夜空に明星
小学生の頃、黒瀬がバレンタインデーにチョコレートを貰った事があった。
その時、チョコを渡した人物が誰なのか、どんな事を言ったのか、どんなつもりで渡したのか、羽山は知らない。
渡した瞬間は見ていない。
一緒に帰ろうとした黒瀬が見当たらず、教室で待っていたら、チョコレートを持って帰ってきただけだ。
いかにも手作りで、きっと相手はお菓子作りが得意なんだろうなと思うような出来で。
透明なビニールで包まれた、小さなハートのガトーショコラ。
ラッピングの赤いリボンが妙に目立って、羽山は胸がざわざわした。
「待たせてごめん。帰ろう皐」
いつもと変わらない黒瀬の態度なのに、不安で。
「うん……はやく帰ろう」
チョコレートについては何も聞かないまま帰った。聞きたくなかった。
***
その日も、家に帰った後すぐに羽山は黒瀬の家へ遊びに行った。
会いたいような、会いたくないような、変な気持ちのまま。
いつも通り、2階にある黒瀬の自室へ行った。
行ったら机の上に、あのガトーショコラがあった。
やっぱり赤いリボンが、目について、胸が騒いで。
「ジュースとってくる」
黒瀬が1階へ降りて、部屋には羽山だけが残されて、目の前の机の上には。
──赤いリボンが結んである部分を掴んで、床にたたきつけた
ビニールの中でハートが半分崩れて、ボロボロになった。中身はこぼれなかった。
それでも、羽山の胸のざわつきは収まらなかったし、ざらついた感情は消えない。
中身がはみ出ない程度に、崩れたハートを足で踏んだ。
当時はその感情が何なのかわからなかった。
***
***
──小学生の頃、皐がケーキを叩き潰した、いや踏み潰したことがあった。
黒瀬は当時を思い出す。
飲み物をとって部屋に戻ると、いきなり羽山に謝られた。
──落として踏んだ。ごめん光ちゃん。
思い詰めたような顔でそんな事をいうから、黒瀬はてっきり「そんな顔するほどこのケーキが食べたかったのか」と思った。
黒瀬は貰ったチョコケーキを、羽山と2人で食べようと思っていたのだ。
貰った時に、相手の女子から何か言われたが、現在では内容を覚えていないし、顔も名前も忘れた。
結局、潰れたケーキは食べずに捨ててしまったし、その日は代わりのお菓子として駄菓子のコインチョコを2人で食べた。
羽山が帰った後で、うっかりでなる状態じゃないなと黒瀬は思い至った。
──あの時の皐は……どんな感情だったのだろう。今の俺みたいな感じだろうか。
誰かに、皐に渡しておいて欲しいと押し付けられた、白いリボンが結ばれた青色の小箱と、手紙。
鞄の中に入っているそれを、黒瀬はじっと見つめる。
──今すぐにでも床に叩きつけたいし、踏み潰してやりたいし、捨ててやりたい。
この、ざらざらとして粘ついたような感情を、当時の皐は持っていたのだろうか。
だとしたら、やっぱり皐は綺麗なんだろう。
俺なんかの為に、そんな感情を抱いてくれるのだから。
早く皐の部活が終わってほしいと、黒瀬は待ち遠しい気分になった。
***
部活が終わり、黒瀬が待っている空き教室まで羽山が迎えに来た。
この周囲には2人以外、もう誰も居ない。
「お待たせ、遅くなった」
「いや……」
本を読んでいた黒瀬は、羽山の手元を見て、血が冷えるような感覚がした。
「……それ」
「ん?ああ、部活の子達から貰ったんだー」
羽山が持つ紙袋の中には、紙製の小箱や可愛らしいのビニールの包みが数個入っている。
「……バレンタイン?」
紙袋の中身に対する、暴力的な衝動を抑え込みながら、静かに尋ねた。
「うん、そうだよ。凄いよね、部員全員に作ったんだって」
「……」
その言葉で、一旦心を落ち着ける。
義理チョコ、友チョコ、本命じゃない。それでも気に入らないが。
「ああ、それと……これは光ちゃんに」
紙袋ではなく、学生鞄の中から羽山が箱を取り出す。
真っ赤な箱に、金色のリボン。
箱を一瞥した黒瀬が問う。
「…………これは皐から?」
「……いいや、違うよ」
「そうか、ならいらない」
「……」
その、無味透明な返答に、羽山が微笑む。
満足気に。前髪に隠された瞳を歪ませて。
「でも光ちゃん、一応は貰い物だし、お礼くらいは言った方がいいよ」
「なんで……俺は貰ってない」
「そりゃ受け取ってないけど、僕が渡すって言っちゃったし」
「……言わなければよかっただろ」
