夜空に明星
小学校から帰宅した後、今日も羽山は黒瀬の家に遊びに行った。
テーブルの前に隣同士で座って、宿題を一緒にやりながら、話をする。
昼休みに呼んだ本の話、給食が美味しかった話、帰り道に咲いていた花の話。
──光ちゃんはいつも、ぜんぶ聴いてくれる。
今は、いったん話を止めて、宿題の算数のプリントを進めていた。
「……皐」
突然、黒瀬に名前を呼ばれた。
解らない問題を教えて欲しいだとか、教えてあげようだとか、そういう声音ではない。
"かっこいい声"で呼ばれた。"かっこいい声"だ。
時々聞ける、そういう黒瀬の声が羽山は好きだった。
聞くと心臓がどくどく鳴って、好きだけれど、変な感覚になる。
「な、なに?」
「……」
すぐに触れ合えるくらい近くにいた黒瀬の膝が、ずり、と少し動く。
そして。
背中から抱きしめられた。
無言のまま、普段と変わらない顔で。
「……え、えー?どうしたの光ちゃん?」
「…………皐は温かいな」
温かい?僕が?光ちゃんは寒かったのだろうかと、理由が解らないまま羽山が思った。
「えっと、僕はきっと冷たいよ。……光ちゃんの方があったかい」
羽山の体温は同年代の平均よりもずっと低い。
「……」
「……」
お互いの体温を感じながら、2人は黙ったままだった。
羽山は、何も言わない黒瀬に困りもしたが。
もう少しこのままで居たいとも思った。
「……ありがとう」
そう言って、黒瀬が羽山から離れた。
羽山の背中はすうすうと冷え、けれど身体の奥にはぽかぽかとした温みが残った。
***
***
「光ちゃんはこうするの、昔から好きだよねー」
高校生になった今でも、自室で2人きり、誰もいないときは時々、昔の様に。
黒瀬は壁にもたれて床に座り、羽山は黒瀬にもたれて背中を預ける。
そして、黒瀬に腕を回されて抱きしめられていた。
「……」
「え、覚えてない?」
「……覚えてる」
ああ、やっぱり覚えてるんだなと思う。
黒瀬も羽山も、昔の事は良く覚えている。
「ねえ、僕ってあったかいの?」
「ああ」
昔は、今に比べて会話が下手だった。今では答えが返ってくる。
子供の頃とは違って、成長している部分も確かにある。
けれど、羽山が思うことは変わらない。
「冷たいと思うんだけどなぁ。他の人より体温低いし」
羽山が自分の冷たさを自覚するのは、部活のメンバーと演技で触れ合う時、クラスメイトとふとした瞬間に触れ合う時。
「…………」
少しだけ、黒瀬の腕に力が入った。
腕が触れている部分の衣服に皺が増えて、体温が伝わる。
「光ちゃんが温かいんだと思うよ、昔から」
痛くない、苦しくない程度の力で、羽山は黒瀬に抱きしめられていた。
光ちゃんが加減しているんだろうなと、羽山は解っている。
「……俺は。……俺は、皐のしか知らない」
──今、光ちゃんはどんな顔をしているのだろう。
黒瀬は口下手だ。しかし、自分の中にはちゃんと、考えや想いという世界がある。
だがそれを唐突に、それも切り取った一部しか見せてこない。
隠している訳ではなく、切り取った一部が、たまたま解りやすいストレートだったり、たまたま解りにくいカーブだったりする。
黒瀬は羽山以外の体温を知らない。
知っていたとしても、記憶に残っていないのなら、知らないのと同じことだ。
「……ねえ、光ちゃんはさー。いま悲しい?」
「……なんだ」
「僕のしか知らないのは、哀しい?」
──かなしい、って言われたら、どうするんだろう僕。
「……かなしく無い」
「……うん、そっか。そっかあ」
羽山は黒瀬の答えを、わかりきっていた。
知らない事を、かなしくないと言った。
黒瀬は羽山以外を望んでいない。
わかった上で、あんな質問をして、口に出させることで安心した。
自分の狡さなんてのは、とっくに自覚している。
「……」
抱きしめる力を強めていたことに気が付いた黒瀬が、腕を離そうと、力を緩めた。
その腕を、羽山が捕まえる。めいっぱいの力を込めて。
「だめ。まだ」
──この腕に、温かさに、僕の痕が残ってしまえばいいのに。
「……皐」
その呼び声は、不安げに揺れていた。
羽山にしか聞かせない声だ。自分だけが知っている声。
「……痛くなかったから大丈夫」
「……」
黒瀬は僅かに息を吐く。安心したような息を。
「僕さぁ……光ちゃんにこうされるの好きだよ」
「そう、か」
「うん……あったかいし、安心するし、眠くなる」
「……寝るな」
いつものような、淡泊な黒瀬の声。
もう不安では無くなったようだ。けれど腕は離れない。
「寝ないよ、もうすぐ叔父さん帰ってくるし」
「……千尋さんが」
「多分、ご飯連れてってくれるよ。長期の仕事明けって、必ず連れて行ってくれるから」
「俺が居ることは」
「知らないけど、叔父さんなら大丈夫。……ねえ、帰っちゃう?」
「……家に、連絡しておく」
「やった」
黒瀬は傍に置いてある学生鞄を片手で引き寄せ、携帯を取り出す。
その間も、空いている片手が羽山を放すことは無い。
