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雨雲の日々

少女は走る。これは1つの賭けだ。

どうしても、話がしたい人間がいる。

残された時間は恐らく短い。

手段を選んでいられない、けれど、盗むなんて悪いことはしたくない。

そんな時に、噂が聞こえてきたのだ。

普通の人間には視えないものが視える人間が居る。

嘘かもしれない、偽物かもしれない。仮に真実でも、悪い人間かもしれない。

そもそも、こんな願いを受け入れてくれるような人間が、居るのだろうか。

だが、なりふり構っていられない。僅かな可能性に、賭けるしかないのだ。


黒猫の後を追いかけて、出会ったその人間は、不思議な人だった。

少女は、その人間に願いを精一杯伝えた。

伝えられた人間は、訝しむこともなく、不安がりもせず、悩むことも無く。

──こんな男の声でも、大丈夫かな?

何てことを、首をかしげて言うだけだった。

***

休日、朝食を終えた出雲のもとに突然、携帯の着信が1通。

着信音が鳴り響く携帯を開くと、画面上には左雨柳の文字が並ぶ。

珍しい。とても珍しい。

普段、仕事の連絡すら大抵はメールで済ませるような人から、直接電話がかかるとは。

もしかして、何かあったのか。そんな予感がして通話ボタンを押す。

「もしもし、先生……?」

呼びかけても、答える声が無い。

「……もしもし?」

2度目の問いかけにも、何の反応も無い。

間違えてかけてきたのだろうか、それにしても電話が切れる気配がない。

何やらがさごそと音が聞こえてくるので、電話の向こうが無人という事はないはずだ。

もう一度、こちらから声をかけようとした。

──にゃーん。にゃあ、にゃあ。

不意打ちで聞こえてきた猫の声に、出雲は少し驚く。

左雨に関係する猫で思い浮かぶのは、1匹だけだ。

飼い猫は居ないが、野良猫が時々、家の庭に迷い込む、または通りかかる。

その中でも、遊びに来る特別な猫がいる。

左雨が出雲と再会する前に出会い、それなりに長い付き合いになるという、青緑色の目をした黒猫。

いや、黒猫の姿をしている、猫のような何か。

「……もしかして、クロか?」

にゃあ、と返事をするような鳴き声。

左雨が「クロさん」と呼んでいる黒猫(のような何か)は、人語を理解しているが、通常話すことは出来ないという。

人間を正確に理解して行動するような猫はその1匹しか、出雲は知らない。

そんな黒猫が電話で対応したのだ。

ああ、何かあったなこれはと、予感は確信に変わる。

「すぐに行きますから、待っててください」

にゃあん、とクロの声が返事をする。

のんびりとした声音からして、危険なことに巻き込まれた訳ではなさそうだ。

電話を切り、朝食に使った食器はそのままにして、自宅と車の鍵を取りに行く。

それにしても。

「……何かあったのなら、メールをくれればいいのに」

どこか抜けている先生は、その発想が出来なかったのか。

それとも。

こちらが頼りないからだろうか。

***

左雨の自宅にたどり着き、出雲は左雨に出迎えられた。

左雨は驚いたように数回、瞬きをしていたが、いつもと変わらない穏やかな様子を見て安心した。

ひとまず、怪我や身動きのとれないような、物騒な事態にはなっていないようだ。

「先生、何かありました?」

「……」

何も語らないまま、左雨が自身の喉に軽く手を当てて、首を振る。

その仕草で、出雲は察した。

先生はイタズラでそのような真似をする人間ではないのだから。

「……まさか、喋れないんですか?」

そうだよ、とでも言うように左雨は首を縦にふる。

同時に困ったような苦笑を浮かべながら何かを探す。

目当ての物を見つけたようで、ほんの少し口が動く。

恐らくは「あった」と言ったのだろうか。

電話の横に置いてあるメモ帳と黒ボールペンを手にした左雨は、新しいページに文字を書き込んだ。

『声をかした』

「……はあ」

声を貸すとは、いったいどうやって、どうして、何と。

様々な疑問が浮かんではどこかに沈み込み、また浮かび、どう声をかけて良いのか解らなくなりそうだった。

「……取りあえず、大丈夫ですか?」

