このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

夜空に明星

:夜の中:

物心ついた頃から、黒瀬は家に独りで残される事が多かった。

両親が共働きだった。父と母のどちらか行ける方が、幼稚園の送り迎えをしてくれた記憶がある。

けれど、土曜日も日曜日も。祝日にだって両親は居ない。

父と母が顔を合わせている場面の記憶が薄い。

──その代わりに、声の記憶が沢山ある。

夜、自室で眠ろうとして、布団の中に居る時に聞こえてくる、怒鳴り声。

内容は理解できなかった、喧嘩する声、泣いている様な声。

黒瀬は、怖くて、怖くて、怖くて。部屋を出て止める事もできないまま、布団を頭まで被って耳をふさいで、目を閉じていた。

自分が怒鳴られている訳でもないのに、怖くて、全身に力が入って、震えて。

そうして、気が付けば家は静かになっていて、ようやく身動きが出来た。

ただじっとしていただけなのに、汗だくで疲れ切って、でも眠れなくて。

電気を点けて、起きている事を知られて、親に部屋まで来られるというも嫌だった。

だから、黒瀬はそんな時、窓辺に行った。

カーテンの隙間から、仄かに明るさが漏れていて。カーテンを開くと、星空が見えた。

黒瀬は星が好きだった。月も悪くはないのだが、星の方が好きだった。

何も出来ない自分よりも、冷たいこの家よりも、ずっと綺麗で格好良いのだから。

此処から見える光は少ないが、星は無数にあるとテレビで言っていた。

月は1つだけだが、星は無数にあるらしい。

「……そんなにあるなら、1個でいいから、俺にください」

綺麗な星を手に入れれば何かが変わる、お伽噺の幻想を、当時は本気で信じていた。

***

***

物心ついた頃から、羽山は家に独りで残される事が多かった。

両親が共働きで、少し歳の離れた兄がいて。幼稚園には行っていない。

土曜日にも日曜日にも、誰も居ない。

朝と昼のご飯だけが冷蔵庫に入っていて、食卓の上には「買い物に行ってきます」「出掛けてきます」のメモだけが置いてある。

行き先は知らない。ただ、両親も兄も居ないから。

きっと自分は「お留守番」なのだろうと、羽山は幼い心で納得するしかなかった。

成長した今は、全て理解できている。

──自分は、1人だけ家族と目と髪の色が違っていた。

原因は知らない。難しい話をされたが、そんなものに興味は無かった。

重要なのは、確実に自分は家族と血が繋がっている事。

それが判るまで、解った後も、周囲が納得できるまでの時間の中で──様々な要因で家族が傷ついた事。

だから、家族は自分を遠ざけ、反面、捨てもせずに中途半端に手元に置くのだろう。

何より一番想うのは。

きっと自分は、誰からも必要とされていない。

人生の早い段階で、気が付いた事だ。

小学校に入学した後に、友達が出来ることも無く。

周囲が攻撃してくる理由を、羽山は沢山持っていた。

小学1年生の夏休みに、引っ越しで転校することになった。

自分を助ける為ではなく、親の仕事の都合でしかなかった。

転校したところで、良くなる事なんて一つもないのだろうと、当時は思っていたけれど。


*明星*

小学1年生の頃の夏休み。

両親に夏休みというものは無く、あったとしても変わらない、一人の朝。

窓から物音が聞こえる。黒瀬の自室は2階で、音は下から響いているように聞こえた。

カーテンを開けて外を見ると、隣の空き家の前に大きなトラックが停まっている。

トラックと玄関を、慌ただしくも慎重に、人が行き来していた。

誰かが隣に引っ越してきたと、黒瀬は思った。思った事はそれだけだ。

どんな人間が引っ越してきたのだろう、良い人だったら、悪い人だったら、等の想像は浮かばない。

興味を持った事以外に、広く関心を示す事が無かった。

そんな黒瀬はよく、面白くない、つまらない奴と、同級生から言われていたけれど。

その声についても、何を想えばいいのか解らなかった。

面白くなりたいとも思わないし、態度を改めて人と仲良くなりたいとも思えなかった。

隣の家に対しても特別何も思わず、はやく宿題を終わらせようと思った。

***

夕方、空に薄らと茜色が差し込み始める頃。

母から電話があった。今日は帰りがとても遅くなるから、ご飯は一人で食べて欲しいと。

出張中の父の話題は出ない。出張中でなくても出ないのだろうけれど。

うん、と黒瀬が短く返事をして電話が切れた。

電話台の下の、小さな引き出しを開ける。

そこには千円札が数枚入っている。いつ一人にしても、良いように。

一枚だけお札を取り出して、畳んでズボンのポケットにしまった。

鞄と家の鍵を持って、戸締りをして家を出た。

近くのコンビニに行く為に、隣の家の前を通る。別に、隣家に興味は無かった。

けれど、風が偶然その方向に吹いた。

あまりにも強い風が吹き抜けて、驚いて顔を背けた。

背けた先が、隣の家だったというだけ。

その家の庭に、黒瀬と同じ歳くらいの少年が、一人立っていた。

同じように、突風に驚いたのだろう。

随分長いように見える、灰色の前髪が、風で散る。

瞬間、2人の目が合う。

黒瀬は確かに見た。驚きに見開かれた両目を──右目の色を。

赤だ。灰色の光に囲まれて、輝く赤色。蠍の心臓。

まるで、星の様で──。

自然と、足が動いていた。

怯えたように後退る少年を、逃がさないように、片手で咄嗟に腕を捕まえた。

悲鳴をあげられなかったのは幸運だろう。

黒瀬は何も考えずに、少年を追いかけて捕まえた。

衝動、としか表現できない感情。

捕まえて、どうしたかったのか考える間もなく、口をついて出た。

「……おまえ、星みたいだ」

風が吹き抜け、世界はしん、と静まり返っていた。

何を言われたのか理解しきれない少年が、おずおずと。

小さく震える声で、けれどよく通る声で「……何が?」と問いかけた。

「目が、星みたいで。綺麗で格好いい」

──初めて、そんなことを言われた。

灰色の髪で、目を隠している少年が、また口を開く。

「……色、気持ち悪くないの?」

「……?」

黒瀬は少年が何を言っているのか、よくわからない。

綺麗で格好良いと思って伝えた後に、そんな事を言われてもよく分からない。

「……僕の色が、お父さん達とちがうから」

黒瀬は少年の家族を知らないし、興味も無かった。

ただ目の前の、星のような少年にしか興味が無い。

「知らない。同じでも違っても綺麗だとおもう」

「…………」

少年は俯いて黙り込んだ。考えている事は解らない。

ただ小さく、「ありがとう」と呟いた。

そして、困ったように前髪の下で視線を彷徨わせた後、少年が口を開いた。

「……あ、あの……君の名前は」

「名前……。……光一郎」

そういえば、自己紹介すらしていなかったと黒瀬は思い出す。

「こーいちろう君……苗字は?」

「……黒瀬」

少しだけざらついたような声で苗字を伝えた。

「……僕は、羽山皐」

「……さつき」

オウム返しのように、黒瀬は少年の名前を呟いた。

大切な物を、箱にしまうような柔らかさで。

「う、うん」

「……また来てもいい?」

「……」

ただ、何も言わずに、羽山は首を縦に振った。

この日、黒瀬は星に手が届いたのだ。
3/7ページ
スキ