夜空に明星
:夜の中:
物心ついた頃から、黒瀬は家に独りで残される事が多かった。
両親が共働きだった。父と母のどちらか行ける方が、幼稚園の送り迎えをしてくれた記憶がある。
けれど、土曜日も日曜日も。祝日にだって両親は居ない。
父と母が顔を合わせている場面の記憶が薄い。
──その代わりに、声の記憶が沢山ある。
夜、自室で眠ろうとして、布団の中に居る時に聞こえてくる、怒鳴り声。
内容は理解できなかった、喧嘩する声、泣いている様な声。
黒瀬は、怖くて、怖くて、怖くて。部屋を出て止める事もできないまま、布団を頭まで被って耳をふさいで、目を閉じていた。
自分が怒鳴られている訳でもないのに、怖くて、全身に力が入って、震えて。
そうして、気が付けば家は静かになっていて、ようやく身動きが出来た。
ただじっとしていただけなのに、汗だくで疲れ切って、でも眠れなくて。
電気を点けて、起きている事を知られて、親に部屋まで来られるというも嫌だった。
だから、黒瀬はそんな時、窓辺に行った。
カーテンの隙間から、仄かに明るさが漏れていて。カーテンを開くと、星空が見えた。
黒瀬は星が好きだった。月も悪くはないのだが、星の方が好きだった。
何も出来ない自分よりも、冷たいこの家よりも、ずっと綺麗で格好良いのだから。
此処から見える光は少ないが、星は無数にあるとテレビで言っていた。
月は1つだけだが、星は無数にあるらしい。
「……そんなにあるなら、1個でいいから、俺にください」
綺麗な星を手に入れれば何かが変わる、お伽噺の幻想を、当時は本気で信じていた。
***
***
物心ついた頃から、羽山は家に独りで残される事が多かった。
両親が共働きで、少し歳の離れた兄がいて。幼稚園には行っていない。
土曜日にも日曜日にも、誰も居ない。
朝と昼のご飯だけが冷蔵庫に入っていて、食卓の上には「買い物に行ってきます」「出掛けてきます」のメモだけが置いてある。
行き先は知らない。ただ、両親も兄も居ないから。
きっと自分は「お留守番」なのだろうと、羽山は幼い心で納得するしかなかった。
成長した今は、全て理解できている。
──自分は、1人だけ家族と目と髪の色が違っていた。
原因は知らない。難しい話をされたが、そんなものに興味は無かった。
重要なのは、確実に自分は家族と血が繋がっている事。
それが判るまで、解った後も、周囲が納得できるまでの時間の中で──様々な要因で家族が傷ついた事。
だから、家族は自分を遠ざけ、反面、捨てもせずに中途半端に手元に置くのだろう。
何より一番想うのは。
きっと自分は、誰からも必要とされていない。
人生の早い段階で、気が付いた事だ。
小学校に入学した後に、友達が出来ることも無く。
周囲が攻撃してくる理由を、羽山は沢山持っていた。
小学1年生の夏休みに、引っ越しで転校することになった。
自分を助ける為ではなく、親の仕事の都合でしかなかった。
転校したところで、良くなる事なんて一つもないのだろうと、当時は思っていたけれど。
*明星*
小学1年生の頃の夏休み。
両親に夏休みというものは無く、あったとしても変わらない、一人の朝。
窓から物音が聞こえる。黒瀬の自室は2階で、音は下から響いているように聞こえた。
カーテンを開けて外を見ると、隣の空き家の前に大きなトラックが停まっている。
トラックと玄関を、慌ただしくも慎重に、人が行き来していた。
誰かが隣に引っ越してきたと、黒瀬は思った。思った事はそれだけだ。
どんな人間が引っ越してきたのだろう、良い人だったら、悪い人だったら、等の想像は浮かばない。
興味を持った事以外に、広く関心を示す事が無かった。
そんな黒瀬はよく、面白くない、つまらない奴と、同級生から言われていたけれど。
その声についても、何を想えばいいのか解らなかった。
面白くなりたいとも思わないし、態度を改めて人と仲良くなりたいとも思えなかった。
隣の家に対しても特別何も思わず、はやく宿題を終わらせようと思った。
***
夕方、空に薄らと茜色が差し込み始める頃。
母から電話があった。今日は帰りがとても遅くなるから、ご飯は一人で食べて欲しいと。
出張中の父の話題は出ない。出張中でなくても出ないのだろうけれど。
うん、と黒瀬が短く返事をして電話が切れた。
電話台の下の、小さな引き出しを開ける。
そこには千円札が数枚入っている。いつ一人にしても、良いように。
一枚だけお札を取り出して、畳んでズボンのポケットにしまった。
鞄と家の鍵を持って、戸締りをして家を出た。
近くのコンビニに行く為に、隣の家の前を通る。別に、隣家に興味は無かった。
けれど、風が偶然その方向に吹いた。
