もう家のない子のためのピアノ
「死にそうな子どもを見たことがあるかい?」
ボロい宿屋のロビーできついウォッカをラッパ飲みしながら、泥酔した女はそう言った。擦り切れたビロードの椅子と半分しか明かりのつかない薄暗いシャンデリア。古ぼけた木目のアップライトピアノ。埃くさいロビーには、スカーとその女と宿屋の主人の熊親爺と、擦り切れそうな布地で辛うじて覆われているソファで毛布にくるまって眠る幼い少女の四人しかいない。
賞金稼ぎという名のごろつきが集まるこの違法居住区に久しぶりに顔を出したと思ったら、女は子連れだった。
あんたの子どもか、と尋ねたスカーに、女は「違う」と答えた。弟子にするために戦災孤児を引き取ったのだと。
そんな慈善事業をするような奴だったかと茶化したスカーに、女――エステルは冒頭の答えを返したのだ。
「……あるさ。ここに来てからはほとんど見てねえけどな」
なんせ、ここにはそもそも子どもがほとんどいない。
「ま、そうだろうね。よくある話だ」
答える横顔に、スカーはエステルと初めて出会ったときのことを思い出していた。
こんな掃きだめのような場所で、コンサートと称してギターを弾き始めた奇妙な女。戦いに明け暮れる、表の世界で生きていけないクソッタレどもの集まるこの場所で、音楽など。この世界をなめているとしか思えなかった。だからスカーは言ったのだ。
あんたがこんな所で音楽を奏でたところで何になるってんだ。音楽が腹の足しになるか? と。
「飢えてる子どもに音楽を聴かせても仕方がないとは今でも思っているよ」
その時と同じような言葉を、軽く肩をすくめながら女は口にする。反抗期の子どもをなだめるような、妙に癇に障る笑みを浮かべて。
「で、音楽を聴かせる代わりに飯を食わせてやろうって思ったのか」
自分で言っておきながら、スカーはあり得ない仮定に眉をひそめた。女がそんな殊勝な考え方をする人間ではないことくらい、スカーはとうに知っている。
なんせ初めて出会ったとき女がさっきの言葉に続けて言ったのは「でも人間というものは、飢えや怪我のために自分の身体が冷たい物体に変わっていくその瞬間に歌を口ずさんだりもするものなんだ。今この世界で音楽を奏でるということは、そういうことだ」だ。
「ま、別にあの子は死にかけていたわけじゃないさ。ちゃんとした施設だったしね。私が引き取らなければ……そのあとどうなってたかはわかったもんじゃないけど」
女はふっと表情を消して、コップの底に半分ほど残ったウォッカと氷を見つめる。
「正直、自分でもよくわからないんだよ」
いつも何が楽しいのか知らないがにやにや笑っている印象しかない女の見慣れない表情に、スカーはなんだか据わりの悪い気分になった。
「……あんたは見たことあるのか。死にそうな子どもを」
自分でも訝しげな表情を浮かべていると自覚しながら、スカーは訊ねる。自分のような法律上は存在すらしない最底辺の人間と違って、目の前の女は地位も名誉もそれなりにある人間だ。彼女がどんな人生を歩んできたのか、実のところスカーは全く知らないのだが、なんとなくそういう世界とは縁がないのかと思っていた。
なのに女は何かを懐かしむように、似合いもしない儚げな笑みを浮かべる。
「あるよ。天魔の襲撃を受けた居住区でね。怪我をした弟を連れてシェルターの中に隠れてたんだ。助けが来るまで三日くらい、弟と二人で隠れていた。天魔は入ってこられないが、怪我の手当もできなくてね。寒い寒いと言いながら冷たくなっていく弟に、私は何もしてやれなかった」
女の手の中でブリキのコップと氷がぶつかって鈍い音を立てる。冷たい氷の向こうに女が何を見ているのか、スカーには知る由もない。
「できたのはたった一つだけ。最後にあいつがねだったから、好きだった歌をうたってやった。ただそれだけだった」
女はふっと息を吐いてウォッカをあおり、手の甲で唇を拭いながら人の悪い笑みを浮かべた。
「私が今この世界で音楽を奏でるというのは、そういうことだ。二十年以上前の話さ。あの子は私に音楽をくれたが、私はあの子を救えなかった」
不敵な笑みとは裏腹に、その時のエステルはひどく弱々しく見えた。
「子どもを引き取ったのはその罪滅ぼしか」
こんなことを訊ねるような間柄ではない。わかっていながら、疑問を口にした。酒の勢いだったのかもしれない。
