頓挫したアリスモチーフ
「お嬢様! お待ち下さいアリスお嬢様!」
彼女の屋敷内での楽しみのひとつは、メイド達との追い掛けっこだった。教師や色んな人にへつらって学ぶことは嫌い。学ぶ意欲は自分で出す。いつからそんな屁理屈をこねていたのだろう。色々な相手に言い続けて数年経ち、少女は“それなり”の娘に成長した。
肩で切られた美しいプラチナブロンド、星の様に煌めく銀灰の瞳。そして屁理屈を言い過ぎたのか、多少自由奔に育った。やりたいことはやりたい、知りたいことは知りたい、そういう性格にだ。
そんな彼女は数日前、両親からこんなことを告げられた。
「今度お前の婚約者をがやってくるぞ」
「いい人だもの、きっと気に入るわ」
渡された写真には、枯れた枝木のように貧弱そうな男性が無表情で座っていた。見た瞬間、アリスは確信した。この人と自分は絶対に合わない。
なにより一番気に入らないのは、十代半ばの娘にお見合いをさせることだ。冗談じゃないと何回も反対したが、両親は聞く耳どころか関心すら持たなかった。
今日は見合い当日。用意されたのは深紅のワンピースと黒いラインの入った白いエプロンで構成されたエプロンドレス。どう見ても彼女の趣味ではなかった。他に着るものはとメイドに訊くと、「奥様からはそれ以外着せないようにと言われております」と模範的な回答を返され、渋々腕を通した。そしてメイドが目を離した隙に、アリスは部屋から逃げ出した。将来を勝手に決められることは彼女にとって苦痛でしかない。
全力疾走で屋敷内を駆け回り、なんとかメイド達を引き離す。中庭に繋がるドアへ滑り込んで、静かにしゃがみ込んだ。名前を呼ぶ声は頭上を過ぎて、廊下の奥にへと消えていった。
「馬鹿な人達ね」
にやりと意地悪く笑いアリスは立ち上がった。緑の整えられた中庭。白いテラスに注ぐ日差しは眩しく、夏に向けて木々も緑を濃くしていた。そこを通り過ぎる黒い影。
烏? 猫? ……違う! 思わず目を疑った。
黒い兎が2本足で走っている。しかもシワのないジャケットを着込み、眼鏡をかけ、金の懐中時計を片手にだ。周りの緑に負けない翡翠色の瞳など、絶対に有り得ない。
「何あれ……」
その姿が屋敷の影に消えるまで呆気に取られ眺めていると、何か金属の物が勢いよく合わさる音がした。確かあっちは……動物用の罠が有ったような……。
恐る恐る覗くとやはり兎は罠にかかっていた。その足からは血が滲み、痛いのか忙しなく鳴いている。
「ったく……大人しくしてなさいよ」
アリスが近寄ると兎はさらに暴れた。しかし彼女の手つきで外してくれることが分かったのか、いつの間にか大人しくなっていた。罠は案外簡単に外れた。
黒兎が慌てて走り出そうとすると、後ろからにゅっと腕が伸びてきた。
「待ちなさい」
「!?」
耳を掴まれ空中で足をばたつかせる兎。その姿にアリスはさらに不思議になった。
「なんで兎がそんな恰好してるの? ていうか2本足って有り得ないし、貴方本当に兎? それに急いでる様ね、何か用事でもあるの?」
早口の質問に相手は“困った顔”をした。彼女にはそう見えたのだ。じっと睨め合いをしていたが兎は身を捩らせ、逃げる。それをアリスが追う。さっきの追い掛けっことは立場が真逆だ。
「待ちなさ……ってどこに……きゃあっ!?」
黒兎が消えた、と思ったら自分の足元ががくんと凹んだ。いや、落ちた。そのまま、どんどんどんどんと急降下。
最初は恐怖を感じていたが、ただ落ちていくだけの穴にはすぐに飽きる。飽きてきた直後、スピードが落ちて穴の様子がよく分かる様になった。光りながら浮くランプに鏡台、本棚など。散らばった本、色取りどりの可愛い香水瓶達。戸棚からは美味しそうなジャムの瓶が溢れ出している。
アリスが手に取った瓶にジャムは入っていなかった。ラベル通りであればオレンジマーマレードが入っているのだが、中で転がっているのは錆びた小さな鍵だった。幾何学模様の彫られた持ち手の中央で、はめ込まれた水晶が鈍く光る銀色の中で煌めいている。
