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頓挫したアリスモチーフ

 扉が閉ざされると、中は一寸の光もない。しかし自分の姿が確認出来るだけの輝きを何故かあの鍵が放っていた。その中を黙々とアリスは進んでいく。
 彼女は歩く道など気にしていなかった。あの扉の話ばかり考えていたのだ。
 アリスには年の離れた姉がいる。優しく優秀で絵に描いた様な美少女。両親は自慢にしており、アリスもそんな彼女が自分の誇りで、勿論大好きだった。
 風になびく金髪、優しく笑う金褐色の綺麗な瞳。絵本を読んでくれる柔らかな声。水色のワンピースの裾が歩くたび、近くで揺れていた。アリスが覚えているのはそれだけで、他は何も覚えていない。覚えていないのではなく、思い出せないといった方が正しいのかもしれない。
 アリスが8歳の時だった。忽然と姉が姿を消した。何の前触れもなく、突然に。
 しかも奇妙なことに失踪した翌日から少しずつ写真も、絵も、彼女の姿を印した物が全て家から消えていった。
 姿を示すものはなく、幼い頃の記憶ほど鮮明で曖昧なものはない。今でもぼんやりした姿しか頭に思い描けないのも仕方がない話だった。
 一家の自慢だった優秀な姉と、酷似した少女の話。奇妙な世界で、あり得ない住人から聞いた話でもアリスは希望を抱かずにはいられなかった。
 もしかしたら、姉の手がかりが此処に……?
 信じたい気持ちがあふれる心の中で、現実的な自分が笑っていた。この場所が現実だという証拠はひとつもない。そもそも此処を自分の夢だと仮定して、彼女はどこにいるのだろう。
 夢で夢を見てどうしたいのか、私は。きっと混乱しているんだ。不安定だから、優しい姉のことを思い出すんだ。
 アリスは光る鍵を頭上に翳して、見つめた。これが姉の持ち物なら、丁寧に居間に飾られているはず。もやもやした心のまま鍵の水晶を見つめると、緑の光を反射した。緑、漆黒の闇の中で緑。その色を疑問に思う前に光はどんどんと広がり、辺りの世界を瞬く間に変えてしまった。
 水晶に映っていたらしい緑の葉、真っ直ぐ伸びる茶色の幹、隙間からは青い空。風が葉を揺らし、小鳥がさえずっていた。前にいた場所と同じかは分からないが、確実に此処は森のどこかだ。勿論彼女のサイズは小さいまま。普通の木は何倍も大きく、草も自分の背丈まで伸びていた。
 この姿で歩いても、この先ずっと進んで行くことは難しいはずだ。しかし此処で立ち止まっていても、この状況が好転するとは言い難い。アリスは草を掻き分け、歩き出した。背が低くなると様々な物が普段と違って見えてくる。花は甘い蜜の香りを放ち、小石は岩のように立ちはだかった。最初は面白がっていたが、歩くとあまり距離を進めない。そろそろ疲れてもきた。元の大きさに戻るタイミングだろう。
 ポケットに入れていた袋からケーキを取り出した。近くの小石に凭れ、賑やかなアイシングで縁取られたそれを口に含む。不味くはないが、小瓶の液体を飲んだ時ほど衝撃的な美味しさもない。少しずつゆっくり飲み込んでも、自分に変化は見られなかった。思い切って半分を口に放り込む。すると必死でかき分けていた草はみるみる縮み、体を預けていた小石も小さくなり、木の緑もどんどん目の前に近付いてくる。
 気付いてみれば、立ち尽くしている自分がいた。
「戻れた……」
 戻ってみれば呆気のないもので、アリスは拍子抜けしてしまった。小瓶の時のような驚きを少しは期待していたらしい。手の中で大きさを変えないケーキや瓶を考えたら、十分に不思議なことだと思い直した。どうやら不思議に対しての感覚が鈍り始めているようだ。
 アリスは袋をポケットの中にしまい込み、再び歩き始める。元に戻ったのだ、最初の考え通り道を見つけて女王とやらに会いに行こう。教育のなっていない兵士について言いたいことがあったことを思い出したのだ。
 それにウイユにも会いたい。自分を置いて行ったことにも文句を言わなければならない。
 小さい時は気付かなかったが、少し先に緑色の看板が立っていた。周囲と同化していたのだろう。もしかしたら森を出る道がを示しているのかもしれない。期待したアリスが歩み寄ってみると、その看板は美しい湖の前に佇んでいた。古ぼけた白木は手入れがされていないのだろう。蔦が体を伸ばし、軸にも文字盤にも何重に絡まっていた。緑に見えたのはこのせいか。
 此処がどこか知りたいアリスにとっては迷惑な存在である。必死で生い茂った彼らには悪いが、容赦なく板から引き剥がしていく。すると、そこにはこんな詩が記されていた。

“誰かが泣けば潤う、誰かが笑えば枯れていく。皮肉ながら、我はそういう運命にあるのだ。――『乙女の涙』”

