夜空に明星
:叔父と甥:
「明日は、光は来るのか?」
それは問いかけではなく、確認のような言葉だ。
槻木沢は迷惑がる訳でもなく、身構えるでもなく、かといって過剰な歓迎の響きも無く。
明日の予定を確認する程度の、流れるような声だった。
「うん」
キッチンに向かう男の背中へと、肯定した羽山の声もまた同様だ。
「なら、多めに作っておくか。……あいつロールキャベツ平気か?」
「多分。嫌いって聞いたことない」
「そうか、わかった」
いつからここに黒瀬が泊まりに来ることが自然になったのか。
最初に泊まりに来たのは、羽山が高校に入学してすぐ、1週間もしない内に。
羽山の部活の無い日は殆ど遊びに来る。この家に泊らなかった月は無い。
そして、槻木沢が嫌な顔をしたことも一度も無かった。
「……」
羽山は居間のソファに黙って、叔父の背を眺めていた。
武骨な手が、キャベツを剥く。音が鳴る。きゅ、と擦れるような、瑞々しい音。
すとん、とソファから滑るように降りて、羽山は叔父へ近づいた。
「どうした」
戸棚から大鍋を取り出しながら、槻木沢は近づいた気配へと声をかける。
「……叔父さんさ」
「ん?」
「何も聞かないんだ」
言葉は随分と足りなかった。
何について、という主語の抜け落ちた問いかけ。
羽山の声は、軽かった。軽さを装って、乾燥したような声。
「なんだ、何か質問して欲しいのか?」
槻木沢の声も、軽やかだ。気負わない、風の様な声。
「別に、そんなんじゃないけど……」
聞いて欲しそうな空気を出していながら、矛盾している。
拗ねた子供のようで、何かを恐れているようで、甘えているような声だ。
「お前が何考えてるんだか知らないが、まあ、全部杞憂だ。取り越し苦労。ご苦労さんだ」
いつの間にか、叔父の料理は進んでいた。
この短い会話の合間に、ロールキャベツのタネまで作っている。
器用で、作業が早い。
そして、「何も心配するな」という、余裕のある表情。
大人に対する、嫉妬と安心が混ざり合った複雑な感情に後押しされるまま、羽山が口を開く。
「……いっつも呼んでるけど、いいの?」
誰を、とは聞かなくても、通じるだろう。
「俺の自室には入るなって約束、お前ら守ってんだから。文句ある訳ないだろうが」
現に通じていた。名前を出すことなく、お互いに意味は通じ合っていた。
「……これからも、光ちゃんを呼んでいい?」
そこで、槻木沢は調理の手を一度止めた。
向き合ってみると、随分と背の伸びた甥が其処に居る。
身体が成長して、けれども、幼い頃のような表情を前髪で隠して。
「……いいよ。何なら、あいつにいつでも来いって言っとけ」
俺が直接言ったって気にするだろうからよ、と槻木沢が笑った。
「…………ねえ、料理手伝っていい?」
僅かに俯いたままの羽山がぽつり、と呟いた。
「おう、助かる。速攻で髪縛ってこい」
「うん。……あの、叔父さん」
顔を上げた羽山は、小さな声でありがとうと言った。
:出会い:
槻木沢千尋との出会いは突然だった。
小学校の中学年になった辺り。
黒瀬がいつものように羽山と帰路につき、家に着いた時。
見知らぬ男が羽山の家の庭に立っていて、黒瀬はとても警戒した。
どうも善人には見えない人相をしていて、皐を守らなければならないと思った。
自分の後ろに羽山を隠そうとして、「あ、オジサンだ!」という、羽山の弾んだ声を聞いた。
「叔父さん!どうしたの?遊びに来たの?」
「おう、久しぶりだな。お帰り皐」
黒瀬が初対面で抱いた槻木沢への印象は、勝手な話ではあるが最悪だった。
人柄や見た目ではなく、ただ。
自分以外に、皐があんな風に駆け寄る事があるのだと。
あんな風に、嬉しそうな声を出すことがあるのだと。
あんな風に、笑いあう事があるのだと。
ただただ、黒瀬は全てに嫉妬したのだ。
2人の輪に、近づく事が出来ないまま門の辺りで立っていて──2人が黒瀬に気が付いた。
槻木沢から離れた羽山が、一番に駆け寄った。
「どうしたの光ちゃん?」
後を追うように、槻木沢が近づいた。
「……皐の友達か?」
「うん、光ちゃんだよ!」
「"光"っていうのか。俺は槻木沢千尋、皐の叔父さんだ。……これからも皐をよろしくな」
