頓挫したアリスモチーフ
突然の問いかけで、ウイユの脳内は一瞬で白紙になった。女王がいうクラブ。それはアリスが血塗れにしたあの三人に他ならない。大切な兵士が外からきた少女に倒されたと言ってしまったら、今は大人しい鞭の餌食になるのが目に見える。
ウイユは必死に平静を装い、首を横に振った。
「いいえ、クラブですか?」
「そうじゃ。そなたはよく遅刻をする、試しにのう」
彼が遅刻をするのは大体が忘れ物か、住民の苦情や相談に付き合わされての結果だった。しっかり者だがどこか抜けた、人のいいウイユは立場以上に政治と国民との橋渡しに一役かっている。遅刻の理由によってはお咎めがなかった日もあった。
しかし、今日は帽子屋との談合の結果を報告すべき日。議会を時間通りに始めたかったガーネットは、ウイユを見かけたら城へ行くように急かす、もしくは連れてくるようにと、ちょうど彼の住居付近の領地へ警備に向かうクラブの兵士に用事を頼んだのだった。
ところが。議会があと数分で始まる頃になっても、ガーネットには一切報告がない。待っている苛立ちをどう消化してくれようか。何かいい方法を考えつつ、議会室の扉を開けさせれば、迎えをやった当人が座っているではないか。
「妾のトランプが報告を怠る、責務を放棄することなどありえぬ」
「き、きっと、どこかで擦れ違ったんでしょう。おかしいですね」
女王は自分のトランプ達に異常な自信があった。誰よりも何よりも女王絶対主義を守り、自分の手足となり強さを見せつける姿が大のお気に入りだった。女王の強さを直接示し、見せつけやすいのもあるからだろう。
自慢のトランプは外から来た少女に倒された。そうウイユが言えるはずもなく、曖昧に誤魔化すしかなかった。ただでさえ領地の件で女王の虫の居所は悪い。彼らをいともたやすく斬り裂いたアリスの存在を、知られてはならない。
いっそのこと意識が飛ばせたらどんなに楽だろうか。ウイユが思ったところで、状況は悪くなるばかりだ。役員達は心配そうに固唾を飲み、疑い深い女王の視線はウイユのみに注がれる。
「女王陛下!!」
そんな議会室の息詰まる空気を読まず、大扉が勢いよく外から開かれた。
蛙2匹の制止を振り切って、割り込んできた者は足早にガーネットの足下でひざまづいた。白い制服は赤黒く染まり、着用義務のある高帽子も着用していない。ウイユはそれが誰であるか覚えていた。覚えているどころか、忘れることなど出来ない。
現れたのはアリスに倒されたトランプ兵の一員、クラブの9だった。彼はかろうじて生きていたのだ。
「どこに行っておった! クラブの9よ!」
「はっ、申し訳ありません」
「その姿はチェスの奴らの仕業か?」
ウイユにとって空気が変わり、注目が逸れたのは嬉しかった。だが、現れたのはウイユとアリスが起こしてしまった件の被害者だ。女王に忠実なトランプ兵だ。きっと報告するに違いない。そして矛先は必ず自分の方に向けられる。
兵士は首を横に振った。ウイユが恐れた通り、9の指が真っ直ぐを彼を指す。
「これは宰相殿が連れていた娘にやられました」
「どういうことじゃ」
トランプ兵は事細かに語り始めた。
女王からの言いつけの通り、迎えに出向いた兵士達は少女と話している宰相と出会った。見たことのない少女を怪しみ、速やかに尋問を始めた。ところが娘は耳を貸さない。それどころか罵詈雑言を浴びせ、ウイユを連れて逃亡を謀った。
彼らは銃とサーベルを構え、二人を追った。逃げきれないことを悟ると娘はウイユを茂みに押しやり、どこから出したか分からない短剣を手にしていた。
「私は女王に屈しない」そう言い放った少女は、帽子屋の仲間だったのだ。
「娘は若いながらも手だれでありました。気付いた時には道で昏倒し、共に戦った5と7は……」
9のトランプは顔を伏せ、悲しみに染まった言葉を重ねる。肩を震わせて語る様子にウイユ以外の議員達はみな顔に同情を滲ませていた。