「そこはごめんと思うけど、その子の気持ちも考えてやんなよー」
羽山はそう言うが、"その子"への思いやりや気遣いなどは1ミリも含まれていなさそうな、軽薄で明るい声だ。
黒瀬は、理解はできている。皐が周囲と上手く付き合っているおかげで、2人の学生生活は比較的平和なのだと。
だから、自分がそれを妨害しては、皐の努力が無駄になってしまう。
「……受け取らない。でも礼は言っておく」
「うんうん。それがいいよ」
「……皐、これ」
黒瀬は鞄から小箱と手紙を取り出して、羽山へと渡す。
本当は、渡したくなどないのだが。渡さなかった場合に起きるトラブルの方が厄介だろうと思った。
黒瀬は羽山を悪者にはしたくない。
「……光ちゃんから?」
「……お前は、解ってて言う」
「ごめんってば。まあ、手紙はざっと読むから。ちょっと待ってて」
「……」
一部に皺が出来ている手紙に、羽山が目を通す。
誰かが指に力を込めなければ出来ない皺を、どこか愛おしげに想いながら。
「ふーん……」
対して興味もなさそうな、明るい呟きを残して、手紙は元通りに閉じられた。
「お待たせ光ちゃん、帰ろっか」
「……」
呼びかけられてもその場から動かずに、黒い目がじっと羽山を見つめている。
仕方がないなぁ、と、羽山が笑って黒瀬に近づき。
「ね、このチョコさぁ。帰ったら一緒に食べようよ」
無邪気にも、妖艶にも思える声が、黒瀬の耳元で響いた。
***
槻木沢のアパートには、羽山と黒瀬以外には誰も居ない。
槻木沢は仕事で留守にしている。
羽山の自室で、受け取ったチョコレートの箱や袋を床に並べて、2人はそれら前に座り込んでいた。
「まずは光ちゃんのから食べよっか」
「……どっちでもいい」
羽山の白い指が金色のリボンを解く。
赤い小箱の蓋を開けると、中には一口サイズの、ハート型のチョコレートが数個入っていた。
茶、白、ピンクの3種類。
羽山がピンク色、恐らくは苺味をつまみあげて、自分自身の口へ運ぶ。
唇で、チョコを柔く銜えて「ふぁい」と黒瀬に差し出す。
「……」
ああ、なるほど、と。
黒瀬が「一緒に食べよう」の意味を理解した。
膝立ちで移動し、顔を近づけて、羽山が銜えているチョコレートに歯を立て──ずに舌で押す。
僅かに驚くような気配がして、舌先には軽い抵抗感。
だが、すぐにチョコレートが羽山の口内へと押し込まれた。
黒瀬はそのまま、羽山と唇をあわせる。
「……ふ、ぅ」
2人の舌と舌の狭間で、まだ、チョコレートは固いまま。
甘い、作り物の苺の味が、体温と唾液に絡めとられて、ゆっくりゆっくり溶けていく。
少しづつ、力が抜けてきた羽山を、黒瀬が抱き寄せた。床に倒れたら危ない。
くちゅり、と湿った音が口の端から零れる。息苦しさの中に甘い味。
どちらも、目を閉じずにお互いを見ていた。
キスをするとあったかい。温かくて気持ちがいい。
「……はっ、……はぁ」
やがて、2人の中にあったチョコレートは溶けて消えた。
「……美味しかったね?」
「まあ、な……」
呼吸を乱しながら、お互いに微笑んだ。
「……光ちゃん、チョコはまだあるけど、どうする?」
「……」
黒瀬は黙って、青色の小箱を手に取り、引きちぎるようにリボンを解き、ゴミ箱に捨てる。近くに落ちていた手紙を踏んでいった。
「あ、酷いんだ」
様子を見ていた羽山がけらけらと笑う。
手紙を踏んだのはわざとではなく、うっかり踏んだだけなのだが。
「……皐、つづき」
その言葉に嬉しそうに笑って、羽山が黒瀬に抱き着いた。
***
***
この日の夜。
帰宅した槻木沢には、多量のチョコレートが待っていた。
明らかに開封された跡のある、小箱やビニール袋が卓上に並んでいる。
「これ叔父さんへのプレゼント」
「どう見てもお前らの食べ残しじゃねえか……」
「だって食べ飽きちゃって。ねぇ、光ちゃん」
「……チョコはもういい」
悪気の欠片もなく言い放つ羽山と黒瀬に、呆れたような声を出すが。
「まあ手伝うのはいいけどよ……折角貰ったんだ、日を分けて食べればいいだろ」
「……ああ!確かに!」
「……夢中になりすぎた」
「……」
──チョコを食べるのに集中しすぎて飽きたのか、幼い子供かお前たちは。
内心で突っ込みながら、槻木沢が箱の一つを開けて、ハート形のチョコを1粒食べる。