「どうなんだろうね」
溶けていく氷を見つめながら、エステルは不敵な笑みを消して、代わりにまた淡い微笑みを浮かべる。
「孤児院でピアノを弾いたのは、ただのボランティアだった。誰かを引き取ろうなんて思ってなかったよ。だけどあの子ね、ピアノを弾きたがったんだよ。私の真似をしてさ。私の音楽なんてそのときの気分と官能に身を任せているだけなのに、聴いてると青空が見えるみたいだなんて言って。最初はめちゃくちゃだったけど、だんだん音楽になっていくんだ」
普段エステルが人と話すときは、どこか斜に構えたような表情を崩さない。でも今は、ピアノを弾いているときのように楽しそうに笑っている。きっと、エステルが引き取った子どもが弾いた音楽が、それだけ彼女の心に響いたのだろう。
「この子が奏でる音楽を聴いてみたいと思った。そのためにはこの子には安全に暮らせる未来が必要で……魔力のないこの子がこの世界で生きていくための何かを、安全な場所で暮らしていくための何かを、私が渡せるかもしれないと思った。そしたら何だかたまらなくなってしまってさ」
ちょうどその孤児院は閉鎖が決まっていて、残る子どもたちの行き先はあまり希望の持てる状況ではなかったことも、エステルの背中を押したらしい。
「それはいいけどよ、ちゃんと育てられんのか?」
子育てどころか自己管理すらきちんとできるかどうかあやしい女に、スカーは疑い深く目を細めた。
「育てなきゃって思っているよ。豊かな人生を送って欲しいからね」
「豊かな人生、ねえ……夢みてえだな」
スカーにはまるで縁のない単語だった。不毛の土地で天魔を狩り、違法な存在を許容する誰かからその報酬を受け取る。怪我をすれば収入は途絶え、まともな治療も受けられずに運を天に任せるしかなく、それで死んだとしても悲しむ者もいない。ただ自分の命を長らえさせることだけを考えて生きる賞金稼ぎには、女の紡ぐ音楽も豊かな人生とやらも夢物語にしか思えない。
「人生は夢現。同じ夢を見るんなら、楽しい夢を奏でる方が良いじゃないか」
エステルは歌うようにそう言って立ち上がり、アップライトピアノに歩み寄った。
「私が思う豊かな人生ってのは、どんな局面でも希望を失わずに笑えるってことさ。でもあの子、才能ありそうじゃないかい?」
慣れた手つきでピアノの蓋を開き、前に腰掛けながらエステルは笑う。
「どの辺が」
「だってほら、あんたみたいな強面にもあっさり懐いてたし」
エステルはそう言うと、手遊びのように軽い調子でメロディを奏で始めた。スカーも知っているくらいよく知られた子守唄だ。
「このまま育ってくれるといいね」
スカーはエステルを横目で睨み付け、ち、と一つ舌打ちした。
「母親みたいなツラしやがって」
「おや、嫉妬かい?」
「んなわけあるか。脳みそ洗濯してこい」
穏やかなピアノのメロディに、女の笑い声が重なる。不満げな表情で頬杖をつきながら、スカーはぼんやりと考える。
糸の切れた風船のようだった女が、母親みたいな顔をして笑っている。そう思える自分が不思議だ。自分の母親の顔なんて覚えていないし、覚えていたとしてもそれは貧しさと暴力と知らない男の影で真っ黒に塗りつぶされている。
自分のようなろくでもない男と関係を持つところからして、この女もその顔も覚えていない母親と同類なのだろうと思っていた。
だと思っていたけれど、もしかしたらちゃんと育てられるのかもしれないと考え始めている自分に、スカーは表情には出さないまま驚く。
スカーには音楽のことなんて何一つわからない。生まれたときから音楽どころか文化に属するものすべてが縁遠いものだった。戦って勝ち取るか、命を失うか。それだけがすべてだった。
なのになんとなく、エステルの音が変わったような気がしている。
「弾き方変えたのか?」
「いいや?」
流れるように鍵盤に指を滑らせながら、エステルは不思議そうに首を傾げた。
「最近他の奴にも言われたよ。変わったのかもね。自分で変えたつもりはないけど」
いつもは鬼火のようにあやしく人を惹きつける女の音は、今はまるで悪戯を楽しむ子どものようだった。昼頃たどたどしく弾いていた子どもの音色の方が、まだ子守唄らしかったくらいだ。
どっちが保護者だかわかんなくなるんじゃねーかそのうち、と思ったスカーの予想は、数年後に的中することになる。