ウイユは開いた口が塞がらなかった。アリスは何も知らない故の失言だ。柔らかな手で剣を取ったのも、兵士から攻撃されたからだ。9の説明は良いように作り替えられている。
だが、間違いだと口を挟むことは出来ない。自分はもうすでに女王に「兵士とは会っていない」と伝えてしまっているのだ。
9も隙を突かれたとはいえ、簡単に少女に倒されたなどとは口に出来ない。ならば嘘を重ね、宰相も道連れにして罰を受けさせるべきだと考えていた。逝ってしまった仲間2人にもいい手向けになるはず。
視線の合った宰相を、9が目だけで嘲う。翠の目が見開かれ、ウイユの顔は徐々に青ざめていく。
勢いづいた9は更に言葉を畳みかけた。
「あの娘は帽子屋の手先でありましょう! そして、一緒に行動していた宰相殿も! あちら側のーー」
「黙れ」
女王の紅色の唇だけが動いた。声色も視線も酷く冷えきっており、水を打ったように場が静まり返る。興奮した9はガーネットの異変に気付かず、口を閉じなかった。
「報告は真っ赤な偽物です! 彼は帽子屋とすでに手を組んで」
「黙れ」
「女王陛下!!」
「だ、ま、れ!」
声を荒げた三度目にして、9は自分の犯した失態に気付いた。あれだけ滑らかだった言葉は片言となり、壊れた機械のように何度も謝罪を繰り返す。視線は怯え、震える身体にさっきの堂々とした語り種は欠片も見当たらなかった。
「申し訳ございません、どうか、どうか慈悲を、申し訳ございません、申し訳ご」
「貴様の耳は飾りか、頭は空か? 妾の言葉が分からぬのか!」
「ひぃっ!?」
鞭が再びしなり、9の足下へ叩きつけられる。
女王の冷たい瞳の奥に苛烈な炎が揺らめいた。激情したガーネットは誰にも止められない。
「たかが小娘にやられた? よくもおめおめと……それでも妾のトランプか!」
「女王へいっあ゛ああぁぁあああ!!!」
大きく振りかぶった女王の右手から、何度も鞭が振り降ろされる。クラブの服は破け、肌には赤いミミズ腫れが無数に出来上がっていく。
「ボタンの数も、形も、全部飾りか!? 理由がどうであろうと、小娘ごときに、貴様は! ただ貴様は、妾に! 従っていれば、よいのじゃ!!」
肉のひしゃげる音がだんだんと大きくなる。鞭は延々と降り注ぎ、彼の口から溢れるものはただの雑音に変わっていった。
目を背けたくなるが、目が離せない。明日は我が身という恐怖と、僅かばかりの怖いもの見たさが心で拮抗する。
抵抗がなくなり、雑音が掠れ声に変わった頃。突然、女王の手が止まった。女王の頬は紅潮し、肩で息をしている。床にはゴミ同然にまで処罰されたものがひとつ。毎度癇癪を起こすたびに惨く、凄惨な光景が出来上がる。
しかし、一種の美があった。ガーネットが女王であるからこそ成し得る、残忍性に裏打ちされた美だ。
従者が気を利かせて水の入ったコップを差し出した。女王は柔らかく微笑み、受け取る。縁に口を付けることなく、そのまま中身を9にぶちまけた。冷たい感覚に、怯えきったおぼろげな瞳が女王を見上げた。
「生きてはおるな、ならばよい。クレイブ、此処に首切りを呼べ」
「ただちに」
「じょ、女王陛下!? それだけは、それだけは! 少女は本当に!!」
呼ばれた兵士は短く応えマントを翻し、この場から立ち去った。
ずたぼろの身を何とか引きずり、9はかすれた声で何度も叫ぶ。涙をこぼす目がちらりとウイユを見た。視線で嘆願していたが、宰相であろうとなかろうと女王の決定を覆すことなど出来ない。悪態のことを全て許して助けてやりたいが、自分がそこまで勇敢な人物ではないことは理解している。
何度もこんな光景なら見てきたじゃないか。何を今更助けてやりたいとか。出来やしないのに。彼らはそれすらも覚えていられないのに。
ウイユはいつも通りに顔を背け、固く目を瞑った。9の絶望する顔も、いつも通りだった。
「陛下、連れて参りました」