「……落ちてるんだもの、貰ったって構わないわよね?」
一目で気に入った彼女は誰に訊く訳でもない独り言呟きき、持ち主の分からないそれを取り出して、そっと右のポケットにしまった。独り言が多いのは昔からだ。瓶を棚に戻しながら、側で広がる世界地図とにらみ合う。内容はでたらめだが、地球が丸い事ぐらいは分かりそうだった。
周りから一旦興味を逸らし、下に目を凝らしてみれば何故か光と黒い影。居た。黒兎だ。彼を追い掛けようと手足を動かすがなかなか追いつけない。ぐっと足に力を入れると、もう底に着いていた。
目の前には森が生い茂り、地上と変わらない世界が広がっていた。
「落ちてきたのに……これ夢かしら」
見失った兎を捜して辺りを見渡すと、地面にぽつぽつと血が落ちている。その先には黒い兎の耳を付けた黒髪の少年が歩いていた。少し足も引きずっている。
まさか……ね。動物が人になるなんて。アリスは信じられなかったが、もう既に穴の一件で不思議な事に少し度胸がついてきた。
夢なら夢でも面白く。現実なら、なおさら面白い。どちらに転がったって、それはそれで楽しめばいい。覚悟を決め、早足で近付いて優しく少年の肩を叩いた。
「ちょっと、兎さん?」
◆ ◆ ◆
振り向いた彼の顔には丸縁の眼鏡が掛かっており、その向こう側の翠の瞳を彼女が見間違えることはなかった。
やっぱり、兎さんだわ。確信して微笑むと相手は金魚のように口を開閉させ、アリスを頭の先から靴の先まで何度も視線を往復させた。
「え……えぇえ!? き、キミ付いてきたの……!?」
「ええ、そうよ」
だって貴方が逃げるから。至極楽しそうに答えれば、黒兎の少年は有り得ないと言いたげな顔になった。
「参ったな……じゃない! 急がないと!」
「急ぐって、どこに行くのよ」
「どこだっていいじゃないか、キミは帰るんだ」
「帰り方も知らないのに帰れるわけないじゃない、それに怪我も心配してあげてるの」
首から下げた時計ばかり気にする彼の隣に並び、アリスが足元を指差した。ズボンの足首辺りは酷く破れ、血の滲んだそれが見える。彼女はポケットからハンカチを取り出し、有無を言わさず兎の足首に素早く巻いた。
しっかり結んでアリスが満足した顔を見せれば、兎は驚きと動揺が混ざった表情をしたが、すぐに眉を寄せる。
「だ、だからって僕は急いで……っ!?」
「……どうしたの?」
彼の視線の先には同じ服を着た人が3人。白を基調とした制服に三ツ葉型のボタンがそれぞれ違う数だけ付いている。その数と同じ数字が服の端に点対称で刺繍されていた。まるでトランプだ。アリスは暢気に家にあったそれを思い出していたが、兎は黙りこみ、歩みを止めた。
3人はどこかの兵隊のようで、並びを乱すことなく此方に向かってきていた。
「知り合い?」
「そんな優しいものじゃないよ……」
「黒兎殿」
「は、はいっ!」
服にボタンを9つ並べた真ん中の兵士が呼びかけると兎は少し顔を青ざめさせ、一歩前へと出た。兎の表情は堅い。
「女王陛下の気が短いのは?」
「……知っています。外で少し問題があって……」
「その様子は伺えません。用事を放っておくのはあまり熱心とは言えないかと」
どうやら彼は何かの用事の為に急いでいたらしい。女王陛下と繋がりがあるのなら、この兎は余程凄い兎なのだろう。だがその途中、罠とアリスに捕まってしまったことを口にはしない。
言わない理由があるのか、疑問に思っていると後の二人も言葉を畳みかけてきた。
「友人連れとは随分と余裕があるのでは?」
「我らに迎えをさせておいて、いい身分な事だ」
「ちょっと、貴方達……」
「待って。彼女は無関係です、貴方にも関係ありません」
5つと7つのボタンを持つ彼らの言い草に、アリスは眉間に皺を寄せた。兎が冷静に彼女を制する。確かに外でのことにアリスは関係しているが罠から救ってくれた恩人を悪くいうほど、性格は悪くないようだった。
