人間と人型
喫茶店のテラス席の1つに、無表情の男が座っていた。
日よけのパラソルが、強い日差しを遮ぎり、その男──上尾に影を落とす。
クーラーの効いた店内は満席で、唯一空いた席がそこだった。
洒落た雰囲気の店では浮いてしまうような、紺色の作業着のまま注文をし、その注文内容と男の身なりとの差に向けられる、周囲の好奇の目にも無関心で着席した。
冷房にも、周囲の人間にも、店の雰囲気にも、何一つ執着はない。
何かあるとすれば、今、上尾の目の前のテーブルに置かれているものだろうか。
水滴がついたグラスの中には、たっぷりの氷によく冷やされたミルクココア。
上には生クリームが渦を巻き、チョコレートシロップがかかっている。
隣の大きな皿には、こんがりと焼かれた、小麦色の分厚い食パン。
上には丸いバニラアイス、更に黄金色の蜂蜜が贅沢に垂らされている。この店の名物のハニートーストだった。
ちょうど近所での作業だったので、仕事の合間の昼休憩にこの喫茶店を選んだ。
さっそくと、フォークとナイフに上尾が手を伸ばした、その時。
「あれ、掃除屋さんっぽい人がいる……ああっ!掃除屋さんだ!!」
聞きなれてしまった騒がしい声が、テラス席を区切る柵の外から響く。
上尾が反応する暇もなく、声の主が駆け足でやってきた。
「おはよ、掃除屋さん。運命だね!」
天然か意図的にか、羽のような軽さで発せられた大袈裟な挨拶と共に。
なるべくなら出会わない方が有り難い存在が、上尾のすぐ横に躍り出た。
「……厄日だな」
「アンが0%のラッキーデーだよ」
「そう思うのはお前だけだ」
上尾の冷たい物言いに、傷一つ付いた様子の無い若者が、にんまりと笑う。
人懐っこそうな笑顔を浮かべた若者──小樋井は脚を曲げて、座る上尾に目線を合わせる。
「ねえねえ、仕事終わった?」
作業着なうえに、薄らと洗剤の匂いがする。
今まで掃除屋、ハウスクリーニングの仕事をしていたのだろう。
「…………まだある」
無視の1つでもしてやりたい相手だが、生憎、無視の効果が得られない相手でもある。
出会ったばかりの頃は無言でやり過ごそうとしていた上尾だが、最近ではもう諦めて、言葉を交わしてやることにしていた。
「じゃあ休憩か。ちょっと待っててよ、ボクもなんか頼んでくるから」
「……帰れ」
「満席だから、相席させてよー。いいじゃん未来の恋人なんだし」
「……」
了承も得ないまま、小樋井はひらりと身を翻し、店内のレジカウンターへと向かう。
何が未来の恋人だ。お前の場合、恋人になった時点でそいつは死体になるだろう。
突っ込みどころなどいくらでもあったが、付き合いたくない上尾がそれらの言葉をあげることはなかった。
***
数分後、商品の乗ったトレーを片手に小樋井が席へ戻ってきた。
「おまたせー。相変わらず食べるの早いね」
もっとゆっくり食べた方が人間はいいんでしょと、テーブルに荷物を置き、対面席に座る。
「今日は暑いっぽいよね。熱中症…日射病…?とかになるんでしょ?」
「……」
「水分が無いと生きていけないみたいだから、気を付けてね」
「……」
上尾は言葉を聞き流しながら、半分ほどに減ったハニートーストを黙々と食べ進める。
ナイフを入れる度に、さくっと、小さく香ばしい音が立つ。
表情ひとつ変えずに、上尾は甘い塊を、淡々と口に運ぶ。
「……くどそう。ってのは良くわからないけど、多分くどそう」
食べ合わせに引いているでもなく、咎めるでもなく、単に感想を呟いたような声音だ。
ミルクココアにハニートースト。
小樋井には人間の味覚の、細かい感覚までは解らない。
今まで関わってきた人間の反応からみて、この組み合わせは「くどい」のではないかと思っただけだ。
「……別に、くどくは無い」
甘味で舌が麻痺している事に気が付いていない上尾が、何でもないように答えた。
「無いならいいけど、でも虫歯とか病気とかならないでね」
その心配のような言葉は、どこから生まれているのか。
何も答えない上尾にへらりと笑いかけ、小樋井が自分の注文に手を付け始める。
水滴がついたグラスの中には、たっぷりの氷によく冷やされたコーヒー。
隣の小さな皿には、濃いカフェオレ色のスポンジケーキで、薄い同色のクリームが捲かれている。期間限定のコーヒーロールだった。
ガムシロップもミルクも入れていない、透明度の高い黒色を、小樋井は美味しそうに飲み込んだ。
続けてコーヒーロールも1口食べると、甘さの中に少し苦味を感じて、これは美味しいのだと感じる。