疑問の浮遊感の中で、真っ先きに出たのはそんな言葉。

『大丈夫 大丈夫』

「2回も書かなくても」

『キミが心配しているようだから』

「そりゃ、するでしょう」

なにせ声が出なくなったのだ、普通は誰だって心配するだろう。

『おちついた?』

声が出なくなったというのに、左雨は特に慌てた様子も無い。

「俺、慌ててます?」

その事については、首を横に振って否定した。

『心配そうに見るから』

「……まあ、落ち着きました。大丈夫です。それで、何があったんです?」

左雨が、何かを考えるように視線を宙に彷徨わせる。

『まってて』

そう書かれたメモを渡すと、左雨はすっとその場に立ち上がる。

どうやら、足の向きからして自室に移動するらしい。

出雲は黙ってその場に留まる。

いつもなら、喋れるなら、どうして移動するのかすぐに聞くことが出来るのに。

***

左雨が自室に移動したのは、趣味の執筆用の原稿用紙を持ってくる為だった。

メモよりも沢山、文字を書けるからだろう。

居間に置いてある、ちゃぶ台の前に並んで座り、早速、左雨は原稿用紙に文字を書く。

『今日1日だけ、声を貸した』

それ以上は書かずに、左雨は出雲の顔を窺う様に見つめた。

「気にせず、詳しく話してください。待ちますから」

その言葉を聞いて、左雨は微笑んで、原稿用紙に向き直った。

──朝、目が覚めると目の前には小さな妖精の少女がいた。隣にはクロがいる。

そんな書き出しから、まるで物語を綴るように、経緯を語りだしていく。

しばらくして完成した文章を要約すると、こういうことらしい。


左雨が目覚めると、目の前には妖精とクロが居た。

お伽噺に出てくるような、薄くて透明な羽を持つ、人型に近い小さな妖精の女の子。

その妖精は口を動かして、何かを左雨に話している様子だが、声が聞こえてこなかった。

正確に言うと声はあった。ただ人間には聞こえない音なのだ。

左雨の家には、遊びに来たクロの後を追いかけて入り込んだ。

不法侵入については、首が取れそうなほど頭を下げていたので、左雨は何も咎めなかった。

クロも妖精を追い払おうとはしていなかったので、元々危険な存在としてみていない節もあったのだが。

話せない妖精と左雨は、身振り手振りから始まり、クロを通したり文章にしてみたりと、試行錯誤しながら"会話"をした。

あまり上手ではない、ガタついた文字を解読した結果、この妖精は人間の声を借りられるのだという。

声を借りれば、人間にも聞こえる音として、言葉を伝える事が出来るらしい。

──文章ではなく声で、言葉を伝えたい人がいる。

それが妖精の願いだ。

そして、その時点で左雨は声を貸すことにした。

これ以上詳しく話すには、声があった方が妖精も伝えやすいだろうから、と。

「……」

詳細を聞く前に貸してしまうのがなんとも先生らしいと、出雲は内心溜息をつきたい気分に駆られながらも、先を読み進める。

妖精は人間の世界への好奇心から、時々、人間の少女に化けて遊びにきていた。

独りで街中を散歩していたある日のこと。

とある「人間のお姉さん」を、同じ場所でよく見かけるようになった。

初めの記憶は、週に一度、街中の教会へと入っていく姿。

黒い髪を緩く三つ編みにした、色白で細身の綺麗なその人は、どこか不思議な目をしていて、何故だか妖精の印象に残った。

人間の少女の姿をした妖精は、同じ日──週に一度の礼拝日に教会を訪れるようになった。

話ができるわけでもないが、他の人間に混じって、同じ話を聞いていた。

その内、教会以外の場所でも見かけるようになった。

次の記憶は、教会の近所にある病院へと入っていく姿。

最初は、誰かの見舞いか、風邪をひいたのだろうかと考えていた。

しかし女性は毎週のように、決まった曜日に病院へと通う。

どうしたのだろうと気になった妖精は、人間の姿をやめて、こっそり女性について行った。

──病院内で女性は、難しい、妖精の知らない言葉が沢山詰まった、難しい話を医者としていた。

妖精がわかったのは、女性は今まで入退院を繰り返していて、これからは、ずっと。

最後まで入院するという事だけ。

どうすれば良いのか、妖精にはわからなかった。

