このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

頓挫したアリスモチーフ

 ガーネットに興味を持たれてしまったアリスが迷い込んだ、不可思議な地底の世界。彼女が探すウイユという黒兎は宰相で、その国はハートの女王が君臨している。ゲームという領地争いにより敵である鏡の国との仲は最悪。国と国だけではなく、さらに国の中でも人と人が対立している。
 ラッヘンの説明を聞いて、アリスの中にひとつの疑問が沸き上がった。領地争いに手段を選ばないとして、何故あの時クラブの兵士達は自分とウイユを襲ったのだろう。
 その時、領地のことなど一言も触れていない。話していたのは首についてだった。
「ねえ、ラッヘン」
「なんだい?」
「此処ってそんなに首が大切なの?」
 アリスは、兵士に襲われた経緯と内容をラッヘンに打ち明けた。
 彼らがリストラを何とはき違えたのか見当の付かない彼女にはウイユの慌てようも、訊ねている相手が更ににやつく理由も分からない。
「そりゃトランプも錯乱するよ。アリスは彼らのデリケートな部分を踏んじゃったんだ」
「貴方の尻尾みたいなところってことかしら」
「いんや、もっと大切だよ。首も、扉も……それから、鍵も」
 ラッヘンは片手で首を斬る真似をしながら、くるりとアリスの周りを一周した。彼女の前に戻ってきたとき、相手の手には銀色の鍵があった。アリスのポケットに入っていたはずの、穴を落ちてきた時に出会った不思議な鍵。
 いつの間に盗られたのか。やはり信用するんじゃなかった。後悔しかけたアリスだが、次の行動に言葉が出なかった。
 ラッヘンはアリスの右手を、まるで壊れ物のように大切に取ると鍵を乗せ、ゆっくりと強く握らせた。更にその上から、自分の両手で優しく包み込む。思わずラッヘンを見上げるとさっきまでの笑顔はなく、暖かで真剣な眼差しが彼女を射抜いていた。
「だから、もうなくしちゃ駄目だよ。やっとアリスのものになったんだから。これは何よりも特別なんだから」
「どういうことなの、やっぱりこの鍵に何かあるの? ラッヘン、貴方はその秘密を知っているの? 貴方は、」
 アリスは鍵に関わった扉のノブが口にした、あの話を思い出した。今、あの疑問に答えてくれるのはきっと目の前の人物しかいない。アリスはラッヘンの両手を、空いていた左手で強く包み返した。
 驚いたのは今度は相手の方で、アリスは逃がすまいと自然と力を込めていた。