「結構美味いじゃないか」と、何も知らない叔父が笑った。
その時、チョコを渡した人物が誰なのか、どんな事を言ったのか、どんなつもりで渡したのか、羽山は知らない。
渡した瞬間は見ていない。
一緒に帰ろうとした黒瀬が見当たらず、教室で待っていたら、チョコレートを持って帰ってきただけだ。
いかにも手作りで、きっと相手はお菓子作りが得意なんだろうなと思うような出来で。
透明なビニールで包まれた、小さなハートのガトーショコラ。
ラッピングの赤いリボンが妙に目立って、羽山は胸がざわざわした。
「待たせてごめん。帰ろう皐」
いつもと変わらない黒瀬の態度なのに、不安で。
「うん……はやく帰ろう」
チョコレートについては何も聞かないまま帰った。聞きたくなかった。
***
その日も、家に帰った後すぐに羽山は黒瀬の家へ遊びに行った。
会いたいような、会いたくないような、変な気持ちのまま。
いつも通り、2階にある黒瀬の自室へ行った。
行ったら机の上に、あのガトーショコラがあった。
やっぱり赤いリボンが、目について、胸が騒いで。
「ジュースとってくる」
黒瀬が1階へ降りて、部屋には羽山だけが残されて、目の前の机の上には。
──赤いリボンが結んである部分を掴んで、床にたたきつけた
ビニールの中でハートが半分崩れて、ボロボロになった。中身はこぼれなかった。
それでも、羽山の胸のざわつきは収まらなかったし、ざらついた感情は消えない。
中身がはみ出ない程度に、崩れたハートを足で踏んだ。
当時はその感情が何なのかわからなかった。
***
***
──小学生の頃、皐がケーキを叩き潰した、いや踏み潰したことがあった。
黒瀬は当時を思い出す。
飲み物をとって部屋に戻ると、いきなり羽山に謝られた。
──落として踏んだ。ごめん光ちゃん。
思い詰めたような顔でそんな事をいうから、黒瀬はてっきり「そんな顔するほどこのケーキが食べたかったのか」と思った。
黒瀬は貰ったチョコケーキを、羽山と2人で食べようと思っていたのだ。
貰った時に、相手の女子から何か言われたが、現在では内容を覚えていないし、顔も名前も忘れた。
結局、潰れたケーキは食べずに捨ててしまったし、その日は代わりのお菓子として駄菓子のコインチョコを2人で食べた。
羽山が帰った後で、うっかりでなる状態じゃないなと黒瀬は思い至った。
──あの時の皐は……どんな感情だったのだろう。今の俺みたいな感じだろうか。
誰かに、皐に渡しておいて欲しいと押し付けられた、白いリボンが結ばれた青色の小箱と、手紙。
鞄の中に入っているそれを、黒瀬はじっと見つめる。
──今すぐにでも床に叩きつけたいし、踏み潰してやりたいし、捨ててやりたい。
この、ざらざらとして粘ついたような感情を、当時の皐は持っていたのだろうか。
だとしたら、やっぱり皐は綺麗なんだろう。
俺なんかの為に、そんな感情を抱いてくれるのだから。
早く皐の部活が終わってほしいと、黒瀬は待ち遠しい気分になった。
***
部活が終わり、黒瀬が待っている空き教室まで羽山が迎えに来た。
この周囲には2人以外、もう誰も居ない。
「お待たせ、遅くなった」
「いや……」
本を読んでいた黒瀬は、羽山の手元を見て、血が冷えるような感覚がした。
「……それ」
「ん?ああ、部活の子達から貰ったんだー」
羽山が持つ紙袋の中には、紙製の小箱や可愛らしいのビニールの包みが数個入っている。
「……バレンタイン?」
紙袋の中身に対する、暴力的な衝動を抑え込みながら、静かに尋ねた。
「うん、そうだよ。凄いよね、部員全員に作ったんだって」
「……」
その言葉で、一旦心を落ち着ける。
義理チョコ、友チョコ、本命じゃない。それでも気に入らないが。
「ああ、それと……これは光ちゃんに」
紙袋ではなく、学生鞄の中から羽山が箱を取り出す。
真っ赤な箱に、金色のリボン。
箱を一瞥した黒瀬が問う。
「…………これは皐から?」
「……いいや、違うよ」
「そうか、ならいらない」
「……」
その、無味透明な返答に、羽山が微笑む。
満足気に。前髪に隠された瞳を歪ませて。
「でも光ちゃん、一応は貰い物だし、お礼くらいは言った方がいいよ」
「なんで……俺は貰ってない」
「そりゃ受け取ってないけど、僕が渡すって言っちゃったし」
「……言わなければよかっただろ」