直接病室を訊ねる勇気も口実も持てないまま、人間の姿で毎日、病院の入り口や中庭に訪れた。

そして、偶然か、運が味方してくれたのか。

妖精の少女は、中庭でその女性に出会う事ができた。

「ねえ、あなた……教会に来ていた子?」

女性は少女の姿を覚えていたようで、微笑んで話しかけてくれた。

その事が嬉しくて、言葉を伝えたかったのに、声は届かない。

喋ることができない少女の事を、その女性がどう思ったのかはわからないが。

「あなたさえ良ければ、いつでも遊びに来てね」

そう、優しく言葉をかけてくれた。

それからというもの、毎日のように、少女は女性のお見舞いを続けた。

中庭、食堂、病室、談話室、屋上。

行ける場所は限られる狭い空間の中で、話を聞いたり、一緒に絵を書いたりして、2人は時間を重ねていく。

重ねて、あるいは、消費して。

──あと、どれだけ共に居れるのだろう。

妖精の少女は覚悟を決めた。

せめて2人が会えるうちに──彼女と、言葉を交わしたい。

突然喋ったら、今まで喋らなかったのは何だったのかと、気分を害されるかもしれない。

それでも──それでもあなたと話がしたい。



「……大体わかりました。……先生、俺は今から酷い事を言います」

経緯はわかった。十分過ぎるほど理解した。妖精も悪い存在ではないのだと信じたい。

しかし、失礼にあたる事を承知で、出雲は左雨に対して1つだけ心配をぶつけたかった。

苦い表情の出雲に、左雨は「どうぞ」と口を動かした。

「……声を借りたままに、される心配は……」

妖精の境遇や、左雨の選択に対して、こんな懸念を抱く事が心苦しかった。

申し訳なさそうな出雲の声に、面食らったような顔をした左雨が、すぐに笑った。音は無かった。

笑ったせいか、少し震えて歪んだ字で、「大丈夫」と原稿用紙に書かれた。

「いや、大丈夫とは思うんすけど、その……」

出雲は頭ではわかっている。

前に左雨が、この家には悪いものが入ってこられないようになっていると話していた。

原理や理由は本人も詳しく知らないようだが。

「……妖精がこの家を出た後に心変わりした時は?」

あっ、というような左雨の表情。

それでも不安げな表情は無く、考えていなかったという風に苦笑している。

『盲点 けど平気 大丈夫だよ』

「……先生がそういうなら」

何が平気なのだろうという疑念や不安は拭い切れないが、本人が大丈夫と言っているのだから、大人しく受け入れよう。

それしかないし、それしか出来ない。

何より、クロが電話で騒いでいなかった。クロの態度が一番信用できる。

***

左雨の声が消えてから、数時間が経った。

今は互いに、好きなように過ごしている。

左雨はお茶を飲みながら、縁側に座り読書中。

クロは、妖精の少女について行ったらしい。

出雲は時折、左雨の背中を眺めつつ、本を読む。

──思いのほかやり辛い。

今まで気が付かなかったが、1人だけ声を出せるというのも少し困る。

意思疎通に問題は無いのだが、声と字の差は大きい。

速度も、伝え方も、伝わり方も、すべてが違う。

先生は今、話したいことは無いのだろうか。息遣いと気配だけが、空気を伝っていた。

声をかけられるのを待っているのか、いまいち解らない。

こんなことを悩むとは自分らしくないと思いつつ、出雲は迷う。

せめてこちらを向いてくれれば。

先生と呼べば、あの人は振り向くし、自分の声は届く。

それはわかっているけれど、声をかけるのを躊躇う。

似た感覚は前にもあった。どこかで、いつかに。

「ああ、学生の時」

思い出し、思わず声に出てしまった。

左雨が出雲の方へ振り返る。縁側から立ち上がり、こちらに歩いてきた。

何か口を動かしながら、出雲の隣に座る。

動きからして、「どうかした?」だろうか。

「先生が……何も言わないので、学生時代の……出会った頃のようだなと」

「ああ」というように左雨の表情が動く。

そしてなにやら探し出す、恐らく先ほどまで使っていた原稿用紙とペンを。

「原稿用紙じゃなくてもいいじゃないすか、メール画面でもパソコンでも」

「あっ」と左雨がいま思いついたという顔をした。

「……俺もいま思いついたんです。もっと早く言えばよかったですね」

左雨は音も無く、あははと笑った。