だが、それでアリスの気持ちが治まるわけではない。相手の態度が気に入らない。刺々しい言葉から相手に対する妬みを他人でも感じることが出来る。最初に話しかけてきた男も彼女に食ってかかろうとした2人を抑え、話を再開する。
「それはそうかもしれませんな。しかし、陛下への行動への代償がどうなるかは?」
「それぐらい僕だって知って……!」
「その前に、嫌味言ってる暇があるならさっさと連れていけばいいじゃないですか。皆さん女王陛下に言われてきたんでしょう」
その通りに行動しない貴方達も貴方達、くだらないとは思いませんか? 会話に耐え切れず黙っていられなくなり、ため息混じりでアリスが話に割り込んだ。
驚いたのは他の4人で、兎は丸い目をより丸くして、兵士は口元をぴくりと上げた。
「他人が言うのもなんですが、湿っぽいのは止めた方がいいですよ。そういう人ほど“首を切られやすい”ですから」
手で首を切る真似をして唖然とする兎の手を引き、さっさと歩き出した。慌てる相手に対して、「急いでいるんでしょ」と答える。ああいう奴等には関わらない方がいい。
アリスは“リストラ”の意味でジェスチャーをしたのだが、3人の様子がなにやらおかしい。
「首を……“首を切る”……?」
「切られる……ない!」
「なくなるのは嫌だ!!」
彼らのうち5と7の兵士は猟銃を、9はサーベルを抜いて切っ先を前へ向けた。
「撃てぇ!!」
そして、背中を見せるアリスと兎に銃弾を放った。
弾はアリスの髪を掠め、向かいの木に着弾した。間一髪で兎が繋いだ手を思いきり引き、2人は道端に倒れ込んだ。
「な、何! 撃った? 嘘でしょ!?」
「キミのせいだからね……走るよ!」
後ろを驚いた顔で見る彼女とは正反対に、今度は兎が慣れた様子でため息をついた。
これがこの世界での日常?有り得ない――いや、違う。アリスは考え直した。これは外の自分が見ているからだ、日常が世界で違うのは当たり前の話。
銃声に追われる中、今度は逆に兎が手を引いて二人は走った。有無を言わさずに武力で抑え付ける兵士に対して憤りを覚えたが仕返しをしようとも、武器も何もない。そもそも少女の自分が相手を倒すなど有り得ない話だ。残念さと悔しさに、思わず武器を構える自分をイメージした。
相手を薙ぎ倒し、力を語る背中。自分の想像する戦いを思い描くと右のポケットに重みが増した。何かと覗けば、立派な短剣が入っていた。ここに入っていたのは鍵一つだったはずだ。
まさか。アリスは短剣を手に取り、よく見つめた。鞘に彫られた複雑怪奇な模様。柄には大粒の水晶。全てどこかで見たことがある。いきなり立ち止った相手に兎は振り向き、突如現れた短剣の存在に驚いていた。
頼りない短剣でも立ち向かえる可能性になるのなら、あるだけましだ。アリスは繋いでいた手を解き、それを右手に構えた。抜けば同じように見えて、全く違う模様が刃に浮かんでいる。横に振り、空を切る。悪くない。自然に口が弧を描いていく。振り向いて兵士の方を見据えた微笑みは落ち着いたものであり、少年には見えなかったが恐怖を覚えるほど綺麗なものだった。
「次、撃てぇ!」
撃たれる弾をかわす身は彼女も自分で驚くほど軽かった。背後に回り込む足取りはステップを踏むように、振りかざす手付きは舞うように。あれだけ嫌々習ったダンスより簡単だった。
次の瞬間、青空と新緑に舞う赤の飛沫。
「うん……いい切れ味」
初めて肉を斬る感触は可もなく不可もない。料理で切った豚肉よりかは重かった。彼女の頬とエプロンを赤が汚していく。酷いとも怖いとも思わなかった。そうしなければ自分がやられたから。
斬られた狙撃手の一人の背は血に染まり、地面に音を立て倒れた。慌てたもう一人も銃を向けたが、腹に鋭い痛みと何かが溢れる感覚が彼を襲った。生暖かい血が彼女の手を濡らす。
サーベルを振りかざした兵士がアリスの首を狙うが、そこには同胞の胸元。躊躇わず彼はそれを斬った。敵を殺すには躊躇いはいらない。だが気を取られた一瞬の隙に、胸元に突き付けられる刃。ずぶりと入り込む感覚に、また意地悪くアリスは笑った。兵士の口から血が流れる。
