また、同じ星空の下で
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七月七日。
仕事を終えて駅の外へ出ると、夕暮れの街はどこか浮き足立った空気に包まれていた。近くの商店街には色とりどりの短冊が揺れ、立派な笹飾りが夜風にさらさらと涼しげな音を立てている。
家路を急ぐ人波の中でふと足を止め、私は飾られた一枚の短冊に書かれた願い事をぼんやりと眺めた。
『ずっと二人で笑っていられますように』
たったそれだけの、ありふれた願い事。
なのに、胸の奥がちくりと痛む。
昔──。あの激動の時代において、その"ずっと"という言葉がどれほど残酷で、どれほど叶えるのが難しいことだったかを、私は身を以て知っている。
「〇〇」
不意に、雑踏に混じって愛しい声が鼓膜を震わせた。
振り返ると、浴衣姿やスーツ姿の行き交う人混みの向こうで、彼が優しく手を振っている。
その姿を見つけるだけで、張り詰めていた心が融けていくように自然と頬が緩んだ。
「総司くん!」
駆け寄ると、沖田総司は昔と少しも変わらない悪戯っぽくて優しい笑みを浮かべて私を迎え入れてくれる。
「待たせちゃった?」
「ううん、僕も今来たところ。ちょうど良かった」
そんな、現代の恋人たちのような定番のやり取りを交わす。
かつて新選組の一番組組長として刀を振るっていた人が、こうして現代の東京で、私の仕事帰りに待ち合わせをしてくれている。何度経験しても、どこか夢のようで不思議な感覚だった。
けれど、繋がれた手のぬくもりも、私を呼ぶ声も、間違いなく本物だ。
これこそが、今の私たちの日常なのだ。
「七夕祭り、結構人がいるね」
「ちょっと多すぎだけどね ほら、はぐれないように」
そう言って、総司くんは自分の指を私の指の隙間に滑り込ませ、ぎゅっと手を繋ぎ直した。
肌が触れ合うだけで、どうしようもないほどの安心感が身体を満たしていく。この感覚だけは、きっと前世のあの頃からずっと変わっていない。
あの時代は、場所によっては人前でこんなふうに堂々と手を繋いで歩くことなんてできなかった。いつ誰に命を狙われるかも分からず、隣にいる彼の命がいつ尽きてもおかしくない毎日だったから。
だからこそ、今のこの当たり前のような静かな幸せが、何よりも愛おしくて堪らない。
屋台が賑やかに並ぶ通りを、二人でのんびりと歩く。
甘い匂いを漂わせるりんご飴に、香ばしい音を立てる焼きそば。かき氷を嬉しそうに持つ子どもたちの笑い声が響き、色鮮やかな浴衣姿の人たちが行き交う。
ただ歩いているだけでも、お祭りの熱気が胸を躍らせた。
「ねぇ、射的やってみる?」
総司くんがふと足を止め、一軒の屋台を指さした。
「あ、いいね 総司くん絶対得意そう」
「まぁね これでも一応、狙ったものは外さない性質(たち)だから」
かつて刀一本で修羅場を潜り抜けてきた人だ。銃と刀の違いこそあれど、その身のこなしや集中力は健在らしい。
案の定、おもちゃの銃を構えた総司くんは、涼しい顔で景品を次々と撃ち落としていった。そのあまりの百発百中ぶりに、最初は愛想の良かったお店のおじさんまで「ちょっとお兄さん強すぎだよ!」と苦笑いを浮かべている。
悪びれもせず、悪戯が成功した子どものように笑う総司くんを見て、私も思わず吹き出してしまった。
そんな、何てことのない穏やかな時間が、涙が出そうなほど愛おしかった。
しばらく歩いていると、広場の中央に設置された、ひときわ大きな笹飾りの前に辿り着いた。
「短冊に願い事、書いていきませんか?」
案内係の人に笑顔で短冊とペンを渡される。
私は少しだけ考えてから、さらさらと短冊にペンを走らせた。ふと横を見ると、総司くんも真剣な顔で何かを書いている。
「ねえ、何書いたの? 見せて」
「やだ。〇〇には教えない」
「えー、冷たいなぁ」
「願い事なんて、人に見せるものじゃないでしょ。叶わなくなったら困るしね」
「それはそうだけど……」
結局、お互いに書いた中身は秘密にしたまま、私たちは並んで笹の葉へと短冊を結びつけた。
その時、夜風が優しく吹き抜ける。何百枚、何千枚もの色とりどりの短冊が一斉に揺れ、波のような音を立てた。
ふと、総司くんが動きを止め夜空を見上げる。
「……曇ってるね」
「本当だ 天の川、見えないかな…」
「残念。せっかく〇〇と来られたのに」
そう言って肩をすくめる彼と並び、私も空を仰いだ。