***

デスクトップ型パソコンの前に、2人で座る。

『で、何の話だっけ?』

カタカタとキーボードは音を立て、画面に文字が現れる。

紙よりは、意思疎通が若干マシになった気がした。

「学生の頃のようです」

『あああそうだったん』

ぴたりと左雨の指が止まり、バックスペースキーへと指が伸びる。

「修正しなくても、大体わかるんで良いです」

自分は編集だが、今回の誤字脱字には目をつぶろう。

「あの頃は先生に……先輩に対して、どう接すればいいのか悩んでいました」

『ごめんごめん』

左雨が文字を打ち切るタイミングで、言葉を紡ぐ。

「さっきだって、迷いました」

『どうして』

「先生が話したいのかどうか、わからないので」

『そんなことを悩むの?』

「普段は別に、悩みませんけど……ああ、そうだやっぱり」

何故自分は、戸惑っているのか。

「声が」

あまりにも答えは単純で明快で。

「先生の声が、無いので」

本人が貸したのだから、当たり前のことだけれど。

自分の声はあっても、先生の声がない。

自分の声は届いて、先生の声は返してくれる、そんな関係になれたのに。

出雲の言葉を聞いた左雨は、不思議な表情をしている。

力の抜けた、無表情に近い緩んだ表情で、ゆっくりと出雲の言葉を紐解いて、自分の中へしまっている。

カチ、カチ、とキーボードが音を立てた。

『大丈夫だと思ってる』

『声がなくても』

文字を目で追うごとに、出雲は少しだけ、身体の何処かが冷えていく感覚がした。

声が無くても大丈夫だと、この人は本気で思っているのか?そんなのは。

『君は来るから』

今度は出雲が、左雨の言葉を紐解く番だった。

これは何だろう。偶然来たと思われているのだろうか。

そうだ、朝の着信は誰からだった。

「……先生は今日、どうして俺が来たと思いますか?」

左雨は、そういえばわからない、という意味で首を振った。

あー……と出雲はため息交じりの声を出す。

「朝、先生の携帯から着信がありましたが」

『かけてないよ?』

出雲は数秒、黙り込んだ。

言葉を、自身の中で出来る限り整える。

そうしなければ、一方的に相手に送り付けてしまいそうだった。

「……その着信をとったら、クロが出たんです。本人が出ないので、何かあったのかと」

『知らなかった』

左雨は驚いていて、本当に着信については知らなかったようだ。

今日はクロが独断で、出雲へと連絡をした。恐らく左雨を一人にしないために。

どうして、まったく、この人は。

「……メールでいいんで、言ってくださいよ」

人に頼ろうとしないのだろう。

僅かに拗ねている様な出雲の声に、困ったように左雨が苦笑した。

声が出ない自分の状態を、誰かに伝えるつもりは無かった。

今日は特に人と会う用事も無く、困ったと感じなかったのだ。

少し考えて、キーボードを打った。

『声が出なくても、支障が無いから』

支障が無い、という言葉に出雲が固まる。

1日だけなら支障が出ないから、今日の事を伝えるつもりもなかった、そういうことか。

いや違う、問題は伝えてもらえなかったことじゃない。

「ありますよ。あります」

怒鳴るでもなく、声を震わせるでもない、芯の通った静かな声で、出雲がきっぱりと断言する。

「突然体調が崩れたり、事故が起きた時にどうやって助けを呼ぶんですか。もう少し自分を……ああ、今日はクロが居たのか。けど、クロに何かあった時はどうするんですか」

珍しく出雲は、相手の状態に気を遣う事をせずに言葉を捲し立てた。

左雨が、自分自身を大切にしないことは知っていた。

その性質は、彼自身のもので、周囲が手を加える事が出来ないものだと、わかっている。

それでも、出雲は自分を頼ってもらえなかった事よりも、その性質が、あまりにも。

あんまりだと思った。

「先生が信用した相手をもう疑い続けはしませんが、それでも、不慮の出来事があった時の為に、人を近くに置いておくのは悪い事じゃないでしょう」

「もし俺が仕事中だったとしても、メールで現状を知っておくだけでも違います」

「俺は超能力も魔法も何もない、ただの編集です。いつでも先生の事がわかる訳じゃありません」