「さようなら」
瞬く間にその場は真っ赤に染まった。血塗れで倒れた兵士3人。その真ん中に刀身を鞘に納めながら微笑むアリス。お互いの白い服に付いた鮮血は次第に酸化し、黒く滲む。森とは正反対の異質な色で空間を作りあげていた。
「女王陛下直属兵士 が……!」
「だって襲ってくるほうが悪いのよ」
多分死んではいないだろう。そんなに深く刺したつもりはないが、このまま放置されればそうなってしまう可能性は高いだろう。
茫然と呟く黒兎を見ながらアリスは等親を鞘に収め、汚れていない左手で頬に飛んだ血を拭った。ぬるりと肌を滑るこれが人から出たものなのかと、あまり信じられない。自分のしでかしたことにもだ。
「初めて……だよね?」
「当たり前。考えるとおかしいわね、初めてでここまでやれるなんて」
体が知っていたあの動き。すんなりと斬り殺せたあの衝動。もう一度アリスが短剣を見ようとすると、それは彼女の手の中で鍵に戻っていた。やはり、あれは鍵が変化したものだったらしい。
「……そのクイーンってのに文句言いに行きたいわ」
「え……ええっ!?」
「だって兎さんも行くんでしょう? なら、ついでに部下の躾について文句の一つも言わないと」
いきなり人を殺そうとするなんて、どんな教育をしていたのだろう。ああなら斬られても文句は無いはず。自分の方が彼らを切り倒したことは都合良く無視をして、アリスは堂々と言った。
黒兎はまた怪訝そうな顔を見せたが、今度は彼がハンカチを相手に差し出した。
「血は拭いたほうがいいよ」
「あ、有難う兎さん」
「あと兎じゃなくて、僕にはウイユ・ラパンってちゃんと名前があるんだ」
「ウイユね、私はアリス・リデルよ。よろしく」
あとで洗濯して返すわね。ハンカチで鍵も拭き、反対側のポケットにしまった。
こうしてアリスは不可思議への一歩を踏み込んだ。この二人の出会いがこの国、この世界に変化をもたらすなど一体誰が知っていただろう。
その時、まだ二人はこの先にある物語に気付いていなかった。
彼女の屋敷内での楽しみのひとつは、メイド達との追い掛けっこだった。教師や色んな人にへつらって学ぶことは嫌い。学ぶ意欲は自分で出す。いつからそんな屁理屈をこねていたのだろう。色々な相手に言い続けて数年経ち、少女は“それなり”の娘に成長した。
肩で切られた美しいプラチナブロンド、星の様に煌めく銀灰の瞳。そして屁理屈を言い過ぎたのか、多少自由奔に育った。やりたいことはやりたい、知りたいことは知りたい、そういう性格にだ。
そんな彼女は数日前、両親からこんなことを告げられた。
「今度お前の婚約者をがやってくるぞ」
「いい人だもの、きっと気に入るわ」
渡された写真には、枯れた枝木のように貧弱そうな男性が無表情で座っていた。見た瞬間、アリスは確信した。この人と自分は絶対に合わない。
なにより一番気に入らないのは、十代半ばの娘にお見合いをさせることだ。冗談じゃないと何回も反対したが、両親は聞く耳どころか関心すら持たなかった。
今日は見合い当日。用意されたのは深紅のワンピースと黒いラインの入った白いエプロンで構成されたエプロンドレス。どう見ても彼女の趣味ではなかった。他に着るものはとメイドに訊くと、「奥様からはそれ以外着せないようにと言われております」と模範的な回答を返され、渋々腕を通した。そしてメイドが目を離した隙に、アリスは部屋から逃げ出した。将来を勝手に決められることは彼女にとって苦痛でしかない。
全力疾走で屋敷内を駆け回り、なんとかメイド達を引き離す。中庭に繋がるドアへ滑り込んで、静かにしゃがみ込んだ。名前を呼ぶ声は頭上を過ぎて、廊下の奥にへと消えていった。
「馬鹿な人達ね」
にやりと意地悪く笑いアリスは立ち上がった。緑の整えられた中庭。白いテラスに注ぐ日差しは眩しく、夏に向けて木々も緑を濃くしていた。そこを通り過ぎる黒い影。
烏? 猫? ……違う! 思わず目を疑った。