「……」
黙ったまま、こちらに苦そうな目を向けている男に気が付いて、一口食べる?とからかうように聞いた。
「……いい」
「掃除屋さん、コーヒー嫌いだからって、コーヒーロールまで警戒するのはどうかと思うよ」
これは、本当のことだった。
上尾は小樋井を警戒したのではなく、珈琲の苦味を警戒した。
「……苦いんだろ。前にゼリーに騙された」
最低でも30年は生きていそうなこの人間は、コーヒーゼリーに躓いたせいで、コーヒー風味の菓子類を他に食べたことが今まで無いのだろうか。
知れば知る程、上尾零次は小樋井が出会った人間の中でも、随分と特殊な存在のような気がする。
だからこそ、現在一番気に入っている存在なのかもしれないが。
「苦いのが嫌?」
「……苦味は喰わなくても生きていける」
「でも、前に作ってあげたピーマンの肉詰めは残さなかったよね」
「…………あれは、ソースが甘かった」
上尾は目を逸らし、アイスココアを啜っている。
コーヒーの苦味とピーマンの苦味、何が違うのだろう。
ソースの理屈でいえば、砂糖を入れればコーヒーだって飲めるし、コーヒーゼリー以外なら食べられるのではないのか。
「……掃除屋さんって、結構子供っぽいよね」
「お前に言われたくない……俺は帰るからな」
「えっ、いつの間に食べ終わってたの」
「……」
お前が喋っている間、とは答えず無言で帰り支度を始め、トレーを返しに立ち上がる。
「もう行っちゃうのー?まあ、仕事なら仕方ないか」
小樋井は残念そうに苦笑して、まだ半分以上残っているコーヒーロールにフォークを刺す。
「そうだ、掃除屋さん。この後の仕事はお家相手?それとも、人間相手?」
笑顔のまま、読めない目を向ける小樋井に、上尾が光の灯らない目を返した。
言うわけないだろう、と無言で返した。
「あはは、ごめん。どっちでも邪魔はしないから。じゃあ、バイバイ。気を付けてね」
ひらひらと手を振り、小樋井はフォークを口に運んだ。
特に反応を返すことなく、上尾はその場を立ち去った。
その「気を付けてね」は、何に対してなのか。
接すれば接する程、小樋井嘉良という存在が解らなかった。
しかし、その得体のしれない存在を、拒絶しきらない自分自身が、上尾は一番解らなかった。
日よけのパラソルが、強い日差しを遮ぎり、その男──上尾に影を落とす。
クーラーの効いた店内は満席で、唯一空いた席がそこだった。
洒落た雰囲気の店では浮いてしまうような、紺色の作業着のまま注文をし、その注文内容と男の身なりとの差に向けられる、周囲の好奇の目にも無関心で着席した。
冷房にも、周囲の人間にも、店の雰囲気にも、何一つ執着はない。
何かあるとすれば、今、上尾の目の前のテーブルに置かれているものだろうか。
水滴がついたグラスの中には、たっぷりの氷によく冷やされたミルクココア。
上には生クリームが渦を巻き、チョコレートシロップがかかっている。
隣の大きな皿には、こんがりと焼かれた、小麦色の分厚い食パン。
上には丸いバニラアイス、更に黄金色の蜂蜜が贅沢に垂らされている。この店の名物のハニートーストだった。
ちょうど近所での作業だったので、仕事の合間の昼休憩にこの喫茶店を選んだ。
さっそくと、フォークとナイフに上尾が手を伸ばした、その時。
「あれ、掃除屋さんっぽい人がいる……ああっ!掃除屋さんだ!!」
聞きなれてしまった騒がしい声が、テラス席を区切る柵の外から響く。
上尾が反応する暇もなく、声の主が駆け足でやってきた。
「おはよ、掃除屋さん。運命だね!」
天然か意図的にか、羽のような軽さで発せられた大袈裟な挨拶と共に。
なるべくなら出会わない方が有り難い存在が、上尾のすぐ横に躍り出た。
「……厄日だな」
「アンが0%のラッキーデーだよ」
「そう思うのはお前だけだ」
上尾の冷たい物言いに、傷一つ付いた様子の無い若者が、にんまりと笑う。
人懐っこそうな笑顔を浮かべた若者──小樋井は脚を曲げて、座る上尾に目線を合わせる。
「ねえねえ、仕事終わった?」
作業着なうえに、薄らと洗剤の匂いがする。
今まで掃除屋、ハウスクリーニングの仕事をしていたのだろう。
「…………まだある」
無視の1つでもしてやりたい相手だが、生憎、無視の効果が得られない相手でもある。
出会ったばかりの頃は無言でやり過ごそうとしていた上尾だが、最近ではもう諦めて、言葉を交わしてやることにしていた。
「じゃあ休憩か。ちょっと待っててよ、ボクもなんか頼んでくるから」