黒瀬の警戒は解けなかったし、今思えば、槻木沢にもそれは伝わっていたのだろう。
けれど、怖い顔の割には、温かい声をしていた記憶がある。
その後は、何か会話──訪れた理由だとか、皐の学校での話だとか──をしていた。
「義姉さん達は元気かと思って。用事のついでに、ちょっとな」
この時、黒瀬にはどこか、はぐらかすような、言い訳のような響きがあったように感じたが。
「皐が元気そうでよかったよ」
これだけは、何の混じり気もない言葉だと思えた。
少なくとも皐を傷つけようとする大人ではないのだと、黒瀬はそこだけは信用した。
帰る際に、槻木沢は1箱のポッキーを2人にくれた。
「仲良く食えよ、じゃあな」
からりと笑って、槻木沢は去って行った。
:呼び名:
"光ちゃん"というのは自分のあだ名だ。
皐にだけ許した呼び名。
自分の苗字も名前も好きになれなくて、その事を皐に話したらあだ名を提案されて、それからはずっと「こうちゃん」だ。
そういえば、千尋さんから呼ばれる時も「こう」だった。
確か初対面の時に、皐が「光ちゃん」呼びで紹介していたから。
もしかしたら、千尋さんは自分の本名を知らないのではないだろうか。
知っていても知らなくても、何も問題は無いのだけれど。
***
「お前の本名?知ってるよ、光一郎だろ?」
特に問題はないのだけれど、何となく気になって直接聞いてみた答えがこれだった。
「合ってる。皐に聞いた?」
「いや、昔ランドセルの名前カードが見えたから」
「……そう」
本名を知っていて、呼び方を直さなかったのは何故だろう。
直されても、困るし嫌なのだけど、疑問には思った。
「あー、もしかして嫌だったか?」
「……何が?」
「本名で呼ばないの。嫌がって無さそうだったんで、ついそのまま呼んじまってたけど」
「嫌じゃない。"こう"でいい」
千尋さんの言葉に被るように、声が出た。
少しだけ焦った、呼び方を変えられたらどうしようと思った。
嫌いなもので呼ばれたくない。
「おう、そうか?ならいい。光は"こう"だな」
どうでも良い他人に、「黒瀬光一郎」の名を呼ばれるのは構わない。あだ名で呼ばれる事も望まない。
皐が「光ちゃん」と呼んでくれるだけで、十分なのに。
どうして、千尋さんにもあだ名で呼ばれる事を望むのだろう。
自分の一番は、皐だけなのに。
:罪悪感と生きる人:
「ねえ、叔父さんはさぁ。僕が生まれなければ良かったって思った?」
ソファーに座る甥から投げかけられた言葉に、心臓が凍り付くような感覚がした。
「思ったでしょ」
長い前髪に隠されて、口元しか見えない。皐は笑っている。
「だって、普通だったもんね」
「僕が生まれるまで、お父さんもお母さんも兄さんも」
「3人は普通に"家族"だったもんね?」
笑いあい、支え合い、時には喧嘩をしながらも。
時々しか会わない叔父の目から見ても、正常に機能している3人家族。
「僕の色が皆と同じなら、何の問題も無かった家族」
甥の言葉を止めてあげたいのに、声が出ない。
「ねえねえ、叔父さん」
「僕の事、恨んでるよね」
「皐が生まれてこなければ、義姉さん達は幸せだったんじゃないか。って」
恨んでなんかいない。
声に出なくても、槻木沢は必死に口だけは動かした。
──俺は恨んでなんかいない。本当だ、それだけは、信じて。
「……じゃあ、別の質問。お父さんもお母さんも兄さんも」
心の声を断ち切るように皐の言葉は続く。
「……僕の事、本当は愛しているの?」
「……」
今度こそ、無言になる。何も言えないまま。
「答えられないんだね」
答えてやりたかった。
義姉さん達にはお前が──。
「必要だと思えないから、何も言わないんでしょ?」
「ごめんね、叔父さん」
***
「あー……嫌な夢だ」
自室で目を覚ました槻木沢が、唸るように呟いた。
汗が酷い。喉が渇いている。
嫌な夢とは、どうしてこうも記憶に残るのか。
普段と変わらない甥の明るい声が、凶器のような言葉を紡いでいた。
「……恨んでないんだ」
槻木沢は、本当に恨みを抱いていない。
むしろ、恨まれるべきなのは。
自分達に都合の良い距離に、子供を放置してしまった義兄さんと義姉さんと。
当時に何も出来なかった、自分ではないか。
──僕が生まれなければ良かったって思った?