黒い兎が2本足で走っている。しかもシワのないジャケットを着込み、眼鏡をかけ、金の懐中時計を片手にだ。周りの緑に負けない翡翠色の瞳など、絶対に有り得ない。
「何あれ……」
その姿が屋敷の影に消えるまで呆気に取られ眺めていると、何か金属の物が勢いよく合わさる音がした。確かあっちは……動物用の罠が有ったような……。
恐る恐る覗くとやはり兎は罠にかかっていた。その足からは血が滲み、痛いのか忙しなく鳴いている。
「ったく……大人しくしてなさいよ」
アリスが近寄ると兎はさらに暴れた。しかし彼女の手つきで外してくれることが分かったのか、いつの間にか大人しくなっていた。罠は案外簡単に外れた。
黒兎が慌てて走り出そうとすると、後ろからにゅっと腕が伸びてきた。
「待ちなさい」
「!?」
耳を掴まれ空中で足をばたつかせる兎。その姿にアリスはさらに不思議になった。
「なんで兎がそんな恰好してるの? ていうか2本足って有り得ないし、貴方本当に兎? それに急いでる様ね、何か用事でもあるの?」
早口の質問に相手は“困った顔”をした。彼女にはそう見えたのだ。じっと睨め合いをしていたが兎は身を捩らせ、逃げる。それをアリスが追う。さっきの追い掛けっことは立場が真逆だ。
「待ちなさ……ってどこに……きゃあっ!?」
黒兎が消えた、と思ったら自分の足元ががくんと凹んだ。いや、落ちた。そのまま、どんどんどんどんと急降下。
最初は恐怖を感じていたが、ただ落ちていくだけの穴にはすぐに飽きる。飽きてきた直後、スピードが落ちて穴の様子がよく分かる様になった。光りながら浮くランプに鏡台、本棚など。散らばった本、色取りどりの可愛い香水瓶達。戸棚からは美味しそうなジャムの瓶が溢れ出している。
アリスが手に取った瓶にジャムは入っていなかった。ラベル通りであればオレンジマーマレードが入っているのだが、中で転がっているのは錆びた小さな鍵だった。幾何学模様の彫られた持ち手の中央で、はめ込まれた水晶が鈍く光る銀色の中で煌めいている。
「……落ちてるんだもの、貰ったって構わないわよね?」
一目で気に入った彼女は誰に訊く訳でもない独り言呟きき、持ち主の分からないそれを取り出して、そっと右のポケットにしまった。独り言が多いのは昔からだ。瓶を棚に戻しながら、側で広がる世界地図とにらみ合う。内容はでたらめだが、地球が丸い事ぐらいは分かりそうだった。
周りから一旦興味を逸らし、下に目を凝らしてみれば何故か光と黒い影。居た。黒兎だ。彼を追い掛けようと手足を動かすがなかなか追いつけない。ぐっと足に力を入れると、もう底に着いていた。
目の前には森が生い茂り、地上と変わらない世界が広がっていた。
「落ちてきたのに……これ夢かしら」
見失った兎を捜して辺りを見渡すと、地面にぽつぽつと血が落ちている。その先には黒い兎の耳を付けた黒髪の少年が歩いていた。少し足も引きずっている。
まさか……ね。動物が人になるなんて。アリスは信じられなかったが、もう既に穴の一件で不思議な事に少し度胸がついてきた。
夢なら夢でも面白く。現実なら、なおさら面白い。どちらに転がったって、それはそれで楽しめばいい。覚悟を決め、早足で近付いて優しく少年の肩を叩いた。
「ちょっと、兎さん?」
◆ ◆ ◆
振り向いた彼の顔には丸縁の眼鏡が掛かっており、その向こう側の翠の瞳を彼女が見間違えることはなかった。
やっぱり、兎さんだわ。確信して微笑むと相手は金魚のように口を開閉させ、アリスを頭の先から靴の先まで何度も視線を往復させた。
「え……えぇえ!? き、キミ付いてきたの……!?」
「ええ、そうよ」
だって貴方が逃げるから。至極楽しそうに答えれば、黒兎の少年は有り得ないと言いたげな顔になった。
「参ったな……じゃない! 急がないと!」
「急ぐって、どこに行くのよ」
「どこだっていいじゃないか、キミは帰るんだ」
「帰り方も知らないのに帰れるわけないじゃない、それに怪我も心配してあげてるの」
