このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

人間と人型

小樋井嘉良は上機嫌で、跳ねるように駆けている。

パタパタとシューズの底を鳴らし、土に足跡を残していく。

上から下にかけて、黒から徐々に茶色に変わるグラデーションのついた、左右不対象に整えられた髪の毛が揺れている。

黒と白を基調としたパンクファッションに身を包んでいるが、身に付けているアクセサリーは繊細で、どこか雰囲気がちぐはぐだった。

すらりとした、それなりに高い身長に、性別の判断が付かない整った顔立ちをした、20代前後の若者。

これらの要素が組み合わさっている小樋井の姿は、すれ違う大半の人間が目を引くだろう。

鼻歌でも歌っていそうな雰囲気で、街中を走る。

「今日は、来る、かなぁ」

実際、歌のような拍子で呟きながら、息を切らすことなくパタパタと走り続けていた。

手には、花の刺繍が施された手提げバックを持っている。

これまた、今日のファッションとは全く違う方向性のデザインだ。

建物同士の間の、狭い路地を苦労も無く通り抜ける。

ビルの隙間を縫うように進むと、どんどん人の活気から離れていく。

そして、突き当りの建物の前で小樋井は止まる。

周りに人気は無く、誰もいない。

もう誰にも使われていない、廃ビルの手前に立つ。

ほとんど機能していない、立ち入り禁止の看板とテープを全て無視して進んで行く。

ビルの入り口、床には埃が積もっている。

「あっ」

その埃が所々消えている。人の靴の形が、点々と廊下へ続く。

小樋井は、嬉しくなってしまって。

今度こそ、本当に歌を口ずさみながら、足跡を追いかけるようにビルに入って行った。

「──Raindrops on roses and whiskers on kittens」 

***

「These are a few of my favorite──」

小樋井の歌が止まる。

最後まで歌い終える事はできないまま、目的の場所へとたどり着く。

廃ビルの2階、一番奥にある部屋の前で足跡が消えていた。

小樋井はノックをしようとして握りこぶしを作り──その手を解いた。

ノックをしないまま、思い切り扉を開けた。

瞬間、張りつめたような空気が肌に刺さる。

部屋の中、扉から遠く離れた位置に、人間が居た。

暗青色のツナギを身にまとった、飾り気のない中年男性だ。

小樋井よりも少し高い身長に、がっしりとした体躯。

乾燥のせいなのか、パサついた茶髪は襟足まで不揃いに伸びている。

光の無い眼が、射貫くように小樋井の姿を捉えていた。

右手はズボンのポケットに突っ込んだまま。

1歩でも動けば首をとられてしまいそうな、剣呑な空気に支配された空間で。

「びっくりした?掃除屋さん」

「……」

場違いなほど明るい小樋井の声が響く。悪戯を仕掛けた子供のような気安さだ。

風船の空気が抜けるように、雰囲気がほどけていく。

「いひひ、びっくりさせるの成功」

「……帰っていいか」

無邪気な声に、掃除屋と呼ばれた男──上尾零次が面倒くさそうに答えた。

ズボンのポケットに手を入れたまま、光の灯らない目を向けている。

「だめ、今日は一緒にお昼食べる日でしょ?」

「決めた覚えがない」

「んん、確かに決めてないけど、そうなってるじゃん」

そうなっている。

いつからか、毎週水曜日には、昼食を共にすることになっていた。

切っ掛けはよくわからない。暗黙の了解のようなものが、いつの間にか生まれていた。

「……」

そうなっている事実を認めるような言葉を、上尾は吐いたことは無い。吐くつもりもない。

答えたくない事があるとすぐ無言になるこの子供っぽい中年男は、現在小樋井の一番のお気に入りだ。

「まぁいいや。今日のお昼はねぇ、これ!」