「貴方は、イリスを知ってるの? 私の大切な、たった一人の姉さんを」

 アリスが今まで胸に秘めていた、だが一番聞きたかった疑問を投げかける。相手は言葉を詰まらせ、至極残念そうに肩を竦めた。そのまま彼女の肩口に顔を寄せて、ぽつりと囁く。
「残念だけど、答えられないんだ」
 口調は変わらないが声のトーンは悲哀を帯び、真剣味を増している。微かな震えを伴って、アリスの手は無意識に緩んでいた。
 “答えられない”という言葉はなんと重たいのだろう。高揚していた心に冷たい芯が突き刺さり、彼女を急激に冷ましていった。味方だと言った相手をゆっくりと引き剥がし、アリスはため息を吐いた。落胆と苛立ちが混じり合う、短くも重いため息だった。 
「ごめんね、アリス」
「ううん。こっちこそ変に力入って……」
「変じゃない、それはとても大切なことなんだ。とても、とってもね」
「此処にいたら、答えは見つかるのかしら」
「それは勿論、アリスが望むのなら。知る権利、いや暴く力があるからね」
 気になる単語を口にしたラッヘンだが、アリスに疑問を与える暇も無く出会った時と同じ、飄々とした顔にいつの間にか戻っていた。
 重くなった空気を払拭するようにラッヘンは一旦体を離し、片手を握り直して器用にアリスをその場で一回転させた。そのまま勢いに乗せ、仰向けに倒れさせた彼女の腰を抱き止める。二人の距離は一気に縮まり、鼻先が触れ合いそうになるほど近づいた。
「今度はこっちから質問してみようか。次はどこに行きたい?」
「じゃあ、女王の城。殺されかけた文句を言ってやりにね」
「女王陛下か。なら、捕まった方が早いんじゃないかな」
「捕まる!?」
 驚いた勢いで起き上がったアリスを支え終えると、ラッヘンは両手でウサギの耳を作った。
「アリス、トランプ達を甘く見ちゃダメさ。きっとバレてるよ。今捕まっても、一人じゃ多分立ち向かえない。宰相さんには失礼だけど、彼だけじゃ心配だろう?」
 女王の考えなど国の住人であれば大体予想が付いてしまう。お気に入りの兵士を倒したと知れば、彼女を血眼になって捜すはず。それが興味本位か、報復の対象なのかは本人しか分からないだろうが、止めるのはあの気弱な宰相には荷が重い話だ。
 おちゃらけた雰囲気に戻った相手の言い方に、思わずアリスは素直に頷いてしまった。庭で小動物用の罠にかかったウイユを思うと、心許ないのは確かだ。
「まずは友達を作ればいいよ、敵の敵は味方ってことで……」
「帽子屋に会えって言うの? そっちでも捕まるわよ」
「いやいや、本人に会いに行けばいいのさ。お茶会好きが客を嫌うなんて有り得ないね。どうだい?」
 両手を降ろし、少し伸び始めた影をラッヘンは指さした。明るい時間が限られていることを告げている。野宿をしたことがない生娘は少し興味をそそられたが、敵の多い現状では得策でない。
 選択肢のあるようでない提案をする、首を傾けた猫の笑顔もなかなか興味深い。確かにレジスタンスのリーダーにも会ってみたかった。アリスは少し考えるふりをして、案に乗ることにした。
「そうね、自分一人じゃきっと思いつかなかったわ」
「そう言ってくれると嬉しいよ。鍵はきちんとポケットに入れて、そうそう」
 足下を示していた指先は次にアリスの右に向いた。先には湖を見つけた時と似た標識が小さく見えた。
「あの通りに行けば帽子屋さ。きっと宰相さんにも会えるよ」
「そうね、会えるといいわね」
「あれ。信用なくなっちゃった?」
「結構裏切られたもの」
「答えられないことは誰にだってあるよ、誰だってね」
 琥珀色の瞳が彼女を見据える。とろりとした甘さを持った蜜色。誰もが夢中になる危険な色だ。「自分だってそうだろう」とでも言いたげで、アリスもそれを感じ取った。問いかけにならない問いに肩をすくませ、降参を示す。
 標識へと向かう前に、アリスはラッヘンに念を押して訊ねる。
「最後にもう一度聞いておくけど、貴方は私の味方なのよね? 本当に。くどいけど」
「勿論。僕はずっとアリスだけの味方さ。くどいけれど」
 その質問に、瞳の怪しい色は息を潜めた。十分な答えだ。
「有り難う、また会えるといいわね」
「また会えるさ。いってらっしゃいアリス」
 肩を軽く押され再び歩き出したアリスは、数歩進むと振り返りラッヘンに小さく手を振った。新しく出来た味方に感謝と親愛を込めて。ラッヘンも同じように応えた。親愛を込め、感謝ではなく幸運を祈って。
 力強くひたむきに歩く少女の背中を猫はしばらく見守っていた。後ろから飼い主に呼ばれなければ、もっと見守っていただろう。

「あらあら、チェシャー。今日は誰と遊んでいたのかしら」
 声の先には木漏れ日の中をゆったりと歩く女性がいた。淡いクリーム色のドレスと同色のレースの日傘が深緑に栄え、口元に淡い笑みを浮かべている。景色に絵画をはめ込んだような優雅さだ。
 ただひとつ。違和感をあげるとするならば、その胸元に可愛らしいピンク色のミニブタを抱え込んでいることだろうか。
「あまりちょっかいをかけては駄目よ、貴方は誰のだったかしら」
「わかっているよ、ご主人様」
 差し出された女の手がラッヘンの頬に添えられた。ラッヘンは喉を鳴らしてすり寄り、柔らかな手のひらに甘噛みをひとつ。甘える姿に飼い主は満足したのか、もうお小言はなかった。彼女に先導される形で、猫はアリスの旅路と正反対の帰路に着く。
 ラッヘンは何度彼女に“自分のもの”だと訊ねられただろうか。なだめるために何度甘えただろうか。猫は誰のものでもないのに、この飼い主は所有物だと強要したいらしい。
 甘えを強要されるのは嫌いだ。女に飼われている限り、甘えには甘えで返さなければならない。自分は誰のものでもない。
 でも、味方にはなる。それも……――
 ふと彼女の胸元でミニブタと視線が合った。ひくひくと鼻を動かし、首を傾げた。この子は頭がいい。きっと猫から漂う嗅ぎ知らぬ香りを感じ取ったのだろう。
 ラッヘンは微笑むと、そっと自分の唇に人差し指を添えた。ピンク色のいい子は鳴かなかった。

 そう、全てはまだまだ秘密のままに。
10/10ページ
スキ