首から下げた時計ばかり気にする彼の隣に並び、アリスが足元を指差した。ズボンの足首辺りは酷く破れ、血の滲んだそれが見える。彼女はポケットからハンカチを取り出し、有無を言わさず兎の足首に素早く巻いた。
しっかり結んでアリスが満足した顔を見せれば、兎は驚きと動揺が混ざった表情をしたが、すぐに眉を寄せる。
「だ、だからって僕は急いで……っ!?」
「……どうしたの?」
彼の視線の先には同じ服を着た人が3人。白を基調とした制服に三ツ葉型のボタンがそれぞれ違う数だけ付いている。その数と同じ数字が服の端に点対称で刺繍されていた。まるでトランプだ。アリスは暢気に家にあったそれを思い出していたが、兎は黙りこみ、歩みを止めた。
3人はどこかの兵隊のようで、並びを乱すことなく此方に向かってきていた。
「知り合い?」
「そんな優しいものじゃないよ……」
「黒兎殿」
「は、はいっ!」
服にボタンを9つ並べた真ん中の兵士が呼びかけると兎は少し顔を青ざめさせ、一歩前へと出た。兎の表情は堅い。
「女王陛下の気が短いのは?」
「……知っています。外で少し問題があって……」
「その様子は伺えません。用事を放っておくのはあまり熱心とは言えないかと」
どうやら彼は何かの用事の為に急いでいたらしい。女王陛下と繋がりがあるのなら、この兎は余程凄い兎なのだろう。だがその途中、罠とアリスに捕まってしまったことを口にはしない。
言わない理由があるのか、疑問に思っていると後の二人も言葉を畳みかけてきた。
「友人連れとは随分と余裕があるのでは?」
「我らに迎えをさせておいて、いい身分な事だ」
「ちょっと、貴方達……」
「待って。彼女は無関係です、貴方にも関係ありません」
5つと7つのボタンを持つ彼らの言い草に、アリスは眉間に皺を寄せた。兎が冷静に彼女を制する。確かに外でのことにアリスは関係しているが罠から救ってくれた恩人を悪くいうほど、性格は悪くないようだった。
だが、それでアリスの気持ちが治まるわけではない。相手の態度が気に入らない。刺々しい言葉から相手に対する妬みを他人でも感じることが出来る。最初に話しかけてきた男も彼女に食ってかかろうとした2人を抑え、話を再開する。
「それはそうかもしれませんな。しかし、陛下への行動への代償がどうなるかは?」
「それぐらい僕だって知って……!」
「その前に、嫌味言ってる暇があるならさっさと連れていけばいいじゃないですか。皆さん女王陛下に言われてきたんでしょう」
その通りに行動しない貴方達も貴方達、くだらないとは思いませんか? 会話に耐え切れず黙っていられなくなり、ため息混じりでアリスが話に割り込んだ。
驚いたのは他の4人で、兎は丸い目をより丸くして、兵士は口元をぴくりと上げた。
「他人が言うのもなんですが、湿っぽいのは止めた方がいいですよ。そういう人ほど“首を切られやすい”ですから」
手で首を切る真似をして唖然とする兎の手を引き、さっさと歩き出した。慌てる相手に対して、「急いでいるんでしょ」と答える。ああいう奴等には関わらない方がいい。
アリスは“リストラ”の意味でジェスチャーをしたのだが、3人の様子がなにやらおかしい。
「首を……“首を切る”……?」
「切られる……ない!」
「なくなるのは嫌だ!!」
彼らのうち5と7の兵士は猟銃を、9はサーベルを抜いて切っ先を前へ向けた。
「撃てぇ!!」
そして、背中を見せるアリスと兎に銃弾を放った。
弾はアリスの髪を掠め、向かいの木に着弾した。間一髪で兎が繋いだ手を思いきり引き、2人は道端に倒れ込んだ。
「な、何! 撃った? 嘘でしょ!?」
「キミのせいだからね……走るよ!」
後ろを驚いた顔で見る彼女とは正反対に、今度は兎が慣れた様子でため息をついた。
これがこの世界での日常?有り得ない――いや、違う。アリスは考え直した。これは外の自分が見ているからだ、日常が世界で違うのは当たり前の話。
