夜空に明星
「光ちゃん、今日部活の人達に遊びに誘われたんだけど。光ちゃんも行かない?」
ホームルームが始まる少し前に、羽山が黒瀬の席にやって来て声をかける。
黒瀬は表情一つ変えずに、数秒沈黙した後。
「……行かない」
という答えを出した。
「……そう?じゃあ、はいこれ」
羽山は鞄のポケットから取り出した自宅の鍵を、黒瀬に手渡した。
「先に帰って、待ってて光ちゃん。今日は叔父さんも居るはずだから」
「…………わかった」
鍵を受け取り、自分の席に戻る羽山を見送る。
席に座ると、すぐ隣と斜め後ろの人間が羽山に声をかけていた。
同じ演劇部──だったような気がしたが、黒瀬はメンバーの顔など正確に覚えていない。
前髪に隠された目元は解らないが、羽山の口元は笑っている。
談笑する羽山達を、離れた席から黒瀬はずっと見ていた。
***
羽山が黒瀬以外の人間と遊びに行くことは、何もこれが初めてではない。
黒瀬が「行かない」といえば、大半は羽山も遊びに行かない。
ただ時々。時々、羽山は黒瀬ではなく他の付き合いを取る。
それは、羽山が人生の中で生み出した処世術だ。
付き合いが悪くならない程度の頃合いを見計らって、黒瀬以外と交流する。
明るくて、誰とでも軽く交流できる、居ても居なくても迷惑にならない存在。
それが、羽山の選んだ演じ方だった。
黒瀬の方も、同級生に誘われた羽山に同行した事があった。
しかし、人混みが嫌いで、羽山以外の人間はどうでも良いと感じる黒瀬は周囲に馴染めない。
話しかけられて無視こそしないが、自分からは一切話をしない。
ああいう遊びの場には、居ない方がありがたい人間なのだと、黒瀬自身が理解していた。
羽山の、正しくは槻木沢の住むアパートの前に着き、黒瀬は受け取った鍵を握りしめながら。
槻木沢の部屋の、玄関扉の前で。躊躇うように動きを止めていた。
同級生と談笑する羽山の姿が、いつまでたっても頭から消えないまま。
それでも他に取れる選択肢がない黒瀬は、扉の鍵を開けるしかなかった。
***
ガチャリ、と控えめながらもはっきりと耳に届く金属音。
玄関の鍵が開いた音だ。甥が返ってきたのだろうと、リビングで雑誌を読んでいた槻木沢が、扉に顔を向ける。
「お帰り、さつ……」
開いた扉の向こうに居たのは、槻木沢の予想と違う姿だ。
「ああ、光か。お帰り」
「…………お邪魔します」
ただいま、とは返せない黒瀬が、静かに家に入ってくる。
「おう。皐は部活だったか」
その声には、いつもは2人一緒なのに珍しいなという響きが混じっている。
「……違う」
否定だけして、黒瀬はそれ以上語らない。
「そうか。晩飯までには帰ってくるのか?」
「…………多分。わからないけど」
「……まあ、よっぽど遅くならなきゃいい。何か飲むか、光?」
「いい」
言葉少なに、ぽつぽつと返答をしながら黒瀬が荷物を部屋の端に降ろす。
そのまま、ソファを背もたれにして床に座り込んだ。
「……」
膝を抱えるようにして、ぼんやりと床に目を向けている。
テレビに映る、夕方前のワイドショーに意識は向いていない。
ぺら、と雑誌を捲る音の合間に、槻木沢はその様子を見ていた。
「テレビ、好きに変えて良いんだぞ」
「……別にいい」
「……」
相変わらずの無表情で、そっけなく返事をされた。
(──流石に喧嘩したってわけじゃなさそうだがな)
槻木沢には、黒瀬が落ち込んでいるように見えた。
羽山も黒瀬も、喧嘩をしあうような性格ではない。
仮に喧嘩していたとすれば、黒瀬は此処に来ないだろう。
一人で帰って来たのは、恐らく、皐に他の付き合いがあったのだろう。
「……なあ、暇なら付き合ってくれよ」
唐突にそう言われて、黒瀬が顔をあげた。
何に?と怪訝な表情を浮かべる。
「ゲーム。スーファミの、2人プレイ出来るのがあるだろ」
「……何で?」
「俺がやりたいから」
「……」
別に自分じゃなくても、一人か、皐が帰ってきてから2人でやればいいのにと黒瀬は思ったが。
無言でその場から立ち上がり、テレビ台の下にある、年季の入ったゲーム機を引っ張り出した。
「……大人でもゲームするんだ」
