人間と人型
小樋井嘉良は上機嫌で、跳ねるように駆けている。
パタパタとシューズの底を鳴らし、土に足跡を残していく。
上から下にかけて、黒から徐々に茶色に変わるグラデーションのついた、左右不対象に整えられた髪の毛が揺れている。
黒と白を基調としたパンクファッションに身を包んでいるが、身に付けているアクセサリーは繊細で、どこか雰囲気がちぐはぐだった。
すらりとした、それなりに高い身長に、性別の判断が付かない整った顔立ちをした、20代前後の若者。
これらの要素が組み合わさっている小樋井の姿は、すれ違う大半の人間が目を引くだろう。
鼻歌でも歌っていそうな雰囲気で、街中を走る。
「今日は、来る、かなぁ」
実際、歌のような拍子で呟きながら、息を切らすことなくパタパタと走り続けていた。
手には、花の刺繍が施された手提げバックを持っている。
これまた、今日のファッションとは全く違う方向性のデザインだ。
建物同士の間の、狭い路地を苦労も無く通り抜ける。
ビルの隙間を縫うように進むと、どんどん人の活気から離れていく。
そして、突き当りの建物の前で小樋井は止まる。
周りに人気は無く、誰もいない。
もう誰にも使われていない、廃ビルの手前に立つ。
ほとんど機能していない、立ち入り禁止の看板とテープを全て無視して進んで行く。
ビルの入り口、床には埃が積もっている。
「あっ」
その埃が所々消えている。人の靴の形が、点々と廊下へ続く。
小樋井は、嬉しくなってしまって。
今度こそ、本当に歌を口ずさみながら、足跡を追いかけるようにビルに入って行った。
「──Raindrops on roses and whiskers on kittens」
***
「These are a few of my favorite──」
小樋井の歌が止まる。
最後まで歌い終える事はできないまま、目的の場所へとたどり着く。
廃ビルの2階、一番奥にある部屋の前で足跡が消えていた。
小樋井はノックをしようとして握りこぶしを作り──その手を解いた。
ノックをしないまま、思い切り扉を開けた。
瞬間、張りつめたような空気が肌に刺さる。
部屋の中、扉から遠く離れた位置に、人間が居た。
暗青色のツナギを身にまとった、飾り気のない中年男性だ。
小樋井よりも少し高い身長に、がっしりとした体躯。
乾燥のせいなのか、パサついた茶髪は襟足まで不揃いに伸びている。
光の無い眼が、射貫くように小樋井の姿を捉えていた。
右手はズボンのポケットに突っ込んだまま。
1歩でも動けば首をとられてしまいそうな、剣呑な空気に支配された空間で。
「びっくりした?掃除屋さん」
「……」
場違いなほど明るい小樋井の声が響く。悪戯を仕掛けた子供のような気安さだ。
風船の空気が抜けるように、雰囲気がほどけていく。
「いひひ、びっくりさせるの成功」
「……帰っていいか」
無邪気な声に、掃除屋と呼ばれた男──上尾零次が面倒くさそうに答えた。
ズボンのポケットに手を入れたまま、光の灯らない目を向けている。
「だめ、今日は一緒にお昼食べる日でしょ?」
「決めた覚えがない」
「んん、確かに決めてないけど、そうなってるじゃん」
そうなっている。
いつからか、毎週水曜日には、昼食を共にすることになっていた。
切っ掛けはよくわからない。暗黙の了解のようなものが、いつの間にか生まれていた。
「……」
そうなっている事実を認めるような言葉を、上尾は吐いたことは無い。吐くつもりもない。
答えたくない事があるとすぐ無言になるこの子供っぽい中年男は、現在小樋井の一番のお気に入りだ。
「まぁいいや。今日のお昼はねぇ、これ!」
刺繍の入った手提げバックから2つ、四角い箱を取り出す。それは、淡い桃色の弁当箱だ。