銃声に追われる中、今度は逆に兎が手を引いて二人は走った。有無を言わさずに武力で抑え付ける兵士に対して憤りを覚えたが仕返しをしようとも、武器も何もない。そもそも少女の自分が相手を倒すなど有り得ない話だ。残念さと悔しさに、思わず武器を構える自分をイメージした。
相手を薙ぎ倒し、力を語る背中。自分の想像する戦いを思い描くと右のポケットに重みが増した。何かと覗けば、立派な短剣が入っていた。ここに入っていたのは鍵一つだったはずだ。
まさか。アリスは短剣を手に取り、よく見つめた。鞘に彫られた複雑怪奇な模様。柄には大粒の水晶。全てどこかで見たことがある。いきなり立ち止った相手に兎は振り向き、突如現れた短剣の存在に驚いていた。
頼りない短剣でも立ち向かえる可能性になるのなら、あるだけましだ。アリスは繋いでいた手を解き、それを右手に構えた。抜けば同じように見えて、全く違う模様が刃に浮かんでいる。横に振り、空を切る。悪くない。自然に口が弧を描いていく。振り向いて兵士の方を見据えた微笑みは落ち着いたものであり、少年には見えなかったが恐怖を覚えるほど綺麗なものだった。
「次、撃てぇ!」
撃たれる弾をかわす身は彼女も自分で驚くほど軽かった。背後に回り込む足取りはステップを踏むように、振りかざす手付きは舞うように。あれだけ嫌々習ったダンスより簡単だった。
次の瞬間、青空と新緑に舞う赤の飛沫。
「うん……いい切れ味」
初めて肉を斬る感触は可もなく不可もない。料理で切った豚肉よりかは重かった。彼女の頬とエプロンを赤が汚していく。酷いとも怖いとも思わなかった。そうしなければ自分がやられたから。
斬られた狙撃手の一人の背は血に染まり、地面に音を立て倒れた。慌てたもう一人も銃を向けたが、腹に鋭い痛みと何かが溢れる感覚が彼を襲った。生暖かい血が彼女の手を濡らす。
サーベルを振りかざした兵士がアリスの首を狙うが、そこには同胞の胸元。躊躇わず彼はそれを斬った。敵を殺すには躊躇いはいらない。だが気を取られた一瞬の隙に、胸元に突き付けられる刃。ずぶりと入り込む感覚に、また意地悪くアリスは笑った。兵士の口から血が流れる。
「さようなら」
瞬く間にその場は真っ赤に染まった。血塗れで倒れた兵士3人。その真ん中に刀身を鞘に納めながら微笑むアリス。お互いの白い服に付いた鮮血は次第に酸化し、黒く滲む。森とは正反対の異質な色で空間を作りあげていた。
「
「だって襲ってくるほうが悪いのよ」
多分死んではいないだろう。そんなに深く刺したつもりはないが、このまま放置されればそうなってしまう可能性は高いだろう。
茫然と呟く黒兎を見ながらアリスは等親を鞘に収め、汚れていない左手で頬に飛んだ血を拭った。ぬるりと肌を滑るこれが人から出たものなのかと、あまり信じられない。自分のしでかしたことにもだ。
「初めて……だよね?」
「当たり前。考えるとおかしいわね、初めてでここまでやれるなんて」
体が知っていたあの動き。すんなりと斬り殺せたあの衝動。もう一度アリスが短剣を見ようとすると、それは彼女の手の中で鍵に戻っていた。やはり、あれは鍵が変化したものだったらしい。
「……そのクイーンってのに文句言いに行きたいわ」
「え……ええっ!?」
「だって兎さんも行くんでしょう? なら、ついでに部下の躾について文句の一つも言わないと」
いきなり人を殺そうとするなんて、どんな教育をしていたのだろう。ああなら斬られても文句は無いはず。自分の方が彼らを切り倒したことは都合良く無視をして、アリスは堂々と言った。
黒兎はまた怪訝そうな顔を見せたが、今度は彼がハンカチを相手に差し出した。
「血は拭いたほうがいいよ」
「あ、有難う兎さん」
「あと兎じゃなくて、僕にはウイユ・ラパンってちゃんと名前があるんだ」
「ウイユね、私はアリス・リデルよ。よろしく」
あとで洗濯して返すわね。ハンカチで鍵も拭き、反対側のポケットにしまった。
こうしてアリスは不可思議への一歩を踏み込んだ。この二人の出会いがこの国、この世界に変化をもたらすなど一体誰が知っていただろう。
その時、まだ二人はこの先にある物語に気付いていなかった。