「……帰れ」
「満席だから、相席させてよー。いいじゃん未来の恋人なんだし」
「……」
了承も得ないまま、小樋井はひらりと身を翻し、店内のレジカウンターへと向かう。
何が未来の恋人だ。お前の場合、恋人になった時点でそいつは死体になるだろう。
突っ込みどころなどいくらでもあったが、付き合いたくない上尾がそれらの言葉をあげることはなかった。
***
数分後、商品の乗ったトレーを片手に小樋井が席へ戻ってきた。
「おまたせー。相変わらず食べるの早いね」
もっとゆっくり食べた方が人間はいいんでしょと、テーブルに荷物を置き、対面席に座る。
「今日は暑いっぽいよね。熱中症…日射病…?とかになるんでしょ?」
「……」
「水分が無いと生きていけないみたいだから、気を付けてね」
「……」
上尾は言葉を聞き流しながら、半分ほどに減ったハニートーストを黙々と食べ進める。
ナイフを入れる度に、さくっと、小さく香ばしい音が立つ。
表情ひとつ変えずに、上尾は甘い塊を、淡々と口に運ぶ。
「……くどそう。ってのは良くわからないけど、多分くどそう」
食べ合わせに引いているでもなく、咎めるでもなく、単に感想を呟いたような声音だ。
ミルクココアにハニートースト。
小樋井には人間の味覚の、細かい感覚までは解らない。
今まで関わってきた人間の反応からみて、この組み合わせは「くどい」のではないかと思っただけだ。
「……別に、くどくは無い」
甘味で舌が麻痺している事に気が付いていない上尾が、何でもないように答えた。
「無いならいいけど、でも虫歯とか病気とかならないでね」
その心配のような言葉は、どこから生まれているのか。
何も答えない上尾にへらりと笑いかけ、小樋井が自分の注文に手を付け始める。
水滴がついたグラスの中には、たっぷりの氷によく冷やされたコーヒー。
隣の小さな皿には、濃いカフェオレ色のスポンジケーキで、薄い同色のクリームが捲かれている。期間限定のコーヒーロールだった。
ガムシロップもミルクも入れていない、透明度の高い黒色を、小樋井は美味しそうに飲み込んだ。
続けてコーヒーロールも1口食べると、甘さの中に少し苦味を感じて、これは美味しいのだと感じる。
「……」
黙ったまま、こちらに苦そうな目を向けている男に気が付いて、一口食べる?とからかうように聞いた。
「……いい」
「掃除屋さん、コーヒー嫌いだからって、コーヒーロールまで警戒するのはどうかと思うよ」
これは、本当のことだった。
上尾は小樋井を警戒したのではなく、珈琲の苦味を警戒した。
「……苦いんだろ。前にゼリーに騙された」
最低でも30年は生きていそうなこの人間は、コーヒーゼリーに躓いたせいで、コーヒー風味の菓子類を他に食べたことが今まで無いのだろうか。
知れば知る程、上尾零次は小樋井が出会った人間の中でも、随分と特殊な存在のような気がする。
だからこそ、現在一番気に入っている存在なのかもしれないが。
「苦いのが嫌?」
「……苦味は喰わなくても生きていける」
「でも、前に作ってあげたピーマンの肉詰めは残さなかったよね」
「…………あれは、ソースが甘かった」
上尾は目を逸らし、アイスココアを啜っている。
コーヒーの苦味とピーマンの苦味、何が違うのだろう。
ソースの理屈でいえば、砂糖を入れればコーヒーだって飲めるし、コーヒーゼリー以外なら食べられるのではないのか。
「……掃除屋さんって、結構子供っぽいよね」
「お前に言われたくない……俺は帰るからな」
「えっ、いつの間に食べ終わってたの」
「……」
お前が喋っている間、とは答えず無言で帰り支度を始め、トレーを返しに立ち上がる。
「もう行っちゃうのー?まあ、仕事なら仕方ないか」
小樋井は残念そうに苦笑して、まだ半分以上残っているコーヒーロールにフォークを刺す。
「そうだ、掃除屋さん。この後の仕事はお家相手?それとも、人間相手?」
笑顔のまま、読めない目を向ける小樋井に、上尾が光の灯らない目を返した。
言うわけないだろう、と無言で返した。
「あはは、ごめん。どっちでも邪魔はしないから。じゃあ、バイバイ。気を付けてね」
ひらひらと手を振り、小樋井はフォークを口に運んだ。
特に反応を返すことなく、上尾はその場を立ち去った。
その「気を付けてね」は、何に対してなのか。
接すれば接する程、小樋井嘉良という存在が解らなかった。
しかし、その得体のしれない存在を、拒絶しきらない自分自身が、上尾は一番解らなかった。