「だから、先生から伝えてくださいよ。全部とは言いませんから、これくらいは──」

出雲の言葉が、一つ一つ編まれていく。

仕上がる形は、きっと不格好だ。思いつくまま必死に言葉を編んでいるのだから。

その様子を、左雨は黙って聞いていた。

──珍しい、けれど。いつもの彼だ。出雲修司はいつも、僕の心配をしてくれていた。

キーボードで何か言葉を打とうかと思ったが、左雨は手を動かさなかった。

これは、声で伝えよう。今はただ、彼の言葉と気持ちを受け取ろう。

***

しばらくして、出雲が申し訳なさそうな表情で軽く頭を下げた。

「すみません、その、先生が喋れないのに、一方的に言い過ぎました」

左雨は「いいよ」と口を動かした。伝わっているだろうか。

彼が気にする必要などなかった。むしろ、謝る言葉はこちらだって使いたい。

気にしないで、こちらこそ、心配してくれて──文字にしようとすると、上手く出てこない。

出雲の言葉に、気持ちに、咄嗟にこたえる事が出来ない。

それに気が付いた時、初めて左雨は、声が出ないことを不便だと感じた。

どうしようかと悩んでいる頭の中で、ふとイメージが浮かぶ。

中身があるようなしっかりとした会話を、思いつきはしなかった。

『白鳥の王子 人魚姫 エコーとナルキッソス』

文章でもない、単語を画面に書き連ねる。

出雲は少しだけ不思議そうな表情を浮かべ、左雨の文字から意図を汲み取ろうと考えた。

「……ああ、全部、声に関係する話ですね」

『少しだけ、会話が出来ないって気持ちがわかった気がする』

「……」

『気持ちがわかったから、妖精の少女が望むなら、最後まで声をかしてもいいと思った』

今度は、出雲が黙って左雨の話を聞いていた。聞かなくてはならないと思った。

『けれど、早く声が戻らないかなとも、思った』

カチカチと、キーボードの叩く音と、静かな呼吸の音だけが、お互いの耳に届いている。

『君と話がしたい』

とても短い言葉を画面に並べた左雨は、不器用な微笑みを見せた。

話がしたい、声が戻ってほしい、妖精の事情を知った上でのエゴだとしても。

それは、出雲が想っていた事で、左雨に想っていて欲しかった事だ。

「……俺もです。柳さんの声が聴きたい」

ほんの少しだけ、声が震えてしまう。

『もしも妖精が、最後まで声を借りたいと願ったら、僕は受け入れる』

『勝手に他人の声を盗むような行為はしなかった子だから、逃げることは無いと思う』

『その時は迷惑をかけるけど、君に助けてほしい』

不器用な微笑みのまま、左雨は出雲の手を取った。

この身勝手な、懇願と感謝が伝わりますようにと。

「……いいですよ、協力します」

いつだって、と出雲が苦笑した。

***

遠い雲の切れ間から、僅かに茜空の名残が覗く頃。

左雨と出雲は、にゃあ、と猫の鳴き声を聞いた。縁側の方からだ。

──帰って来た。

夕食途中ではあったが、どちらからともなく立ち上がり出迎えに行く。

縁側の、ガラス戸の外。

庭には黒猫と、中学生くらいの少女が立っている。

焦げ茶色の長い髪を、緩く三つ編みにして、白色のワンピースを着た少女は、目の周りを薄く腫らしていた。

カラカラと、軽い音と共に戸を開く。

少女は、朝には居なかったはずの人間に、少し戸惑っているような目をしている。

それに加えて、何から話し始めて良いのかと、言葉を探しているようにも見えた。

出雲もまた、内心は戸惑っていた。本来ならば視ることは叶わない存在に。泣いた後の瞳に。

しかし、余計な思考は必要ないのだと、戸惑いを振り払う。

今、声で伝える事が出来るのは、自分しかいないのだから。

「……お帰りなさい」

膝を折り、少女と目線の高さを合わせて、出雲が微笑む。

きっと、左雨もこう言うだろうと思った。

その出雲の対応から、今日の事情を知らされている人間だと少女は察したようだ。

「……ただいま」

おずおずと、はにかみながら少女が応えた。

控えめだが、鈴のような可愛らしい声で。

「あの、あの……本当にありがとうございました!」

少女は左雨に、だけではなく、出雲にもクロにも向けて、頭を下げてお礼を言った。

「すぐに声を返します、ご迷惑を」

「ええと、ちょっとだけ、待ってくれるかな」