もしも、夢ではなく現実に。
皐が、生まれて来たことに罪悪感を抱いているのなら、それを否定し続けよう。
この想いが救いになるのかはわからないが。
1人でも多く、甥の生を肯定してほしかった。
「明日は、光は来るのか?」
それは問いかけではなく、確認のような言葉だ。
槻木沢は迷惑がる訳でもなく、身構えるでもなく、かといって過剰な歓迎の響きも無く。
明日の予定を確認する程度の、流れるような声だった。
「うん」
キッチンに向かう男の背中へと、肯定した羽山の声もまた同様だ。
「なら、多めに作っておくか。……あいつロールキャベツ平気か?」
「多分。嫌いって聞いたことない」
「そうか、わかった」
いつからここに黒瀬が泊まりに来ることが自然になったのか。
最初に泊まりに来たのは、羽山が高校に入学してすぐ、1週間もしない内に。
羽山の部活の無い日は殆ど遊びに来る。この家に泊らなかった月は無い。
そして、槻木沢が嫌な顔をしたことも一度も無かった。
「……」
羽山は居間のソファに黙って、叔父の背を眺めていた。
武骨な手が、キャベツを剥く。音が鳴る。きゅ、と擦れるような、瑞々しい音。
すとん、とソファから滑るように降りて、羽山は叔父へ近づいた。
「どうした」
戸棚から大鍋を取り出しながら、槻木沢は近づいた気配へと声をかける。
「……叔父さんさ」
「ん?」
「何も聞かないんだ」
言葉は随分と足りなかった。
何について、という主語の抜け落ちた問いかけ。
羽山の声は、軽かった。軽さを装って、乾燥したような声。
「なんだ、何か質問して欲しいのか?」
槻木沢の声も、軽やかだ。気負わない、風の様な声。
「別に、そんなんじゃないけど……」
聞いて欲しそうな空気を出していながら、矛盾している。
拗ねた子供のようで、何かを恐れているようで、甘えているような声だ。
「お前が何考えてるんだか知らないが、まあ、全部杞憂だ。取り越し苦労。ご苦労さんだ」
いつの間にか、叔父の料理は進んでいた。
この短い会話の合間に、ロールキャベツのタネまで作っている。
器用で、作業が早い。
そして、「何も心配するな」という、余裕のある表情。
大人に対する、嫉妬と安心が混ざり合った複雑な感情に後押しされるまま、羽山が口を開く。
「……いっつも呼んでるけど、いいの?」
誰を、とは聞かなくても、通じるだろう。
「俺の自室には入るなって約束、お前ら守ってんだから。文句ある訳ないだろうが」
現に通じていた。名前を出すことなく、お互いに意味は通じ合っていた。
「……これからも、光ちゃんを呼んでいい?」
そこで、槻木沢は調理の手を一度止めた。
向き合ってみると、随分と背の伸びた甥が其処に居る。
身体が成長して、けれども、幼い頃のような表情を前髪で隠して。
「……いいよ。何なら、あいつにいつでも来いって言っとけ」
俺が直接言ったって気にするだろうからよ、と槻木沢が笑った。
「…………ねえ、料理手伝っていい?」
僅かに俯いたままの羽山がぽつり、と呟いた。
「おう、助かる。速攻で髪縛ってこい」
「うん。……あの、叔父さん」
顔を上げた羽山は、小さな声でありがとうと言った。
:出会い:
槻木沢千尋との出会いは突然だった。
小学校の中学年になった辺り。
黒瀬がいつものように羽山と帰路につき、家に着いた時。
見知らぬ男が羽山の家の庭に立っていて、黒瀬はとても警戒した。
どうも善人には見えない人相をしていて、皐を守らなければならないと思った。
自分の後ろに羽山を隠そうとして、「あ、オジサンだ!」という、羽山の弾んだ声を聞いた。
「叔父さん!どうしたの?遊びに来たの?」
「おう、久しぶりだな。お帰り皐」
黒瀬が初対面で抱いた槻木沢への印象は、勝手な話ではあるが最悪だった。
人柄や見た目ではなく、ただ。
自分以外に、皐があんな風に駆け寄る事があるのだと。
あんな風に、嬉しそうな声を出すことがあるのだと。
あんな風に、笑いあう事があるのだと。
ただただ、黒瀬は全てに嫉妬したのだ。
2人の輪に、近づく事が出来ないまま門の辺りで立っていて──2人が黒瀬に気が付いた。
槻木沢から離れた羽山が、一番に駆け寄った。
「どうしたの光ちゃん?」
後を追うように、槻木沢が近づいた。
「……皐の友達か?」
「うん、光ちゃんだよ!」
「"光"っていうのか。俺は槻木沢千尋、皐の叔父さんだ。……これからも皐をよろしくな」
黒瀬の警戒は解けなかったし、今思えば、槻木沢にもそれは伝わっていたのだろう。