「するさ、たまにはな」
***
テレビ画面の中で、2匹の子ザルのキャラクターが動いている。
正確にはチンパンジーとゴリラらしいと、操作の合間の雑談で槻木沢が言った。
カチカチ、カチッ、とボタンを押す音が、バラバラのタイミングで聞こえる。
テレビからは軽快な音楽、BGMが流れている。
それ以外の音は、大人しい。
「……千尋さん、そこ、柱の陰に」
「ん、何かあるのか」
「ボーナスステージ」
普段、羽山と黒瀬に比べれば口数の多い槻木沢だが、ゲーム中は意外と静かだ。
どうせなら1から始めたいという槻木沢の為に、新しいデータを作った。
1人プレイ用、羽山と黒瀬の2人でプレイ用。
この真新しいデータは、槻木沢と黒瀬用だった。
「お前、こういうのよく見つけるなぁ」
「……此処の面、もうクリアしてる」
「いや?皐とやってる時も先に見つけてただろ」
「……偶然見つけただけだから」
「勘が働くってのはいいことだ」
低音だが、からっとして快活な声が笑う。
それからは、また静かに子ザルの冒険を進めていく。
会話が弾むわけではない、時折ぽつぽつ言葉を交わすだけ。
それでも、黒瀬は気まずさを感じなかった。
幼い頃から、ある程度は見知った相手だから、なのかもしれない。
「……光、夕飯はなにが食いたい?」
「……皐が言ったもので良い」
「はは、あいつも同じこと言うだろうな」
「……」
──光ちゃんが食べたいものにしようよ、ね、叔父さん!
──そう、言うだろう。言ってくれるだろう、こんな俺に。
羽山は、そういう存在なのだと。黒瀬は、わかっている。
だからこそ、時々不安で仕方がなくなる。
今は自分に向いている目や心が、別の所に向くことが。
もしも、皐を失ったとしたら、俺は──。
「まあ、皐が帰ったら考えるか」
晴れの日に吹く、風のような声に黒瀬の意識が引き戻される。
「……そうする」
「ああ。……遊んでりゃすぐだ、光」
「……」
何故か、その言葉の中に。"まあ、心配すんなよ"という言葉が隠れている様な気がして。
隣の大人に、安心のような、拒絶したいような、表現しがたい感情を覚えた。
ホームルームが始まる少し前に、羽山が黒瀬の席にやって来て声をかける。
黒瀬は表情一つ変えずに、数秒沈黙した後。
「……行かない」
という答えを出した。
「……そう?じゃあ、はいこれ」
羽山は鞄のポケットから取り出した自宅の鍵を、黒瀬に手渡した。
「先に帰って、待ってて光ちゃん。今日は叔父さんも居るはずだから」
「…………わかった」
鍵を受け取り、自分の席に戻る羽山を見送る。
席に座ると、すぐ隣と斜め後ろの人間が羽山に声をかけていた。
同じ演劇部──だったような気がしたが、黒瀬はメンバーの顔など正確に覚えていない。
前髪に隠された目元は解らないが、羽山の口元は笑っている。
談笑する羽山達を、離れた席から黒瀬はずっと見ていた。
***
羽山が黒瀬以外の人間と遊びに行くことは、何もこれが初めてではない。
黒瀬が「行かない」といえば、大半は羽山も遊びに行かない。
ただ時々。時々、羽山は黒瀬ではなく他の付き合いを取る。
それは、羽山が人生の中で生み出した処世術だ。
付き合いが悪くならない程度の頃合いを見計らって、黒瀬以外と交流する。
明るくて、誰とでも軽く交流できる、居ても居なくても迷惑にならない存在。
それが、羽山の選んだ演じ方だった。
黒瀬の方も、同級生に誘われた羽山に同行した事があった。
しかし、人混みが嫌いで、羽山以外の人間はどうでも良いと感じる黒瀬は周囲に馴染めない。
話しかけられて無視こそしないが、自分からは一切話をしない。
ああいう遊びの場には、居ない方がありがたい人間なのだと、黒瀬自身が理解していた。
羽山の、正しくは槻木沢の住むアパートの前に着き、黒瀬は受け取った鍵を握りしめながら。
槻木沢の部屋の、玄関扉の前で。躊躇うように動きを止めていた。
同級生と談笑する羽山の姿が、いつまでたっても頭から消えないまま。
それでも他に取れる選択肢がない黒瀬は、扉の鍵を開けるしかなかった。
***
ガチャリ、と控えめながらもはっきりと耳に届く金属音。