床に這い蹲った9をゴミ同然に蹴り避け、クレイブが背後に首切り係の2人を従えて戻ってきた。残忍な役柄とは裏腹に、2人の見た目は道化師そのものだ。派手で明るい色をした揃いの衣装。処刑人にはとても見えない。
「御苦労であった。首切り係、準備を」
女王の命令に首切り係は同時に、同じ角度で同じポーズでお辞儀をした。ブーツの鈴を響かせながら、彼らは9を挟みこむ。左右の腕を抱えて、そのまま軽やかなステップで扉へと向かっていく。9は必死に抵抗するが、首切り係には一切通用しない。
2人のあの細腕からはとても想像できない。それとも、首切り係には不可抗力という言葉が宿っているのだろうか。
「やだ、いやだ! やだ、やめろぉぉおおお!!」
「いい声じゃ、もっと喚くがよい。喚いたところで、所詮貴様は妾の駒よ」
軽々と運び出される罪人の断末魔と、薄い鈴の音が曲になる。狂ったちんどん屋の後ろ姿を眺め、女王が高らかに笑い、歪んだ歌が部屋中に響き渡る。凄惨な歌曲に自ら耳を傾けていたのは、クレイヴしかいなかった。他の者は向けたくなくとも、聞くしかなかった。あれが自分の末路になりうることを心にしかと刻みつけるために。
扉が閉じられ、自然と女王は笑いを止めた。杖を指で弄び、切っ先の宝石をじっと見つめている。そのまま視線を動かさず、再びウイユへと声をかける。
「ウイユ」
「は、はい! 女王陛下」
「貴様と共にいた少女は、何者じゃ」
ウイユは悩んだ。恐ろしい陛下に洗いざらい話すか、自分を助け、巻き込まれてきた恩人を庇うのか。大臣達もウイユの返答を固唾を飲んで見守っている。
メガネを人差し指で上げ、宰相は背筋を伸ばした。
「存じません。兵士を殺害した後、こちらの尋問から逃げるように消えました」
「尋問目的で、共にいたと?」
「はい、女王陛下」
ウイユはアリスをとった。背筋を伸ばし、相手を真っ直ぐに見据える。報告中ですら頼りなさげだった視線が、今はガーネットを直視している。
女王は意志を強く持った目に驚いた。相手のこのような目を見るのは久し振りだった。ガーネットは緑柱石の瞳を見つめ、珍しく自分から視線を外した。長い睫を伏せ、ウイユが宰相に着任した頃を思い出していた。
前任の宰相が亡くなり、時折補佐としてついていた彼でも政務にはかなりの苦を労した。だが、自ら引き継ぎたいと言った時に見せた、目の力強さはウイユ自身の信念を物語っていたのだ。
その目力が久し振りに、ガーネットに向けられている。
「その言葉、今は受け止めよう。不問に処す、次は無いと思え」
「有り難うございます」
「今日の議会はこれで解散とする。各自、職務に戻るがよい」
女王が杖で3度、肘掛けを打ち付けたのを合図に、参加していた者は全員起立し深々と頭を垂れる。そしてガーネットが側近と共に議会室を後にするまで、そのままの姿勢で見送っていた。
ガーネットは自室へと戻りながら、従者に適当な用事を言いつけた。さっきの9の件を思い出し、蛙達はそそくさと二人から離れていく。誰だって鞭の餌食にはなりたくはない。廊下は二人きりとなり、ヒール音と剣の揺れる音が静かに響きわたっていた。
「クレイヴ」
「はい。その娘でしょうか」
「流石、妾のジャック。話が早いぞ。妾はその小娘に会いたくなった」
自慢の女王直属兵士を倒した小娘に、ガーネットは興味を持った。どのようなてだれか自分の目で確かめたくなったのだ。兵士をやられたのは悔しいが、強い者なら鏡の国に対する戦力として、または権力の誇示に手にいるべき存在だろう。
議会室よりも小さい、しかし装飾は細かく宝石まで埋め込まれた立派な真紅の扉の前で、二人は足を止めた。女王陛下のプライベートルームだ。此処に入れるのは一握りの人間であり、クレイヴもその中の一人だった。
だが今の彼は痩躯を屈ませて、廊下に膝を付き、敬愛する女王の命令を待っている。
「娘を探し出せ。兵も使える範囲で使って構わぬ」