幼い少女に似合いそうなそれを、室内に放置されている簡素な会議用テーブルの上に置く。
続けて6つ、銀紙に包まれているおにぎりを置いていく。
弁当を広げる様子を眺めながら、上尾はようやくポケットから手を出し、放置されていた折り畳み椅子を、2人分開いた。
「あ、椅子ありがと掃除屋さん。で、おかずなんだけど。カボチャの煮物に、小松菜の炒め物と、卵焼きとー」
弁当箱の中のおかずを一つ一つ、楽し気に紹介していく。
すべて、小樋井の手作りだった。
「今日のカボチャ、鶏挽肉のあんかけがかかってるんだよ」
「初めて見た」
「本当?やったやった、掃除屋さんの初めてだ!」
子供のように喜ぶ様子に、上尾は眉間にしわを寄せて苦い顔をする。
「…………何がそんなに嬉しいのかわからん」
「だってさ、特別感ない?」
「……いただきます」
良く理解できない事を無視してしまいがちな中年が、一方的に会話を切る。
「いただきます」
小樋井はさして気にもせず、上尾の性質を程よく受け入れていた。
***
普段は無邪気で騒がしい小樋井も、食事の間は大人しい。
正しい箸の持ち方も、食事中に騒いではいけない事も、昔トモダチに教えてもらったのだ。
トモダチが教えてくれたものを、小樋井はとても大切にしていた。
普段から口数の少ない上尾は、いつも通り無言のまま。
箸の持ち方は下手だが、器用におかずを口に運んでいる。
「ねえねえ、今日のも美味しい?」
食事の合間に機嫌良く、弁当の感想を小樋井が訪ねるが、答える事なく上尾は咀嚼を続けていた。
小樋井はその様子を見て、満足気に笑う。今日もまた、空の弁当箱を持ち帰れるであろう事を喜びながら。
先に食べ終えた小樋井が、片づけをしながら、小さく鼻歌を歌う。
「……それ」
「んー?」
「さっきも歌ってたな。ドアの前で」
「聞いてたんだ。この歌……知らない?」
「知らん」
「気になる?」
「別に」
「……Raindrops on roses and whiskers on kittens──」
頼まれてもいない小樋井が、勝手に歌いだした。
上尾は何か言いたげな顔をしていたが、諦めたように目を逸らす。
食事の続きに戻りながらも、歌に耳を傾けている。
上尾は、歳の割に知らないことや解らないことが多い。
小樋井は、そんな人間に、何かを教えることが好きなのだ。
「トモダチが好きだった歌なんだよ。お気に入りの物についての歌で、トモダチは替え歌で歌ったり──」
「……」
聞いてもいないことを、この化物はよく話すなと、上尾は思う。
「ボク、人間の歌が好きだよ」
「……そうかい」
そのうえ、いつもいつも楽しそうに話す。
どうして、そんなに楽しそうにできるのだろうか。上尾は解らない。
「あれ、ヘンな顔してる。どしたの?」
「……別に」
珍しく、理解できない事を、考えようと頭を働かせる。
深く、物事を考えるという行為を、今まで上尾は望まれたことが無かった。
ただ最近は。小樋井に出会ってからは。
「……楽しそうだなと、思っただけだ」
少しだけ、何かを考えることが増えた。
質問の体をなしていない、独り言のような上尾の呟きを。
問いかけだと解釈した小樋井は、にっこりとした笑顔で答える。
「うん、楽しいよ。掃除屋さんが聴いてくれるからね」
「……」
やはり、小樋井の答えは、上尾には理解出来ないものだった。
この小樋井と名乗る化物に付き纏われるようになって、早1年。
殺せない存在に出会い、反撃を諦めて──何故か未だに殺されていないまま、食事を共にするようになって、早1年。
「ねえ、また歌ってあげようか?」
「……」
人間のふりが好きな化物の、人間ごっこはいつまで続くのだろうか。
「好きにしろ」と、上尾は不愛想な声を上げた。