「そこはごめんと思うけど、その子の気持ちも考えてやんなよー」
羽山はそう言うが、"その子"への思いやりや気遣いなどは1ミリも含まれていなさそうな、軽薄で明るい声だ。
黒瀬は、理解はできている。皐が周囲と上手く付き合っているおかげで、2人の学生生活は比較的平和なのだと。
だから、自分がそれを妨害しては、皐の努力が無駄になってしまう。
「……受け取らない。でも礼は言っておく」
「うんうん。それがいいよ」
「……皐、これ」
黒瀬は鞄から小箱と手紙を取り出して、羽山へと渡す。
本当は、渡したくなどないのだが。渡さなかった場合に起きるトラブルの方が厄介だろうと思った。
黒瀬は羽山を悪者にはしたくない。
「……光ちゃんから?」
「……お前は、解ってて言う」
「ごめんってば。まあ、手紙はざっと読むから。ちょっと待ってて」
「……」
一部に皺が出来ている手紙に、羽山が目を通す。
誰かが指に力を込めなければ出来ない皺を、どこか愛おしげに想いながら。
「ふーん……」
対して興味もなさそうな、明るい呟きを残して、手紙は元通りに閉じられた。
「お待たせ光ちゃん、帰ろっか」
「……」
呼びかけられてもその場から動かずに、黒い目がじっと羽山を見つめている。
仕方がないなぁ、と、羽山が笑って黒瀬に近づき。
「ね、このチョコさぁ。帰ったら一緒に食べようよ」
無邪気にも、妖艶にも思える声が、黒瀬の耳元で響いた。
***
槻木沢のアパートには、羽山と黒瀬以外には誰も居ない。
槻木沢は仕事で留守にしている。
羽山の自室で、受け取ったチョコレートの箱や袋を床に並べて、2人はそれら前に座り込んでいた。
「まずは光ちゃんのから食べよっか」
「……どっちでもいい」
羽山の白い指が金色のリボンを解く。
赤い小箱の蓋を開けると、中には一口サイズの、ハート型のチョコレートが数個入っていた。
茶、白、ピンクの3種類。
羽山がピンク色、恐らくは苺味をつまみあげて、自分自身の口へ運ぶ。
唇で、チョコを柔く銜えて「ふぁい」と黒瀬に差し出す。
「……」
ああ、なるほど、と。
黒瀬が「一緒に食べよう」の意味を理解した。
膝立ちで移動し、顔を近づけて、羽山が銜えているチョコレートに歯を立て──ずに舌で押す。
僅かに驚くような気配がして、舌先には軽い抵抗感。
だが、すぐにチョコレートが羽山の口内へと押し込まれた。
黒瀬はそのまま、羽山と唇をあわせる。
「……ふ、ぅ」
2人の舌と舌の狭間で、まだ、チョコレートは固いまま。
甘い、作り物の苺の味が、体温と唾液に絡めとられて、ゆっくりゆっくり溶けていく。
少しづつ、力が抜けてきた羽山を、黒瀬が抱き寄せた。床に倒れたら危ない。
くちゅり、と湿った音が口の端から零れる。息苦しさの中に甘い味。
どちらも、目を閉じずにお互いを見ていた。
キスをするとあったかい。温かくて気持ちがいい。
「……はっ、……はぁ」
やがて、2人の中にあったチョコレートは溶けて消えた。
「……美味しかったね?」
「まあ、な……」
呼吸を乱しながら、お互いに微笑んだ。
「……光ちゃん、チョコはまだあるけど、どうする?」
「……」
黒瀬は黙って、青色の小箱を手に取り、引きちぎるようにリボンを解き、ゴミ箱に捨てる。近くに落ちていた手紙を踏んでいった。
「あ、酷いんだ」
様子を見ていた羽山がけらけらと笑う。
手紙を踏んだのはわざとではなく、うっかり踏んだだけなのだが。
「……皐、つづき」
その言葉に嬉しそうに笑って、羽山が黒瀬に抱き着いた。
***
***
この日の夜。
帰宅した槻木沢には、多量のチョコレートが待っていた。
明らかに開封された跡のある、小箱やビニール袋が卓上に並んでいる。
「これ叔父さんへのプレゼント」
「どう見てもお前らの食べ残しじゃねえか……」
「だって食べ飽きちゃって。ねぇ、光ちゃん」
「……チョコはもういい」
悪気の欠片もなく言い放つ羽山と黒瀬に、呆れたような声を出すが。
「まあ手伝うのはいいけどよ……折角貰ったんだ、日を分けて食べればいいだろ」
「……ああ!確かに!」
「……夢中になりすぎた」
「……」
──チョコを食べるのに集中しすぎて飽きたのか、幼い子供かお前たちは。
内心で突っ込みながら、槻木沢が箱の一つを開けて、ハート形のチョコを1粒食べる。
「結構美味いじゃないか」と、何も知らない叔父が笑った。
7/7ページ