「仰せのままに」
「良い報せを期待しておるぞ」
クレイヴは返事の代わりに、差し出されたガーネットの手の甲に唇を寄せた。
ウイユは必死に平静を装い、首を横に振った。
「いいえ、クラブですか?」
「そうじゃ。そなたはよく遅刻をする、試しにのう」
彼が遅刻をするのは大体が忘れ物か、住民の苦情や相談に付き合わされての結果だった。しっかり者だがどこか抜けた、人のいいウイユは立場以上に政治と国民との橋渡しに一役かっている。遅刻の理由によってはお咎めがなかった日もあった。
しかし、今日は帽子屋との談合の結果を報告すべき日。議会を時間通りに始めたかったガーネットは、ウイユを見かけたら城へ行くように急かす、もしくは連れてくるようにと、ちょうど彼の住居付近の領地へ警備に向かうクラブの兵士に用事を頼んだのだった。
ところが。議会があと数分で始まる頃になっても、ガーネットには一切報告がない。待っている苛立ちをどう消化してくれようか。何かいい方法を考えつつ、議会室の扉を開けさせれば、迎えをやった当人が座っているではないか。
「妾のトランプが報告を怠る、責務を放棄することなどありえぬ」
「き、きっと、どこかで擦れ違ったんでしょう。おかしいですね」
女王は自分のトランプ達に異常な自信があった。誰よりも何よりも女王絶対主義を守り、自分の手足となり強さを見せつける姿が大のお気に入りだった。女王の強さを直接示し、見せつけやすいのもあるからだろう。
自慢のトランプは外から来た少女に倒された。そうウイユが言えるはずもなく、曖昧に誤魔化すしかなかった。ただでさえ領地の件で女王の虫の居所は悪い。彼らをいともたやすく斬り裂いたアリスの存在を、知られてはならない。
いっそのこと意識が飛ばせたらどんなに楽だろうか。ウイユが思ったところで、状況は悪くなるばかりだ。役員達は心配そうに固唾を飲み、疑い深い女王の視線はウイユのみに注がれる。
「女王陛下!!」
そんな議会室の息詰まる空気を読まず、大扉が勢いよく外から開かれた。
蛙2匹の制止を振り切って、割り込んできた者は足早にガーネットの足下でひざまづいた。白い制服は赤黒く染まり、着用義務のある高帽子も着用していない。ウイユはそれが誰であるか覚えていた。覚えているどころか、忘れることなど出来ない。
現れたのはアリスに倒されたトランプ兵の一員、クラブの9だった。彼はかろうじて生きていたのだ。
「どこに行っておった! クラブの9よ!」
「はっ、申し訳ありません」
「その姿はチェスの奴らの仕業か?」
ウイユにとって空気が変わり、注目が逸れたのは嬉しかった。だが、現れたのはウイユとアリスが起こしてしまった件の被害者だ。女王に忠実なトランプ兵だ。きっと報告するに違いない。そして矛先は必ず自分の方に向けられる。
兵士は首を横に振った。ウイユが恐れた通り、9の指が真っ直ぐを彼を指す。
「これは宰相殿が連れていた娘にやられました」
「どういうことじゃ」
トランプ兵は事細かに語り始めた。
女王からの言いつけの通り、迎えに出向いた兵士達は少女と話している宰相と出会った。見たことのない少女を怪しみ、速やかに尋問を始めた。ところが娘は耳を貸さない。それどころか罵詈雑言を浴びせ、ウイユを連れて逃亡を謀った。
彼らは銃とサーベルを構え、二人を追った。逃げきれないことを悟ると娘はウイユを茂みに押しやり、どこから出したか分からない短剣を手にしていた。
「私は女王に屈しない」そう言い放った少女は、帽子屋の仲間だったのだ。
「娘は若いながらも手だれでありました。気付いた時には道で昏倒し、共に戦った5と7は……」
9のトランプは顔を伏せ、悲しみに染まった言葉を重ねる。肩を震わせて語る様子にウイユ以外の議員達はみな顔に同情を滲ませていた。
ウイユは開いた口が塞がらなかった。アリスは何も知らない故の失言だ。柔らかな手で剣を取ったのも、兵士から攻撃されたからだ。9の説明は良いように作り替えられている。