あまりにも強い風が吹き抜けて、驚いて顔を背けた。
背けた先が、隣の家だったというだけ。
その家の庭に、黒瀬と同じ歳くらいの少年が、一人立っていた。
同じように、突風に驚いたのだろう。
随分長いように見える、灰色の前髪が、風で散る。
瞬間、2人の目が合う。
黒瀬は確かに見た。驚きに見開かれた両目を──右目の色を。
赤だ。灰色の光に囲まれて、輝く赤色。蠍の心臓。
まるで、星の様で──。
自然と、足が動いていた。
怯えたように後退る少年を、逃がさないように、片手で咄嗟に腕を捕まえた。
悲鳴をあげられなかったのは幸運だろう。
黒瀬は何も考えずに、少年を追いかけて捕まえた。
衝動、としか表現できない感情。
捕まえて、どうしたかったのか考える間もなく、口をついて出た。
「……おまえ、星みたいだ」
風が吹き抜け、世界はしん、と静まり返っていた。
何を言われたのか理解しきれない少年が、おずおずと。
小さく震える声で、けれどよく通る声で「……何が?」と問いかけた。
「目が、星みたいで。綺麗で格好いい」
──初めて、そんなことを言われた。
灰色の髪で、目を隠している少年が、また口を開く。
「……色、気持ち悪くないの?」
「……?」
黒瀬は少年が何を言っているのか、よくわからない。
綺麗で格好良いと思って伝えた後に、そんな事を言われてもよく分からない。
「……僕の色が、お父さん達とちがうから」
黒瀬は少年の家族を知らないし、興味も無かった。
ただ目の前の、星のような少年にしか興味が無い。
「知らない。同じでも違っても綺麗だとおもう」
「…………」
少年は俯いて黙り込んだ。考えている事は解らない。
ただ小さく、「ありがとう」と呟いた。
そして、困ったように前髪の下で視線を彷徨わせた後、少年が口を開いた。
「……あ、あの……君の名前は」
「名前……。……光一郎」
そういえば、自己紹介すらしていなかったと黒瀬は思い出す。
「こーいちろう君……苗字は?」
「……黒瀬」
少しだけざらついたような声で苗字を伝えた。
「……僕は、羽山皐」
「……さつき」
オウム返しのように、黒瀬は少年の名前を呟いた。
大切な物を、箱にしまうような柔らかさで。
「う、うん」
「……また来てもいい?」
「……」
ただ、何も言わずに、羽山は首を縦に振った。
この日、黒瀬は星に手が届いたのだ。
物心ついた頃から、黒瀬は家に独りで残される事が多かった。
両親が共働きだった。父と母のどちらか行ける方が、幼稚園の送り迎えをしてくれた記憶がある。
けれど、土曜日も日曜日も。祝日にだって両親は居ない。
父と母が顔を合わせている場面の記憶が薄い。
──その代わりに、声の記憶が沢山ある。
夜、自室で眠ろうとして、布団の中に居る時に聞こえてくる、怒鳴り声。
内容は理解できなかった、喧嘩する声、泣いている様な声。
黒瀬は、怖くて、怖くて、怖くて。部屋を出て止める事もできないまま、布団を頭まで被って耳をふさいで、目を閉じていた。
自分が怒鳴られている訳でもないのに、怖くて、全身に力が入って、震えて。
そうして、気が付けば家は静かになっていて、ようやく身動きが出来た。
ただじっとしていただけなのに、汗だくで疲れ切って、でも眠れなくて。
電気を点けて、起きている事を知られて、親に部屋まで来られるというも嫌だった。
だから、黒瀬はそんな時、窓辺に行った。
カーテンの隙間から、仄かに明るさが漏れていて。カーテンを開くと、星空が見えた。
黒瀬は星が好きだった。月も悪くはないのだが、星の方が好きだった。
何も出来ない自分よりも、冷たいこの家よりも、ずっと綺麗で格好良いのだから。
此処から見える光は少ないが、星は無数にあるとテレビで言っていた。
月は1つだけだが、星は無数にあるらしい。
「……そんなにあるなら、1個でいいから、俺にください」
綺麗な星を手に入れれば何かが変わる、お伽噺の幻想を、当時は本気で信じていた。
***
***
物心ついた頃から、羽山は家に独りで残される事が多かった。
両親が共働きで、少し歳の離れた兄がいて。幼稚園には行っていない。
土曜日にも日曜日にも、誰も居ない。
朝と昼のご飯だけが冷蔵庫に入っていて、食卓の上には「買い物に行ってきます」「出掛けてきます」のメモだけが置いてある。
行き先は知らない。ただ、両親も兄も居ないから。
きっと自分は「お留守番」なのだろうと、羽山は幼い心で納得するしかなかった。
成長した今は、全て理解できている。
──自分は、1人だけ家族と目と髪の色が違っていた。
原因は知らない。難しい話をされたが、そんなものに興味は無かった。
重要なのは、確実に自分は家族と血が繋がっている事。
