でもない……名無しさんだ。
女を抱き締めたまま眠りに落ちていた。
そして目覚めた時もそのままで。
今まではこんな事は無かったのだが。
『embrace』
そう、今まではこんな事は決して無かったのだ。俺にとっては女など用が済めば邪魔者以外の何者でもなかったのだから。
そもそも俺は恋だの愛だのという精神で女を抱いてはいない。
では何かと訊かれたならば答は至極簡単だ。
性欲という肉体的欲求を満たすためだ。
其れ以外に何がある。
互いに愛し合っているから躰を重ねる、という考えは特に女に多いようだが違うんだよな。
男にはどうしようもなく溜まる欲求があって、其れを吐き出さなければ生きていけないような造りになっているのだ。
言ってしまえば、実は捌け口なんてのは何でもいい。
溜まった欲を吐き出しさえすれば。
最後に吐精する時のあの虚しさは一緒なのだからどんな女を相手にしようと大差はない。
――俺の持論と今の状況は矛盾しているか……
***
隣の名無しさんが目を覚ましたのか、絡ませている腕に揺れが伝わってきた。
腕を解こうと静かに触れ、ゆっくりと躰を動かしている。
俺がまだ眠っていると思い、起こさないようにしているのだろう。
咄嗟に腕に力を込め、離れようとする名無しさんを止めていた。
驚いた様子の名無しさんだったが、ばつが悪そうに呟いた。
「ごめん……なさい……起こした?」
「まぁ……な」
名無しさんの言葉に普通に返したものの、少々調子が狂う。
何故謝るのか。
先に俺がお前にしたことをまさか忘れた訳ではない筈だ。
それとも、すべて無かったことにしたくてそんな態度を取るのか。
いずれにせよ理解に苦しむ。
「三成、疲れてるんじゃない?」
「多分な。だから眠っていたんだろう」
「自分の部屋に戻ったほうが休めるよ……」
「ああ」
数時間前にあった事には触れることなく、抱き合うような格好のまま言葉を交わした。
それにしても名無しさんの発言は相変わらずだ。
甘いというか、手緩いというか。
程々にしないから付け込まれるのだ。
あくまでもそんな態度を貫くのなら、俺に何をされても文句は言えないぞ……
ゆっくりと上体を起こしていくと、頭に鈍い痛みが走った。
それに中途半端に眠った所為か全身に怠さを感じる。
名無しさんの言う通り、疲労が溜まっているのかもしれない――そう考えながら重たい足取りで扉へと歩み寄っていった。
傍らの名無しさんは黙ったまま乱れた衣服を直しているようだが、特に声もかけず、目配せもせずに書庫を後にした。
***
廊下を進み、自室へと着くと入口の襖を開けた。
広々としたこの部屋は入口の他にもう一つ、寝処と居室とを区切る襖がある。
暗い中、灯りを点けることなくもう一度襖を開けた。
寝床に着くとすぐに横になった。
書庫の固い床とは異なる感触に安堵するように深く息を吐いた。
今の調子ならこのまま眠れる気がした。
今日やるべき業務は終えているのだし、睡眠欲に従い眠るのもたまには悪くないだろう。
目を瞑ると、先程の書庫の中での事が思い出された。
書庫の中で房事を終えた後の自分を。
勘違いされても面倒だから行為はあっても共寝をすることはなかった。
だが、名無しさんとはそうではなくて――
目を瞑ったまま思惑に耽っていると、入口の襖を叩く音がした。
出て行くのも、返事をするのも面倒で黙っていた。
「三成」
呼び掛けて来た声の主は名無しさんだった。
意外な来訪に思わず体を起こした。
「勝手に入ってくれて構わん」
そう言うと、入口の襖をそっと開け閉めして此方へと近づく摺り足が聞こえてきた。
寝処の灯りを点け、待っていたが、なかなか入って来ようとしない名無しさんにもう一度言った。
「構わないと言っただろう。入れ」
名無しさんはゆっくりと開いていく襖から控えめに顔を覗かせた。
「ごめんなさい……また起こしちゃった」
「お前は人の邪魔をするのが好きなのか」
「ごめん」
「……、ところで何か用があって来たのか」
「あ、あの……これ……」
名無しさんの両腕に抱いていたのは陣羽織だった。
先程、俺が脱ぎ捨てたものだ。
「その辺に置いておいてくれ」
顎で指して促すと名無しさんは緊張した面持ちで中へ入って来た。
適当な場所を探そうと部屋を見回していたが、寝床のすぐ横まで来て膝をついた。
名無しさんは此方に背中を向けて、其れを丁寧に畳み直し始めた。
寝床の上で姿勢を崩し、黙って名無しさんの背中を眺めていたが、ふと思い立ち口を開いた。
「居心地が悪そうだな」
この一言に後ろ姿の名無しさんがぴくりと反応した。
背を向けたまま絞り出すような声で言った。
「……三成は何があっても冷静な顔してるのに……」
名無しさんは先程の行為に絡む何かを言おうとしている。
加えて、感じられるのはこれまでには無かった空気を俺との間に作り出している事。
「あたしは、三成にとっては多くの内のたった一人に過ぎないよね」
か細い声色は名無しさんの後ろ姿をより危うく、小さく見せた。
「そういう事も割り切れるって、ほんの少し前までは思えてたのに、いざ三成を前にしたら……無理だった……」
俺は反射的に手を伸ばしていた。
名無しさんの両肩へ触れ、振り向かせた。
一瞬だけ合った視線は直ぐに逸らされた。
「で、どうしたい?と言いたくなるな。
もっと明解な主張をしたらどうだ」
ついさっき自らを陵辱した男と再び顔を合わせるだけでも遣りづらい――そんな名無しさんの心境など容易く察せられる。
それにも関わらず、冷たく嗤いながら意地悪い言葉を投げてやった。
名無しさんの肩に置いていた手をそのまま下げ、左胸へと伝わせると微かな体の震えと激しい心臓の打ちつけを感じ取れた。
――前にも似たような事があって、お前は逃れようとしたな。
その点、今回はお前の方から出向いて来たのは殊勝な行いだと評価してやる――
「あたし……」
名無しさんが一層言い辛そうにしながらも口を開いた。
「……あの場に置いていかれたみたいで……寂しかった」
煽ったのは俺だというのに予期していたのとはまるで違っていた。
きっと俺は普段では考えられない種の表情をしただろう。
一瞬とはいえ、内心の動揺が顔に出た。
未だ俯いている名無しさんに見られていなかったのは幸いか。
「……いい」
「え…?」
「此処に居ればいい、と言った。
先程お前が感じたのと同じ感覚を俺にも体感させたいのなら出て行くのは止めないが」
「み、三成……それはどういう……?」
「そのままの意味だ」
名無しさんは戸惑いを隠せない表情ではあるが、部屋に入ってきてからやっと初めてその瞳に俺を映している。
「来い」
「あっ」
体を寄せ、もう一人分の余裕を作り、触れていたほうの手で名無しさんを誘った。
先と同じように抱き寄せて横になると、名無しさんはなんとも恥ずかしそうな様子だ。
俺はというと、少しも動じない風で名無しさんを腕に収め、再び目を瞑ってみせた。
名無しさんはこれまで俺の中では有り得なかった感情を喚び起こした。
名無しさんを隣にして眠ることに安らぎを感じること。
寂しいと言った名無しさんを愛い奴だと思うこと。
これ以上名無しさんへと踏み込めば、戻れなくなるであろうと何処か頭の隅では解っている。
だが、名無しさんが備えている危うさや不安定さが俺には愉しくて、新鮮で、魅力的……なのだ。
『embrace』
‐End‐