だが、間違いだと口を挟むことは出来ない。自分はもうすでに女王に「兵士とは会っていない」と伝えてしまっているのだ。
9も隙を突かれたとはいえ、簡単に少女に倒されたなどとは口に出来ない。ならば嘘を重ね、宰相も道連れにして罰を受けさせるべきだと考えていた。逝ってしまった仲間2人にもいい手向けになるはず。
視線の合った宰相を、9が目だけで嘲う。翠の目が見開かれ、ウイユの顔は徐々に青ざめていく。
勢いづいた9は更に言葉を畳みかけた。
「あの娘は帽子屋の手先でありましょう! そして、一緒に行動していた宰相殿も! あちら側のーー」
「黙れ」
女王の紅色の唇だけが動いた。声色も視線も酷く冷えきっており、水を打ったように場が静まり返る。興奮した9はガーネットの異変に気付かず、口を閉じなかった。
「報告は真っ赤な偽物です! 彼は帽子屋とすでに手を組んで」
「黙れ」
「女王陛下!!」
「だ、ま、れ!」
声を荒げた三度目にして、9は自分の犯した失態に気付いた。あれだけ滑らかだった言葉は片言となり、壊れた機械のように何度も謝罪を繰り返す。視線は怯え、震える身体にさっきの堂々とした語り種は欠片も見当たらなかった。
「申し訳ございません、どうか、どうか慈悲を、申し訳ございません、申し訳ご」
「貴様の耳は飾りか、頭は空か? 妾の言葉が分からぬのか!」
「ひぃっ!?」
鞭が再びしなり、9の足下へ叩きつけられる。
女王の冷たい瞳の奥に苛烈な炎が揺らめいた。激情したガーネットは誰にも止められない。
「たかが小娘にやられた? よくもおめおめと……それでも妾のトランプか!」
「女王へいっあ゛ああぁぁあああ!!!」
大きく振りかぶった女王の右手から、何度も鞭が振り降ろされる。クラブの服は破け、肌には赤いミミズ腫れが無数に出来上がっていく。
「ボタンの数も、形も、全部飾りか!? 理由がどうであろうと、小娘ごときに、貴様は! ただ貴様は、妾に! 従っていれば、よいのじゃ!!」
肉のひしゃげる音がだんだんと大きくなる。鞭は延々と降り注ぎ、彼の口から溢れるものはただの雑音に変わっていった。
目を背けたくなるが、目が離せない。明日は我が身という恐怖と、僅かばかりの怖いもの見たさが心で拮抗する。
抵抗がなくなり、雑音が掠れ声に変わった頃。突然、女王の手が止まった。女王の頬は紅潮し、肩で息をしている。床にはゴミ同然にまで処罰されたものがひとつ。毎度癇癪を起こすたびに惨く、凄惨な光景が出来上がる。
しかし、一種の美があった。ガーネットが女王であるからこそ成し得る、残忍性に裏打ちされた美だ。
従者が気を利かせて水の入ったコップを差し出した。女王は柔らかく微笑み、受け取る。縁に口を付けることなく、そのまま中身を9にぶちまけた。冷たい感覚に、怯えきったおぼろげな瞳が女王を見上げた。
「生きてはおるな、ならばよい。クレイブ、此処に首切りを呼べ」
「ただちに」
「じょ、女王陛下!? それだけは、それだけは! 少女は本当に!!」
呼ばれた兵士は短く応えマントを翻し、この場から立ち去った。
ずたぼろの身を何とか引きずり、9はかすれた声で何度も叫ぶ。涙をこぼす目がちらりとウイユを見た。視線で嘆願していたが、宰相であろうとなかろうと女王の決定を覆すことなど出来ない。悪態のことを全て許して助けてやりたいが、自分がそこまで勇敢な人物ではないことは理解している。
何度もこんな光景なら見てきたじゃないか。何を今更助けてやりたいとか。出来やしないのに。彼らはそれすらも覚えていられないのに。
ウイユはいつも通りに顔を背け、固く目を瞑った。9の絶望する顔も、いつも通りだった。
「陛下、連れて参りました」
床に這い蹲った9をゴミ同然に蹴り避け、クレイブが背後に首切り係の2人を従えて戻ってきた。残忍な役柄とは裏腹に、2人の見た目は道化師そのものだ。派手で明るい色をした揃いの衣装。処刑人にはとても見えない。