それが判るまで、解った後も、周囲が納得できるまでの時間の中で──様々な要因で家族が傷ついた事。
だから、家族は自分を遠ざけ、反面、捨てもせずに中途半端に手元に置くのだろう。
何より一番想うのは。
きっと自分は、誰からも必要とされていない。
人生の早い段階で、気が付いた事だ。
小学校に入学した後に、友達が出来ることも無く。
周囲が攻撃してくる理由を、羽山は沢山持っていた。
小学1年生の夏休みに、引っ越しで転校することになった。
自分を助ける為ではなく、親の仕事の都合でしかなかった。
転校したところで、良くなる事なんて一つもないのだろうと、当時は思っていたけれど。
*明星*
小学1年生の頃の夏休み。
両親に夏休みというものは無く、あったとしても変わらない、一人の朝。
窓から物音が聞こえる。黒瀬の自室は2階で、音は下から響いているように聞こえた。
カーテンを開けて外を見ると、隣の空き家の前に大きなトラックが停まっている。
トラックと玄関を、慌ただしくも慎重に、人が行き来していた。
誰かが隣に引っ越してきたと、黒瀬は思った。思った事はそれだけだ。
どんな人間が引っ越してきたのだろう、良い人だったら、悪い人だったら、等の想像は浮かばない。
興味を持った事以外に、広く関心を示す事が無かった。
そんな黒瀬はよく、面白くない、つまらない奴と、同級生から言われていたけれど。
その声についても、何を想えばいいのか解らなかった。
面白くなりたいとも思わないし、態度を改めて人と仲良くなりたいとも思えなかった。
隣の家に対しても特別何も思わず、はやく宿題を終わらせようと思った。
***
夕方、空に薄らと茜色が差し込み始める頃。
母から電話があった。今日は帰りがとても遅くなるから、ご飯は一人で食べて欲しいと。
出張中の父の話題は出ない。出張中でなくても出ないのだろうけれど。
うん、と黒瀬が短く返事をして電話が切れた。
電話台の下の、小さな引き出しを開ける。
そこには千円札が数枚入っている。いつ一人にしても、良いように。
一枚だけお札を取り出して、畳んでズボンのポケットにしまった。
鞄と家の鍵を持って、戸締りをして家を出た。
近くのコンビニに行く為に、隣の家の前を通る。別に、隣家に興味は無かった。
けれど、風が偶然その方向に吹いた。
あまりにも強い風が吹き抜けて、驚いて顔を背けた。
背けた先が、隣の家だったというだけ。
その家の庭に、黒瀬と同じ歳くらいの少年が、一人立っていた。
同じように、突風に驚いたのだろう。
随分長いように見える、灰色の前髪が、風で散る。
瞬間、2人の目が合う。
黒瀬は確かに見た。驚きに見開かれた両目を──右目の色を。
赤だ。灰色の光に囲まれて、輝く赤色。蠍の心臓。
まるで、星の様で──。
自然と、足が動いていた。
怯えたように後退る少年を、逃がさないように、片手で咄嗟に腕を捕まえた。
悲鳴をあげられなかったのは幸運だろう。
黒瀬は何も考えずに、少年を追いかけて捕まえた。
衝動、としか表現できない感情。
捕まえて、どうしたかったのか考える間もなく、口をついて出た。
「……おまえ、星みたいだ」
風が吹き抜け、世界はしん、と静まり返っていた。
何を言われたのか理解しきれない少年が、おずおずと。
小さく震える声で、けれどよく通る声で「……何が?」と問いかけた。
「目が、星みたいで。綺麗で格好いい」
──初めて、そんなことを言われた。
灰色の髪で、目を隠している少年が、また口を開く。
「……色、気持ち悪くないの?」
「……?」
黒瀬は少年が何を言っているのか、よくわからない。
綺麗で格好良いと思って伝えた後に、そんな事を言われてもよく分からない。
「……僕の色が、お父さん達とちがうから」
黒瀬は少年の家族を知らないし、興味も無かった。
ただ目の前の、星のような少年にしか興味が無い。
「知らない。同じでも違っても綺麗だとおもう」
「…………」
少年は俯いて黙り込んだ。考えている事は解らない。
ただ小さく、「ありがとう」と呟いた。
そして、困ったように前髪の下で視線を彷徨わせた後、少年が口を開いた。
「……あ、あの……君の名前は」
「名前……。……光一郎」
そういえば、自己紹介すらしていなかったと黒瀬は思い出す。
「こーいちろう君……苗字は?」
「……黒瀬」
少しだけざらついたような声で苗字を伝えた。
「……僕は、羽山皐」
「……さつき」
オウム返しのように、黒瀬は少年の名前を呟いた。
大切な物を、箱にしまうような柔らかさで。
「う、うん」
「……また来てもいい?」
「……」
ただ、何も言わずに、羽山は首を縦に振った。
この日、黒瀬は星に手が届いたのだ。