刺繍の入った手提げバックから2つ、四角い箱を取り出す。それは、淡い桃色の弁当箱だ。

幼い少女に似合いそうなそれを、室内に放置されている簡素な会議用テーブルの上に置く。

続けて6つ、銀紙に包まれているおにぎりを置いていく。

弁当を広げる様子を眺めながら、上尾はようやくポケットから手を出し、放置されていた折り畳み椅子を、2人分開いた。

「あ、椅子ありがと掃除屋さん。で、おかずなんだけど。カボチャの煮物に、小松菜の炒め物と、卵焼きとー」

弁当箱の中のおかずを一つ一つ、楽し気に紹介していく。

すべて、小樋井の手作りだった。

「今日のカボチャ、鶏挽肉のあんかけがかかってるんだよ」

「初めて見た」

「本当?やったやった、掃除屋さんの初めてだ!」

子供のように喜ぶ様子に、上尾は眉間にしわを寄せて苦い顔をする。

「…………何がそんなに嬉しいのかわからん」

「だってさ、特別感ない?」

「……いただきます」

良く理解できない事を無視してしまいがちな中年が、一方的に会話を切る。

「いただきます」

小樋井はさして気にもせず、上尾の性質を程よく受け入れていた。

***

普段は無邪気で騒がしい小樋井も、食事の間は大人しい。

正しい箸の持ち方も、食事中に騒いではいけない事も、昔トモダチに教えてもらったのだ。

トモダチが教えてくれたものを、小樋井はとても大切にしていた。

普段から口数の少ない上尾は、いつも通り無言のまま。

箸の持ち方は下手だが、器用におかずを口に運んでいる。

「ねえねえ、今日のも美味しい?」

食事の合間に機嫌良く、弁当の感想を小樋井が訪ねるが、答える事なく上尾は咀嚼を続けていた。

小樋井はその様子を見て、満足気に笑う。今日もまた、空の弁当箱を持ち帰れるであろう事を喜びながら。

先に食べ終えた小樋井が、片づけをしながら、小さく鼻歌を歌う。

「……それ」

「んー?」

「さっきも歌ってたな。ドアの前で」

「聞いてたんだ。この歌……知らない?」

「知らん」

「気になる?」

「別に」

「……Raindrops on roses and whiskers on kittens──」

頼まれてもいない小樋井が、勝手に歌いだした。

上尾は何か言いたげな顔をしていたが、諦めたように目を逸らす。

食事の続きに戻りながらも、歌に耳を傾けている。

上尾は、歳の割に知らないことや解らないことが多い。

小樋井は、そんな人間に、何かを教えることが好きなのだ。

「トモダチが好きだった歌なんだよ。お気に入りの物についての歌で、トモダチは替え歌で歌ったり──」

「……」

聞いてもいないことを、この化物はよく話すなと、上尾は思う。

「ボク、人間の歌が好きだよ」

「……そうかい」

そのうえ、いつもいつも楽しそうに話す。

どうして、そんなに楽しそうにできるのだろうか。上尾は解らない。

「あれ、ヘンな顔してる。どしたの?」

「……別に」

珍しく、理解できない事を、考えようと頭を働かせる。

深く、物事を考えるという行為を、今まで上尾は望まれたことが無かった。

ただ最近は。小樋井に出会ってからは。

「……楽しそうだなと、思っただけだ」

少しだけ、何かを考えることが増えた。

質問の体をなしていない、独り言のような上尾の呟きを。

問いかけだと解釈した小樋井は、にっこりとした笑顔で答える。

「うん、楽しいよ。掃除屋さんが聴いてくれるからね」

「……」

やはり、小樋井の答えは、上尾には理解出来ないものだった。

この小樋井と名乗る化物に付き纏われるようになって、早1年。

殺せない存在に出会い、反撃を諦めて──何故か未だに殺されていないまま、食事を共にするようになって、早1年。

「ねえ、また歌ってあげようか?」

「……」

人間のふりが好きな化物の、人間ごっこはいつまで続くのだろうか。

「好きにしろ」と、上尾は不愛想な声を上げた。
3/3ページ
スキ