けれど、怖い顔の割には、温かい声をしていた記憶がある。
その後は、何か会話──訪れた理由だとか、皐の学校での話だとか──をしていた。
「義姉さん達は元気かと思って。用事のついでに、ちょっとな」
この時、黒瀬にはどこか、はぐらかすような、言い訳のような響きがあったように感じたが。
「皐が元気そうでよかったよ」
これだけは、何の混じり気もない言葉だと思えた。
少なくとも皐を傷つけようとする大人ではないのだと、黒瀬はそこだけは信用した。
帰る際に、槻木沢は1箱のポッキーを2人にくれた。
「仲良く食えよ、じゃあな」
からりと笑って、槻木沢は去って行った。
:呼び名:
"光ちゃん"というのは自分のあだ名だ。
皐にだけ許した呼び名。
自分の苗字も名前も好きになれなくて、その事を皐に話したらあだ名を提案されて、それからはずっと「こうちゃん」だ。
そういえば、千尋さんから呼ばれる時も「こう」だった。
確か初対面の時に、皐が「光ちゃん」呼びで紹介していたから。
もしかしたら、千尋さんは自分の本名を知らないのではないだろうか。
知っていても知らなくても、何も問題は無いのだけれど。
***
「お前の本名?知ってるよ、光一郎だろ?」
特に問題はないのだけれど、何となく気になって直接聞いてみた答えがこれだった。
「合ってる。皐に聞いた?」
「いや、昔ランドセルの名前カードが見えたから」
「……そう」
本名を知っていて、呼び方を直さなかったのは何故だろう。
直されても、困るし嫌なのだけど、疑問には思った。
「あー、もしかして嫌だったか?」
「……何が?」
「本名で呼ばないの。嫌がって無さそうだったんで、ついそのまま呼んじまってたけど」
「嫌じゃない。"こう"でいい」
千尋さんの言葉に被るように、声が出た。
少しだけ焦った、呼び方を変えられたらどうしようと思った。
嫌いなもので呼ばれたくない。
「おう、そうか?ならいい。光は"こう"だな」
どうでも良い他人に、「黒瀬光一郎」の名を呼ばれるのは構わない。あだ名で呼ばれる事も望まない。
皐が「光ちゃん」と呼んでくれるだけで、十分なのに。
どうして、千尋さんにもあだ名で呼ばれる事を望むのだろう。
自分の一番は、皐だけなのに。
:罪悪感と生きる人:
「ねえ、叔父さんはさぁ。僕が生まれなければ良かったって思った?」
ソファーに座る甥から投げかけられた言葉に、心臓が凍り付くような感覚がした。
「思ったでしょ」
長い前髪に隠されて、口元しか見えない。皐は笑っている。
「だって、普通だったもんね」
「僕が生まれるまで、お父さんもお母さんも兄さんも」
「3人は普通に"家族"だったもんね?」
笑いあい、支え合い、時には喧嘩をしながらも。
時々しか会わない叔父の目から見ても、正常に機能している3人家族。
「僕の色が皆と同じなら、何の問題も無かった家族」
甥の言葉を止めてあげたいのに、声が出ない。
「ねえねえ、叔父さん」
「僕の事、恨んでるよね」
「皐が生まれてこなければ、義姉さん達は幸せだったんじゃないか。って」
恨んでなんかいない。
声に出なくても、槻木沢は必死に口だけは動かした。
──俺は恨んでなんかいない。本当だ、それだけは、信じて。
「……じゃあ、別の質問。お父さんもお母さんも兄さんも」
心の声を断ち切るように皐の言葉は続く。
「……僕の事、本当は愛しているの?」
「……」
今度こそ、無言になる。何も言えないまま。
「答えられないんだね」
答えてやりたかった。
義姉さん達にはお前が──。
「必要だと思えないから、何も言わないんでしょ?」
「ごめんね、叔父さん」
***
「あー……嫌な夢だ」
自室で目を覚ました槻木沢が、唸るように呟いた。
汗が酷い。喉が渇いている。
嫌な夢とは、どうしてこうも記憶に残るのか。
普段と変わらない甥の明るい声が、凶器のような言葉を紡いでいた。
「……恨んでないんだ」
槻木沢は、本当に恨みを抱いていない。
むしろ、恨まれるべきなのは。
自分達に都合の良い距離に、子供を放置してしまった義兄さんと義姉さんと。
当時に何も出来なかった、自分ではないか。
──僕が生まれなければ良かったって思った?
もしも、夢ではなく現実に。
皐が、生まれて来たことに罪悪感を抱いているのなら、それを否定し続けよう。
この想いが救いになるのかはわからないが。
1人でも多く、甥の生を肯定してほしかった。