ボロい宿屋のロビーできついウォッカをラッパ飲みしながら、泥酔した女はそう言った。擦り切れたビロードの椅子と半分しか明かりのつかない薄暗いシャンデリア。古ぼけた木目のアップライトピアノ。埃くさいロビーには、スカーとその女と宿屋の主人の熊親爺と、擦り切れそうな布地で辛うじて覆われているソファで毛布にくるまって眠る幼い少女の四人しかいない。
賞金稼ぎという名のごろつきが集まるこの違法居住区に久しぶりに顔を出したと思ったら、女は子連れだった。
あんたの子どもか、と尋ねたスカーに、女は「違う」と答えた。弟子にするために戦災孤児を引き取ったのだと。
そんな慈善事業をするような奴だったかと茶化したスカーに、女――エステルは冒頭の答えを返したのだ。
「……あるさ。ここに来てからはほとんど見てねえけどな」
なんせ、ここにはそもそも子どもがほとんどいない。
「ま、そうだろうね。よくある話だ」
答える横顔に、スカーはエステルと初めて出会ったときのことを思い出していた。
こんな掃きだめのような場所で、コンサートと称してギターを弾き始めた奇妙な女。戦いに明け暮れる、表の世界で生きていけないクソッタレどもの集まるこの場所で、音楽など。この世界をなめているとしか思えなかった。だからスカーは言ったのだ。
あんたがこんな所で音楽を奏でたところで何になるってんだ。音楽が腹の足しになるか? と。
「飢えてる子どもに音楽を聴かせても仕方がないとは今でも思っているよ」
その時と同じような言葉を、軽く肩をすくめながら女は口にする。反抗期の子どもをなだめるような、妙に癇に障る笑みを浮かべて。
「で、音楽を聴かせる代わりに飯を食わせてやろうって思ったのか」
自分で言っておきながら、スカーはあり得ない仮定に眉をひそめた。女がそんな殊勝な考え方をする人間ではないことくらい、スカーはとうに知っている。
なんせ初めて出会ったとき女がさっきの言葉に続けて言ったのは「でも人間というものは、飢えや怪我のために自分の身体が冷たい物体に変わっていくその瞬間に歌を口ずさんだりもするものなんだ。今この世界で音楽を奏でるということは、そういうことだ」だ。
「ま、別にあの子は死にかけていたわけじゃないさ。ちゃんとした施設だったしね。私が引き取らなければ……そのあとどうなってたかはわかったもんじゃないけど」
女はふっと表情を消して、コップの底に半分ほど残ったウォッカと氷を見つめる。
「正直、自分でもよくわからないんだよ」
いつも何が楽しいのか知らないがにやにや笑っている印象しかない女の見慣れない表情に、スカーはなんだか据わりの悪い気分になった。
「……あんたは見たことあるのか。死にそうな子どもを」
自分でも訝しげな表情を浮かべていると自覚しながら、スカーは訊ねる。自分のような法律上は存在すらしない最底辺の人間と違って、目の前の女は地位も名誉もそれなりにある人間だ。彼女がどんな人生を歩んできたのか、実のところスカーは全く知らないのだが、なんとなくそういう世界とは縁がないのかと思っていた。
なのに女は何かを懐かしむように、似合いもしない儚げな笑みを浮かべる。
「あるよ。天魔の襲撃を受けた居住区でね。怪我をした弟を連れてシェルターの中に隠れてたんだ。助けが来るまで三日くらい、弟と二人で隠れていた。天魔は入ってこられないが、怪我の手当もできなくてね。寒い寒いと言いながら冷たくなっていく弟に、私は何もしてやれなかった」
女の手の中でブリキのコップと氷がぶつかって鈍い音を立てる。冷たい氷の向こうに女が何を見ているのか、スカーには知る由もない。
「できたのはたった一つだけ。最後にあいつがねだったから、好きだった歌をうたってやった。ただそれだけだった」
女はふっと息を吐いてウォッカをあおり、手の甲で唇を拭いながら人の悪い笑みを浮かべた。
「私が今この世界で音楽を奏でるというのは、そういうことだ。二十年以上前の話さ。あの子は私に音楽をくれたが、私はあの子を救えなかった」
不敵な笑みとは裏腹に、その時のエステルはひどく弱々しく見えた。
「子どもを引き取ったのはその罪滅ぼしか」
こんなことを訊ねるような間柄ではない。わかっていながら、疑問を口にした。酒の勢いだったのかもしれない。
「どうなんだろうね」
溶けていく氷を見つめながら、エステルは不敵な笑みを消して、代わりにまた淡い微笑みを浮かべる。