少しの間、言葉が途切れて静寂が流れる。けれど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。
私は夜空を見上げたまま、胸の奥にずっとあった想いをぽつりと呟いた。
「ねぇ前世でも、七夕ってしたの?」
「もちろん、したよ」
「その頃の総司くんは…何か願い事、した?」
総司くんは少しだけ考えるように、長い睫毛を伏せて目を細めた。
「どうだろう。したかもしれないね」
「何を願ったの?」
「……さぁ、忘れちゃったな」
はぐらかすように、彼はいつもの軽い調子で笑う。
でも、その笑顔の奥にほんの少しだけ寂しげな色が混ざるのを私は見逃さなかった。
あの頃の総司くんは、自分の身体が病に蝕まれ、もう長くは生きられないことを誰よりも分かっていたはずだ。だから、未来への願い事なんてきっと叶うはずがないと諦めていたのかもしれない。
「私はね、覚えてるよ」
「え?」
「総司くんに、生きてほしいって、ずっとお願いしてた」
総司くんの表情が、ぴたりと止まった。
「でも、あの時は叶わなかった」
病は無情にも進んでいき、戦火が止むこともなかった。最期の日まで、私は彼の隣にいながら何一つしてあげることができなかった。
悔しくて、悲しくて、引き裂かれそうだった。それなのに、彼は最後の瞬間まで私を安心させるように笑っていたのだ。
今でも時折、夢に見ることがある。月明かりに照らされた、あの頃の少しだけ痩せてしまった彼の切ない横顔を。
「〇〇」
総司くんが、静かに私の名前を呼んだ。その声は過去の記憶ではなく、今まさにここにいる彼のものだった。
彼の手がそっと伸びてきて、私の額を小突く。
「叶ったじゃん」
「……え?」
「少し遅れた、だけだよ」
驚いて顔を上げると、街灯の明かりに照らされた総司くんがそこにいた。あの頃よりも少し大人びた服装をして、だけど私に向ける笑みは、あの頃と何一つ変わっていない。
「一度は終わっちゃったかもしれないけどさ。こうしてまた、君に会えた」
真っ直ぐに私を見つめる彼の瞳から目が離せない。その言葉の重みに、視界がじんわりと潤んでいく。
「それにね、」
総司くんは繋いだままだった手を、壊れ物を扱うように、だけど強く、ぎゅっと握り締めた。
「今度はちゃんと、最期まで〇〇の隣にいるから」
胸の奥が、あたたかいもので満たされていく。
あぁ、そうだ。前世の私たちが、血を吐くような思いで願っても決して叶わなかった未来が今ここにある。
一緒に季節を重ねること。
一緒に健やかに歳を取っていくこと。
病の恐怖に怯えず、戦の足音に怯えることもなく、明日の予定を普通に話し合えること。
そのすべてが、今の私たちの手の中に確かにあるのだ。
「ねぇ、〇〇」
「なぁに?」
「今年の僕の願い事、教えてあげる」
「え、人に見せたら叶わなくなるんじゃ……」
「これは特別。君と一緒じゃないと叶えられないから」
総司くんは少し照れくさそうに、だけどとても愛おしそうに微笑んだ。
「来年も、その次も、そのまた次の七夕も。ずっと僕の隣で、一緒に短冊を書こう」
その言葉は、歓楽街の喧騒にかき消されてしまいそうなほど静かだった。
けれど、どんなに情熱的な愛の言葉よりも私の心の深くへと響き渡る。
溢れそうになる涙をこらえ、私は何度も、何度も大きく頷いた。
「うん……っ、うん。約束、」
「うん 約束ね」
現代の恋人たちのように、指切りをする代わりに小指を固く絡め合う。「子どもみたいだね」と言い合って、私たちは顔を見合わせて笑った。
その瞬間、灰色の雲の切れ間からほんのわずかに小さな星が顔を覗かせた。
夜空いっぱいに広がる天の川は見えないし、織姫と彦星の姿も見えない。けれど、今の私たちにはそれで十分だった。
どんなに遠く離れても、どれほど長い時を越えても、人はもう一度巡り会える。その奇跡を私たちは身を以て知っているから。
あの日、涙の中で叶わなかった悲しい願いは、何百もの季節を越えて、今日という日に静かに結ばれた。
私は繋いだ総司くんの手を、もう一度強く握り直す。もう二度とこの手を離しはしない。
来年も、その先も、そのまた先の未来も。七夕の夜が訪れるたび、私はきっとあの短冊に同じ願いを書き続けるだろう。
──どうか、この愛しい幸せが今度こそ一生続きますように、と。
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