「御苦労であった。首切り係、準備を」
女王の命令に首切り係は同時に、同じ角度で同じポーズでお辞儀をした。ブーツの鈴を響かせながら、彼らは9を挟みこむ。左右の腕を抱えて、そのまま軽やかなステップで扉へと向かっていく。9は必死に抵抗するが、首切り係には一切通用しない。
2人のあの細腕からはとても想像できない。それとも、首切り係には不可抗力という言葉が宿っているのだろうか。
「やだ、いやだ! やだ、やめろぉぉおおお!!」
「いい声じゃ、もっと喚くがよい。喚いたところで、所詮貴様は妾の駒よ」
軽々と運び出される罪人の断末魔と、薄い鈴の音が曲になる。狂ったちんどん屋の後ろ姿を眺め、女王が高らかに笑い、歪んだ歌が部屋中に響き渡る。凄惨な歌曲に自ら耳を傾けていたのは、クレイヴしかいなかった。他の者は向けたくなくとも、聞くしかなかった。あれが自分の末路になりうることを心にしかと刻みつけるために。
扉が閉じられ、自然と女王は笑いを止めた。杖を指で弄び、切っ先の宝石をじっと見つめている。そのまま視線を動かさず、再びウイユへと声をかける。
「ウイユ」
「は、はい! 女王陛下」
「貴様と共にいた少女は、何者じゃ」
ウイユは悩んだ。恐ろしい陛下に洗いざらい話すか、自分を助け、巻き込まれてきた恩人を庇うのか。大臣達もウイユの返答を固唾を飲んで見守っている。
メガネを人差し指で上げ、宰相は背筋を伸ばした。
「存じません。兵士を殺害した後、こちらの尋問から逃げるように消えました」
「尋問目的で、共にいたと?」
「はい、女王陛下」
ウイユはアリスをとった。背筋を伸ばし、相手を真っ直ぐに見据える。報告中ですら頼りなさげだった視線が、今はガーネットを直視している。
女王は意志を強く持った目に驚いた。相手のこのような目を見るのは久し振りだった。ガーネットは緑柱石の瞳を見つめ、珍しく自分から視線を外した。長い睫を伏せ、ウイユが宰相に着任した頃を思い出していた。
前任の宰相が亡くなり、時折補佐としてついていた彼でも政務にはかなりの苦を労した。だが、自ら引き継ぎたいと言った時に見せた、目の力強さはウイユ自身の信念を物語っていたのだ。
その目力が久し振りに、ガーネットに向けられている。
「その言葉、今は受け止めよう。不問に処す、次は無いと思え」
「有り難うございます」
「今日の議会はこれで解散とする。各自、職務に戻るがよい」
女王が杖で3度、肘掛けを打ち付けたのを合図に、参加していた者は全員起立し深々と頭を垂れる。そしてガーネットが側近と共に議会室を後にするまで、そのままの姿勢で見送っていた。
ガーネットは自室へと戻りながら、従者に適当な用事を言いつけた。さっきの9の件を思い出し、蛙達はそそくさと二人から離れていく。誰だって鞭の餌食にはなりたくはない。廊下は二人きりとなり、ヒール音と剣の揺れる音が静かに響きわたっていた。
「クレイヴ」
「はい。その娘でしょうか」
「流石、妾のジャック。話が早いぞ。妾はその小娘に会いたくなった」
自慢の女王直属兵士を倒した小娘に、ガーネットは興味を持った。どのようなてだれか自分の目で確かめたくなったのだ。兵士をやられたのは悔しいが、強い者なら鏡の国に対する戦力として、または権力の誇示に手にいるべき存在だろう。
議会室よりも小さい、しかし装飾は細かく宝石まで埋め込まれた立派な真紅の扉の前で、二人は足を止めた。女王陛下のプライベートルームだ。此処に入れるのは一握りの人間であり、クレイヴもその中の一人だった。
だが今の彼は痩躯を屈ませて、廊下に膝を付き、敬愛する女王の命令を待っている。
「娘を探し出せ。兵も使える範囲で使って構わぬ」
「仰せのままに」
「良い報せを期待しておるぞ」
クレイヴは返事の代わりに、差し出されたガーネットの手の甲に唇を寄せた。