パタパタとシューズの底を鳴らし、土に足跡を残していく。
上から下にかけて、黒から徐々に茶色に変わるグラデーションのついた、左右不対象に整えられた髪の毛が揺れている。
黒と白を基調としたパンクファッションに身を包んでいるが、身に付けているアクセサリーは繊細で、どこか雰囲気がちぐはぐだった。
すらりとした、それなりに高い身長に、性別の判断が付かない整った顔立ちをした、20代前後の若者。
これらの要素が組み合わさっている小樋井の姿は、すれ違う大半の人間が目を引くだろう。
鼻歌でも歌っていそうな雰囲気で、街中を走る。
「今日は、来る、かなぁ」
実際、歌のような拍子で呟きながら、息を切らすことなくパタパタと走り続けていた。
手には、花の刺繍が施された手提げバックを持っている。
これまた、今日のファッションとは全く違う方向性のデザインだ。
建物同士の間の、狭い路地を苦労も無く通り抜ける。
ビルの隙間を縫うように進むと、どんどん人の活気から離れていく。
そして、突き当りの建物の前で小樋井は止まる。
周りに人気は無く、誰もいない。
もう誰にも使われていない、廃ビルの手前に立つ。
ほとんど機能していない、立ち入り禁止の看板とテープを全て無視して進んで行く。
ビルの入り口、床には埃が積もっている。
「あっ」
その埃が所々消えている。人の靴の形が、点々と廊下へ続く。
小樋井は、嬉しくなってしまって。
今度こそ、本当に歌を口ずさみながら、足跡を追いかけるようにビルに入って行った。
「──Raindrops on roses and whiskers on kittens」
***
「These are a few of my favorite──」
小樋井の歌が止まる。
最後まで歌い終える事はできないまま、目的の場所へとたどり着く。
廃ビルの2階、一番奥にある部屋の前で足跡が消えていた。
小樋井はノックをしようとして握りこぶしを作り──その手を解いた。
ノックをしないまま、思い切り扉を開けた。
瞬間、張りつめたような空気が肌に刺さる。
部屋の中、扉から遠く離れた位置に、人間が居た。
暗青色のツナギを身にまとった、飾り気のない中年男性だ。
小樋井よりも少し高い身長に、がっしりとした体躯。
乾燥のせいなのか、パサついた茶髪は襟足まで不揃いに伸びている。
光の無い眼が、射貫くように小樋井の姿を捉えていた。
右手はズボンのポケットに突っ込んだまま。
1歩でも動けば首をとられてしまいそうな、剣呑な空気に支配された空間で。
「びっくりした?掃除屋さん」
「……」
場違いなほど明るい小樋井の声が響く。悪戯を仕掛けた子供のような気安さだ。
風船の空気が抜けるように、雰囲気がほどけていく。
「いひひ、びっくりさせるの成功」
「……帰っていいか」
無邪気な声に、掃除屋と呼ばれた男──上尾零次が面倒くさそうに答えた。
ズボンのポケットに手を入れたまま、光の灯らない目を向けている。
「だめ、今日は一緒にお昼食べる日でしょ?」
「決めた覚えがない」
「んん、確かに決めてないけど、そうなってるじゃん」
そうなっている。
いつからか、毎週水曜日には、昼食を共にすることになっていた。
切っ掛けはよくわからない。暗黙の了解のようなものが、いつの間にか生まれていた。
「……」
そうなっている事実を認めるような言葉を、上尾は吐いたことは無い。吐くつもりもない。
答えたくない事があるとすぐ無言になるこの子供っぽい中年男は、現在小樋井の一番のお気に入りだ。
「まぁいいや。今日のお昼はねぇ、これ!」
刺繍の入った手提げバックから2つ、四角い箱を取り出す。それは、淡い桃色の弁当箱だ。
幼い少女に似合いそうなそれを、室内に放置されている簡素な会議用テーブルの上に置く。