「孤児院でピアノを弾いたのは、ただのボランティアだった。誰かを引き取ろうなんて思ってなかったよ。だけどあの子ね、ピアノを弾きたがったんだよ。私の真似をしてさ。私の音楽なんてそのときの気分と官能に身を任せているだけなのに、聴いてると青空が見えるみたいだなんて言って。最初はめちゃくちゃだったけど、だんだん音楽になっていくんだ」
普段エステルが人と話すときは、どこか斜に構えたような表情を崩さない。でも今は、ピアノを弾いているときのように楽しそうに笑っている。きっと、エステルが引き取った子どもが弾いた音楽が、それだけ彼女の心に響いたのだろう。
「この子が奏でる音楽を聴いてみたいと思った。そのためにはこの子には安全に暮らせる未来が必要で……魔力のないこの子がこの世界で生きていくための何かを、安全な場所で暮らしていくための何かを、私が渡せるかもしれないと思った。そしたら何だかたまらなくなってしまってさ」
ちょうどその孤児院は閉鎖が決まっていて、残る子どもたちの行き先はあまり希望の持てる状況ではなかったことも、エステルの背中を押したらしい。
「それはいいけどよ、ちゃんと育てられんのか?」
子育てどころか自己管理すらきちんとできるかどうかあやしい女に、スカーは疑い深く目を細めた。
「育てなきゃって思っているよ。豊かな人生を送って欲しいからね」
「豊かな人生、ねえ……夢みてえだな」
スカーにはまるで縁のない単語だった。不毛の土地で天魔を狩り、違法な存在を許容する誰かからその報酬を受け取る。怪我をすれば収入は途絶え、まともな治療も受けられずに運を天に任せるしかなく、それで死んだとしても悲しむ者もいない。ただ自分の命を長らえさせることだけを考えて生きる賞金稼ぎには、女の紡ぐ音楽も豊かな人生とやらも夢物語にしか思えない。
「人生は夢現。同じ夢を見るんなら、楽しい夢を奏でる方が良いじゃないか」
エステルは歌うようにそう言って立ち上がり、アップライトピアノに歩み寄った。
「私が思う豊かな人生ってのは、どんな局面でも希望を失わずに笑えるってことさ。でもあの子、才能ありそうじゃないかい?」
慣れた手つきでピアノの蓋を開き、前に腰掛けながらエステルは笑う。
「どの辺が」
「だってほら、あんたみたいな強面にもあっさり懐いてたし」
エステルはそう言うと、手遊びのように軽い調子でメロディを奏で始めた。スカーも知っているくらいよく知られた子守唄だ。
「このまま育ってくれるといいね」
スカーはエステルを横目で睨み付け、ち、と一つ舌打ちした。
「母親みたいなツラしやがって」
「おや、嫉妬かい?」
「んなわけあるか。脳みそ洗濯してこい」
穏やかなピアノのメロディに、女の笑い声が重なる。不満げな表情で頬杖をつきながら、スカーはぼんやりと考える。
糸の切れた風船のようだった女が、母親みたいな顔をして笑っている。そう思える自分が不思議だ。自分の母親の顔なんて覚えていないし、覚えていたとしてもそれは貧しさと暴力と知らない男の影で真っ黒に塗りつぶされている。
自分のようなろくでもない男と関係を持つところからして、この女もその顔も覚えていない母親と同類なのだろうと思っていた。
だと思っていたけれど、もしかしたらちゃんと育てられるのかもしれないと考え始めている自分に、スカーは表情には出さないまま驚く。
スカーには音楽のことなんて何一つわからない。生まれたときから音楽どころか文化に属するものすべてが縁遠いものだった。戦って勝ち取るか、命を失うか。それだけがすべてだった。
なのになんとなく、エステルの音が変わったような気がしている。
「弾き方変えたのか?」
「いいや?」
流れるように鍵盤に指を滑らせながら、エステルは不思議そうに首を傾げた。
「最近他の奴にも言われたよ。変わったのかもね。自分で変えたつもりはないけど」
いつもは鬼火のようにあやしく人を惹きつける女の音は、今はまるで悪戯を楽しむ子どものようだった。昼頃たどたどしく弾いていた子どもの音色の方が、まだ子守唄らしかったくらいだ。
どっちが保護者だかわかんなくなるんじゃねーかそのうち、と思ったスカーの予想は、数年後に的中することになる。
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