玄関の鍵が開いた音だ。甥が返ってきたのだろうと、リビングで雑誌を読んでいた槻木沢が、扉に顔を向ける。
「お帰り、さつ……」
開いた扉の向こうに居たのは、槻木沢の予想と違う姿だ。
「ああ、光か。お帰り」
「…………お邪魔します」
ただいま、とは返せない黒瀬が、静かに家に入ってくる。
「おう。皐は部活だったか」
その声には、いつもは2人一緒なのに珍しいなという響きが混じっている。
「……違う」
否定だけして、黒瀬はそれ以上語らない。
「そうか。晩飯までには帰ってくるのか?」
「…………多分。わからないけど」
「……まあ、よっぽど遅くならなきゃいい。何か飲むか、光?」
「いい」
言葉少なに、ぽつぽつと返答をしながら黒瀬が荷物を部屋の端に降ろす。
そのまま、ソファを背もたれにして床に座り込んだ。
「……」
膝を抱えるようにして、ぼんやりと床に目を向けている。
テレビに映る、夕方前のワイドショーに意識は向いていない。
ぺら、と雑誌を捲る音の合間に、槻木沢はその様子を見ていた。
「テレビ、好きに変えて良いんだぞ」
「……別にいい」
「……」
相変わらずの無表情で、そっけなく返事をされた。
(──流石に喧嘩したってわけじゃなさそうだがな)
槻木沢には、黒瀬が落ち込んでいるように見えた。
羽山も黒瀬も、喧嘩をしあうような性格ではない。
仮に喧嘩していたとすれば、黒瀬は此処に来ないだろう。
一人で帰って来たのは、恐らく、皐に他の付き合いがあったのだろう。
「……なあ、暇なら付き合ってくれよ」
唐突にそう言われて、黒瀬が顔をあげた。
何に?と怪訝な表情を浮かべる。
「ゲーム。スーファミの、2人プレイ出来るのがあるだろ」
「……何で?」
「俺がやりたいから」
「……」
別に自分じゃなくても、一人か、皐が帰ってきてから2人でやればいいのにと黒瀬は思ったが。
無言でその場から立ち上がり、テレビ台の下にある、年季の入ったゲーム機を引っ張り出した。
「……大人でもゲームするんだ」
「するさ、たまにはな」
***
テレビ画面の中で、2匹の子ザルのキャラクターが動いている。
正確にはチンパンジーとゴリラらしいと、操作の合間の雑談で槻木沢が言った。
カチカチ、カチッ、とボタンを押す音が、バラバラのタイミングで聞こえる。
テレビからは軽快な音楽、BGMが流れている。
それ以外の音は、大人しい。
「……千尋さん、そこ、柱の陰に」
「ん、何かあるのか」
「ボーナスステージ」
普段、羽山と黒瀬に比べれば口数の多い槻木沢だが、ゲーム中は意外と静かだ。
どうせなら1から始めたいという槻木沢の為に、新しいデータを作った。
1人プレイ用、羽山と黒瀬の2人でプレイ用。
この真新しいデータは、槻木沢と黒瀬用だった。
「お前、こういうのよく見つけるなぁ」
「……此処の面、もうクリアしてる」
「いや?皐とやってる時も先に見つけてただろ」
「……偶然見つけただけだから」
「勘が働くってのはいいことだ」
低音だが、からっとして快活な声が笑う。
それからは、また静かに子ザルの冒険を進めていく。
会話が弾むわけではない、時折ぽつぽつ言葉を交わすだけ。
それでも、黒瀬は気まずさを感じなかった。
幼い頃から、ある程度は見知った相手だから、なのかもしれない。
「……光、夕飯はなにが食いたい?」
「……皐が言ったもので良い」
「はは、あいつも同じこと言うだろうな」
「……」
──光ちゃんが食べたいものにしようよ、ね、叔父さん!
──そう、言うだろう。言ってくれるだろう、こんな俺に。
羽山は、そういう存在なのだと。黒瀬は、わかっている。
だからこそ、時々不安で仕方がなくなる。
今は自分に向いている目や心が、別の所に向くことが。
もしも、皐を失ったとしたら、俺は──。
「まあ、皐が帰ったら考えるか」
晴れの日に吹く、風のような声に黒瀬の意識が引き戻される。
「……そうする」
「ああ。……遊んでりゃすぐだ、光」
「……」
何故か、その言葉の中に。"まあ、心配すんなよ"という言葉が隠れている様な気がして。
隣の大人に、安心のような、拒絶したいような、表現しがたい感情を覚えた。