続けて6つ、銀紙に包まれているおにぎりを置いていく。
弁当を広げる様子を眺めながら、上尾はようやくポケットから手を出し、放置されていた折り畳み椅子を、2人分開いた。
「あ、椅子ありがと掃除屋さん。で、おかずなんだけど。カボチャの煮物に、小松菜の炒め物と、卵焼きとー」
弁当箱の中のおかずを一つ一つ、楽し気に紹介していく。
すべて、小樋井の手作りだった。
「今日のカボチャ、鶏挽肉のあんかけがかかってるんだよ」
「初めて見た」
「本当?やったやった、掃除屋さんの初めてだ!」
子供のように喜ぶ様子に、上尾は眉間にしわを寄せて苦い顔をする。
「…………何がそんなに嬉しいのかわからん」
「だってさ、特別感ない?」
「……いただきます」
良く理解できない事を無視してしまいがちな中年が、一方的に会話を切る。
「いただきます」
小樋井はさして気にもせず、上尾の性質を程よく受け入れていた。
***
普段は無邪気で騒がしい小樋井も、食事の間は大人しい。
正しい箸の持ち方も、食事中に騒いではいけない事も、昔トモダチに教えてもらったのだ。
トモダチが教えてくれたものを、小樋井はとても大切にしていた。
普段から口数の少ない上尾は、いつも通り無言のまま。
箸の持ち方は下手だが、器用におかずを口に運んでいる。
「ねえねえ、今日のも美味しい?」
食事の合間に機嫌良く、弁当の感想を小樋井が訪ねるが、答える事なく上尾は咀嚼を続けていた。
小樋井はその様子を見て、満足気に笑う。今日もまた、空の弁当箱を持ち帰れるであろう事を喜びながら。
先に食べ終えた小樋井が、片づけをしながら、小さく鼻歌を歌う。
「……それ」
「んー?」
「さっきも歌ってたな。ドアの前で」
「聞いてたんだ。この歌……知らない?」
「知らん」
「気になる?」
「別に」
「……Raindrops on roses and whiskers on kittens──」
頼まれてもいない小樋井が、勝手に歌いだした。
上尾は何か言いたげな顔をしていたが、諦めたように目を逸らす。
食事の続きに戻りながらも、歌に耳を傾けている。
上尾は、歳の割に知らないことや解らないことが多い。
小樋井は、そんな人間に、何かを教えることが好きなのだ。
「トモダチが好きだった歌なんだよ。お気に入りの物についての歌で、トモダチは替え歌で歌ったり──」
「……」
聞いてもいないことを、この化物はよく話すなと、上尾は思う。
「ボク、人間の歌が好きだよ」
「……そうかい」
そのうえ、いつもいつも楽しそうに話す。
どうして、そんなに楽しそうにできるのだろうか。上尾は解らない。
「あれ、ヘンな顔してる。どしたの?」
「……別に」
珍しく、理解できない事を、考えようと頭を働かせる。
深く、物事を考えるという行為を、今まで上尾は望まれたことが無かった。
ただ最近は。小樋井に出会ってからは。
「……楽しそうだなと、思っただけだ」
少しだけ、何かを考えることが増えた。
質問の体をなしていない、独り言のような上尾の呟きを。
問いかけだと解釈した小樋井は、にっこりとした笑顔で答える。
「うん、楽しいよ。掃除屋さんが聴いてくれるからね」
「……」
やはり、小樋井の答えは、上尾には理解出来ないものだった。
この小樋井と名乗る化物に付き纏われるようになって、早1年。
殺せない存在に出会い、反撃を諦めて──何故か未だに殺されていないまま、食事を共にするようになって、早1年。
「ねえ、また歌ってあげようか?」
「……」
人間のふりが好きな化物の、人間ごっこはいつまで続くのだろうか。
「好きにしろ」と、上尾は不愛想な声を上げた。
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