急いで声を返そうとする妖精の少女を、出雲が止めた。

誰にも悟られないほど静かな深呼吸をして告げる。

「……君が望むなら、最後まで声を貸していてもいいと、この人は思っているよ」

出来うる限り、声には何の色も付けなかった。

妖精と自身のエゴ、どちらにも傾く事が無いように。

冷たくも、温かくも無い声音で、出雲は少女に、左雨の気持ちを伝えた。

「……」

少女は、泣きだす寸前のような、苦しいものを抱えた表情をして。

「……ありがとう、でも、約束通りに返します」

それでも真っ直ぐに、出雲達を見据えて応えた。


茜の名残が消えて、空が深い紺色へと陰る。

出雲が隣に目を向けると、左雨はほんの少しだけ寂しそうな眼をしていた。

「お姉さんには全部……たくさん話をしました。私は私のままで、お姉さんと一緒に居ます」

「……君がしたかったことは、ちゃんと出来た?」

「はい……」

少女と女性の間でどのような会話をしたのか、無理に聞き出すつもりもない。

ただ、妖精の少女が決断した事実が、全てなのかもしれない。

同行していた黒猫は、じっと少女を見つめるだけで、鳴き声の一つもあげなかった。

少女が左雨の前に立つ。目線を合わせるように、左雨も膝を折る。

「声を返す前に……これ、今日のお礼です」

少女はトートバッグの中から、細い花束を取り出した。

紫色をした、薄い花びらが風に揺れる。

「お姉さんが、持って行って良いって。話をさせてくれて、ありがとうって」

左雨の瞳が僅かに揺れて、花束へ手を伸ばす。

スイートピーの花束を微笑みながら受け取り、「ありがとう」と音の無い声を発した。

ぴたりと優しく、少女の掌が左雨の喉元に触れる。

「……本当に、ありがとうございました」

──優しい人間さん達。

じわりと、掌から体温が伝わり、喉元から手が離れた。

「あっ……」

吐息に近い、微かな声が聞こえる。

それは確かに、左雨の声だった。

「先生、声が……」

「うん、戻った」

出雲はどこか張りつめていた神経が、緩むような感覚がした。

左雨は軽く出雲に微笑みかけて、それから妖精の少女に向き直る。

「……花を、ありがとう。とっても嬉しいよ」

少女の声は、もう聞こえない。こくこくと頷いて、言葉を受け取っているのだと意思を示している。

「……もし、困ったことがあれば……いや、あっても無くても。気が向いたら、遊びにおいで」

そう、左雨が言葉を伝えると、妖精が音もなく泣きだしてしまった。

ぽろぽろと零れる涙に、左雨と出雲が2人揃って驚いた。

「えっ、泣いて、ああっごめん」

「何してるんすか」

「泣かせるつもりは。な、泣かない泣かない」

どうぞ、と横から出雲がハンカチを差し出して、妖精の涙を優しく拭う。

左雨は少女の頭を撫でて「笑うのがいいよ、うん」と妙な慰め方をしている。

「どんな慰め方ですか」「だって……」と、あたふたと少女に向き合う2人を横目に、黒猫が呆れたように鳴いた。


やがて泣き止んだ少女は、首が取れそうなほど頭を下げた。謝っているのか感謝しているのか。両方かもしれない。

最後に、口を動かして何かを言った。音は無く、それが聞こえたのはクロだけだ。

見送りのつもりなのか、クロも少女と共に帰るようだ。

笑いながら2人に手を振り、妖精の少女とクロは、左雨の家から去って行った。

***

見えなくなるまで振り返していた手を降ろして、左雨と出雲が向き合う。

「君と話がしたい」

話したいことが、伝えたいことが、沢山ある。

「俺もです……が、まずは」

「夕飯の続き、かな」

「ええ、温め直しですね流石に」

苦笑しあいながら、2人は家の中へと戻っていく。

「……ねえ、修司」

珍しく、名前を呼ばれたことに驚いた出雲が、瞬きをして左雨を見つめた。

「ありがとう、居てくれて」

照れたように微笑む左雨の対して、何を伝えようか、伝えたいのか。

中々言葉が見つからなかったが、時間はまだある。

これから、言葉を重ねていけばいいのだろう。

取りあえずは、「どういたしまして」と返して、それから夕飯の続きを食べて。

──思う存分、2人で話をしよう。
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