それがどうしようもなく、嬉しかった。
テーブルの前に隣同士で座って、宿題を一緒にやりながら、話をする。
昼休みに呼んだ本の話、給食が美味しかった話、帰り道に咲いていた花の話。
──光ちゃんはいつも、ぜんぶ聴いてくれる。
今は、いったん話を止めて、宿題の算数のプリントを進めていた。
「……皐」
突然、黒瀬に名前を呼ばれた。
解らない問題を教えて欲しいだとか、教えてあげようだとか、そういう声音ではない。
"かっこいい声"で呼ばれた。"かっこいい声"だ。
時々聞ける、そういう黒瀬の声が羽山は好きだった。
聞くと心臓がどくどく鳴って、好きだけれど、変な感覚になる。
「な、なに?」
「……」
すぐに触れ合えるくらい近くにいた黒瀬の膝が、ずり、と少し動く。
そして。
背中から抱きしめられた。
無言のまま、普段と変わらない顔で。
「……え、えー?どうしたの光ちゃん?」
「…………皐は温かいな」
温かい?僕が?光ちゃんは寒かったのだろうかと、理由が解らないまま羽山が思った。
「えっと、僕はきっと冷たいよ。……光ちゃんの方があったかい」
羽山の体温は同年代の平均よりもずっと低い。
「……」
「……」
お互いの体温を感じながら、2人は黙ったままだった。
羽山は、何も言わない黒瀬に困りもしたが。
もう少しこのままで居たいとも思った。
「……ありがとう」
そう言って、黒瀬が羽山から離れた。
羽山の背中はすうすうと冷え、けれど身体の奥にはぽかぽかとした温みが残った。
***
***
「光ちゃんはこうするの、昔から好きだよねー」
高校生になった今でも、自室で2人きり、誰もいないときは時々、昔の様に。
黒瀬は壁にもたれて床に座り、羽山は黒瀬にもたれて背中を預ける。
そして、黒瀬に腕を回されて抱きしめられていた。
「……」
「え、覚えてない?」
「……覚えてる」
ああ、やっぱり覚えてるんだなと思う。
黒瀬も羽山も、昔の事は良く覚えている。
「ねえ、僕ってあったかいの?」
「ああ」
昔は、今に比べて会話が下手だった。今では答えが返ってくる。
子供の頃とは違って、成長している部分も確かにある。
けれど、羽山が思うことは変わらない。
「冷たいと思うんだけどなぁ。他の人より体温低いし」
羽山が自分の冷たさを自覚するのは、部活のメンバーと演技で触れ合う時、クラスメイトとふとした瞬間に触れ合う時。
「…………」
少しだけ、黒瀬の腕に力が入った。
腕が触れている部分の衣服に皺が増えて、体温が伝わる。
「光ちゃんが温かいんだと思うよ、昔から」
痛くない、苦しくない程度の力で、羽山は黒瀬に抱きしめられていた。
光ちゃんが加減しているんだろうなと、羽山は解っている。
「……俺は。……俺は、皐のしか知らない」
──今、光ちゃんはどんな顔をしているのだろう。
黒瀬は口下手だ。しかし、自分の中にはちゃんと、考えや想いという世界がある。
だがそれを唐突に、それも切り取った一部しか見せてこない。
隠している訳ではなく、切り取った一部が、たまたま解りやすいストレートだったり、たまたま解りにくいカーブだったりする。
黒瀬は羽山以外の体温を知らない。
知っていたとしても、記憶に残っていないのなら、知らないのと同じことだ。
「……ねえ、光ちゃんはさー。いま悲しい?」
「……なんだ」
「僕のしか知らないのは、哀しい?」
──かなしい、って言われたら、どうするんだろう僕。
「……かなしく無い」
「……うん、そっか。そっかあ」
羽山は黒瀬の答えを、わかりきっていた。
知らない事を、かなしくないと言った。
黒瀬は羽山以外を望んでいない。
わかった上で、あんな質問をして、口に出させることで安心した。
自分の狡さなんてのは、とっくに自覚している。
「……」
抱きしめる力を強めていたことに気が付いた黒瀬が、腕を離そうと、力を緩めた。
その腕を、羽山が捕まえる。めいっぱいの力を込めて。
「だめ。まだ」
──この腕に、温かさに、僕の痕が残ってしまえばいいのに。
「……皐」
その呼び声は、不安げに揺れていた。
羽山にしか聞かせない声だ。自分だけが知っている声。
「……痛くなかったから大丈夫」
「……」
黒瀬は僅かに息を吐く。安心したような息を。
「僕さぁ……光ちゃんにこうされるの好きだよ」
「そう、か」
「うん……あったかいし、安心するし、眠くなる」
「……寝るな」
いつものような、淡泊な黒瀬の声。
もう不安では無くなったようだ。けれど腕は離れない。
「寝ないよ、もうすぐ叔父さん帰ってくるし」
「……千尋さんが」
「多分、ご飯連れてってくれるよ。長期の仕事明けって、必ず連れて行ってくれるから」
「俺が居ることは」
「知らないけど、叔父さんなら大丈夫。……ねえ、帰っちゃう?」
「……家に、連絡しておく」
「やった」
黒瀬は傍に置いてある学生鞄を片手で引き寄せ、携帯を取り出す。
その間も、空いている片手が羽山を放すことは無い。
それがどうしようもなく、嬉しかった。