 乙女の涙と称されているのは湖で、確かに清らかな涙と例えられてもおかしくはない。澄んだ青が無垢で純粋に美しかった。ケーキで口が渇いていたアリスは迷うことなく淵にしゃがみ、両手でそっと水を掬った。掌が透けて見え、鼻を近付けても泥や薬の臭いはしない。透明度も高く、体に悪いものは入っていないようだ。
 ゆっくりと舌先を伸ばして、水に触れる。途端にアリスの顔は歪み、口の中身を地面に吐き捨てた。不味い、しょっぱい。あまりの味に舌が痺れるほどだ。まだ海の方が甘いかもしれない。
 だから、“涙”か。湖の名称にアリスは納得した。こんなものを飲んだら喉が焼けてしまう。よくよく見れば生物が住んでいる様子もなかった。
 内地に出来た、塩水の湖。喋る扉や黒い兎に比べたら、まだ普通かもしれない。それでもアリスにとっては不思議だった。
 覗き込めば、様々な出来事に驚き呆れ疲れた自分の顔が映った。そして、その奥にいい年をした男の顔。三十後半だろうか、妙にまんまるの黒目が水面を介してこちらを見ていた。
 誰だ、これは。アリスは彼に背を向けている。無防備で、動いたら何が起こるかわからない。あの兵隊のようにいきなり襲われる可能性も捨てきれない。
 言葉を慎重に選び、ゆっくりとそのままの体勢で後ろにも聞こえるように少し声を張った。
「初めまして、何かご用ですか?」
「ちょっと待て、いきなりその口調はどうなんだ。まずはお互いの顔を見るべきじゃないのか?」
 そもそも覗いてきたのはそっちではないか。
 些細なことで反論するのも面倒なアリスは立ち上がり、言われるように後ろを振り返った。男は彼女を頭の先からつま先まで見やり、出っ歯気味の口を大きく開けて指さした。
「お前は、誰だ?」
「人の名前を聞くときは自分から名乗るべきではありませんか?」
「お前が聞いてきたんだぞ」
「私は何の用かを聞いただけです、貴方の名前は聞いていません」
「言うじゃねぇか、此処は俺らのもんだがな」
「貴方の所有地なら謝ります、勝手にすみませんでした。ですが、なんと言われようと名乗るのはそちらからと言うのは訂正しません」
「お前、俺を怒らせるつもりか?」
「そんなつもりはありません、礼儀として言っているまでです。それに今、貴方が怒っても疲れるのは貴方だけですよ?」
「くっ」
 淀みなく反論するアリスにいつしか相手の目は左右を忙しく見渡し、手振り素振りも多く細かくなり、挙動不審になっていく。それでも突っかかるような乱暴な口調は変わらなかった。
 相手の言葉をかわして話すのは彼女にとって朝飯前だ。大人の言葉を混ぜっ返す会話はいつの間にか身に付いた技術。直そうとも思ったがくだらない話をずっと聞いているより、相手を閉口させた方がいくらか楽しい。「もっと面白い話をしてくれれば、そんなことはしない」などと言えば子供っぽいと言われた。それでも、自分を曲げるのは嫌だった。
アリスとの口論に詰まった男を助けたのは、彼と思われる名前を呼ぶ少女の声だった。
「ちょっとトッポさーん? どこ行ったのー?」
「お、おお……! ペルーシュ、こっちだ!」
「一人で何やってんですか、アタシと見回りってアンシャンさんに言われて……あれ?」
 現れたのは金髪に賑やかな青や緑のメッシュを入れた小柄な女の子で、こちらに駆け寄ってきた。腰には2つの短剣を下げている。可愛らしい見た目に似つかわしくない持ち物だ。
 トッポという名前らしい男は仲間が増えたことで自信がついたようだった。堂々と立ち、胸を張ってアリスを嘲笑する。
「よく来たペルーシュ。こいつはな、俺らの許可な」
「何勝手に捕まえてんですか! 普通の人は巻き込んじゃいけないってリーダーに言われてるのに」
「知らない奴を捕まえるのは間違っているか?」
「それは、そうですけど……どうもすみませんでした」
 どうやらこのペルーシュという女の子の方が話を進めやすいようだ。頭を下げ、礼をする姿は慣れているようにもとれる。
 この男の口調をフォローするのが日常なのか、深々と頭を下げる少女にアリスも情が湧いた。深く責めることはなく、両手を振って笑顔を作る。
「大丈夫です、少し疲れましたけど」
「すみません……でも、一応なんで此処にいるのか報告しないといけない決まりなんで。付いてきてもらってもいいですか?」
「はっ、このひねくれ者がそう簡単に……」
「そういうことなら」
「え?」
「有り難うございますっ、じゃあこっちに!」
「お、おい! ちょっと待て!」
話に付いてけないトッポは慌てて森を進む二人の少女の後を追った。
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