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雨雲の日々

鈍色の雲が空を埋め尽くしていた。

重苦しい雨が降る。

庭の地面が雨水とまじりあい、泥色の波紋がいくつも広がっていた。

その様子を、縁側の柱にもたれ掛かりながら、左雨が眺めていた。

何の感情も覗えない、熱の無い瞳で、ぼうっと。

「先生」

見かねたように、出雲が音も無く現れて、左雨の背後から声をかける。

「風邪をひきます。靴下濡れてるじゃないすか」

「……」

外側へと投げ出していた足は、確かに濡れていた。

声をかけても反応しない左雨には、出雲の表情がわからない。

「夜中までそうしてるつもりですか、先生」

「……」

「……タオルを、俺は持ってこられないんですよ」

悔しさと悲しみが、僅かに滲む声を聞いて。

「……家の中に戻るよ」

ようやく左雨は立ち上がり、振り向いた。

長い時間、縁側に座っていたのか、顔色が悪い。

「……ほうじ茶がまだ、台所の棚にありますから」

「そう、だっけ」

「ええ、着替えて……飲みましょう。身体が温まります」

「……」

左雨は、冷えた身体など、どうでも良かった。

自分の身など、どうなろうと。

──濡れた足が、床板に1人分の足跡を残して、2人は部屋の中へと戻った。

***

「なんか、死んだみたいで」

いつの事だったか、もう覚えていないが。

ある日、普段と変わらぬ様子で、左雨の家を訪れた出雲が、困ったように話していた。

出勤中に、車に轢かれて死んでしまった。

気が付いたら霊体になっていて、成仏とやらもできずにいる。

悩んだ結果、もしかすると先生なら、俺の事が視えるのではと、左雨の家に来た。

「……成仏の方法は、わからないけど」

どうにかなるまで、ここに居て良いよと、左雨が言った。

悲しさも、苦しさも。

出雲があまりに変わらぬ様子で現れるものだから、何処かへと置き去りにしてしまったようだ。

傍からみれば、不気味なほどに。日常の続きを歩くように接し合っていた。

それから、出雲の幽霊は、左雨と共にいる。

どのくらい共に──どのくらい、とは、なんだろうか。

左雨は覚えていない。

***

最近、左雨は毎日のように夢を見る。

現実と、よく似た世界に、よく似た日常、よく似た空気を、寸分違わず夢に見る。

ただ1つ違うのは。

"そこ"には、出雲修司の姿が無い。

世界のどこにも、彼が居ない。


始まりの夢は、葬儀の夢。

パイプ椅子、供花、線香の匂い、写真などが、断片的に脳裏に浮かぶ。

参列している人間を見て、ああ、彼は友人が多いのだな、家族に愛されているのだなと思って。

自分は何をしていたのだろう。

彼の家族から、何か感謝のような言葉を言われた気がする。

彼の遺体には会えたのだろうか。棺の周囲は妙にぼやけている。

生々しい夢の癖に、彼の存在が抜け落ちていた。


葬儀の夢の後。

毎日のように見る夢は、何の変哲もない日々の夢だった。

自分は、変わらない日々を過ごしている。

朝目が覚めて、物語を書いて、夜は眠る、ただ生きている夢を見る。

けれど、彼が居ない。

その夢で、左雨は独りで生きている。

夜眠る度に独りで生きて、目を覚ましては出雲修司の姿を探して、現れた姿に安心した。

ただ、触れることのできない彼は、紛れもなく幽霊なのだと、ふとした瞬間に気付かされる。

そんな日々を、左雨は繰り返した。

***

繰り返して、繰り返して、いつからか左雨は。

自分が捉えている世界が、揺らぎ始めた。

傍にいる、出雲は、彼は、本当に出雲修司の幽霊だろうか。

昔から、他人には視えないものが視えた。

周囲の人間の多くは、それを嘘だと、病気だといった。

だから、左雨は解らなかった。自分がおかしいのかどうか。

そんな自分を、事実を見て肯定してくれた人間が、出雲修司だ。

いま、自分と共にいる幽霊は、出雲本人だろうか。

彼は、幻覚なのではないか。自分の頭がおかしいだけじゃないのか。

元々、自分はおかしかったのではないか。

元々、出雲は存在しなかったのではないか。

自分が捉えている世界は、全て、間違っているのではないか。

──大丈夫だと、そう言ってくれた彼は。

もう生きていない。

***

「……先生」

背後から出雲の声が聞こえる。

左雨は座卓に突っ伏して、顔だけは窓の外へと向けていた。

雲一つない、茜色の空が、四角く切り取られている様を、ぼんやりと眺めている。

「このままだと餓死するんで、なんか食ってください」

「……」

「俺は作れないんですよ。カップ麺でもいいですから、何か」

「……食欲がない」

昨日から、左雨は水以外を口にしていない。

空腹を感じないわけではないが、何かを食べたいと思えない。

「わかってます、けれど」

「……このまま、食べなくても」

誰も、という、掠れたような左雨の声を、遮るように発せられた。

「先生、俺に悲しい思いをさせる気ですか」

その出雲の声は、平坦で、まるで脅迫のようだった。

しばらくは、出雲の方を振り向きもせずに、沈黙していた左雨だったが。

やがて、「……わかったよ」と諦めたように、立ち上がった。

その脚が僅かにふらついて、咄嗟に出雲が支えようとしたが。

「……」

幽霊である事実は、変えようがない。

支えようとした手は、すり抜けてしまった。

***

「先生。もう夜中です、寝てください」

「……」

机に向かったまま、何をするでもない左雨に声が掛かる。

「机で居眠りする気ですか?身体を痛めます」

もう幾度目の夜だろう。

左雨の顔の血色が悪い。眼の下の隈が、重度の寝不足を訴えている。

なのに、意識を失う限界まで、眠ろうとしない。

「……夢」

力の無い、か細い声だった。

「……」

「夢を、見るのは……もう嫌だ」

出雲の姿のある方を見ない左雨は、独り言のように、机に向かって話している。

「……」

「……現実は、向こう側かもしれない」

現実は、独りで生きるあの世界で。夢は、おかしなものが視えるこの世界。

先生、と、何か言葉を続けようとした出雲の声を、遮るように吐き出された。

「…………君は、本当に、修司なのかな」

音が、一瞬止まる。

聞こえるのは、時計の針の音と、風が微かに窓ガラスを揺する音。

お互いに、表情は視えない。

やがて出雲の声がゆっくりと、口を開いた。

「……俺は、柳さんとの想い出を語れますが。……きっと、アンタが納得できる証明にはならない」

「……」

「…………俺は、何もできない。それが、悔しいです」

出雲らしい解答だと、左雨は思った。

まるで、出雲が其処にいるみたいだなと。

「……寝るよ」

「柳さん」

「君は……本当に修司"みたい"だから、寝るよ」

「なんすかそれ」

出雲は、左雨の言葉を肯定的に受け取ったのか、苦笑していた。

「……悪い夢から覚めたら、俺は居ます。居れるまで、ここに居ますから」

──アンタは生きてください。

そう、出雲が言った。出雲修司の姿をした、隣にいる何かが言った。

もう左雨には、何が本当なのか、解らない。

けれど、彼が、彼の姿をした何かが生きてくれと願うのだ。

だから──いつか終わるその日まで、息を続けていなければ。
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