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雨雲の日々

「ねえ、お酒、要らないかな?」

ほんの少し困り笑顔の左雨が、棚から瓶を取り出しながら、出雲へ問いかける。

変わった形。ヴァイオリンのミニチュアのような、装飾の凝った瓶の中には茶色い液体が入っている。

これはどうしたことだろう、飲めない先生から酒が出てくるとは。

「貰いもの、ですか?」

「うん。今朝、祖父母のご友人が来てね──」

左雨が祖父母から受け継いだこの家に、久しぶりに挨拶に来た。

祖父と祖母の死後も、独りで暮らしている左雨を何かと気にかけてくれていた老夫婦だった。

この辺りで用事があり、折角だから顔を出したという彼らは、野菜や日持ちする菓子類などを手土産に持ってきてくれた。

その土産の中の1つに酒があった。左雨が酒を飲めない事は知らなかったようだ。

「断るのも悪いから貰ったんだけど……あまり飲めないから」

「そういう事なら。ありがとうございます」

酒は好きだ。出雲は人並みに飲めるし、飲み方の加減も上手い。

瓶を受け取り、ラベルを読む。

これはブランデーだ。それも、結構高価な。

贈り物に対して値段の話をするのは無粋だろうと思い、出雲は特に言及しなかった。

左雨から紙袋を貰い、瓶をしまう。

「……君、ここでは飲んで行かないよね」

「飲酒運転になるので」

「いや、泊まっていく時も」

「ああ……。先生は飲まないじゃないですか」

左雨が飲めないのに、一人だけ酒を飲むのはどうかと出雲は思う。

「気にしなくていいのに」

遠慮しなくても、この家でだって飲んでもいいと言うと、出雲は苦い笑みを浮かべる。

「あー……先生は覚えていないかもしれませんが、前に。一緒に飲みました」

「えっ。記憶にございません」

驚いて、素っ頓狂な声を出す。全く覚えていない。

いつ?と聞くと、再会したての頃に、との答え。

酒に弱いとは知らなかった頃、出雲はワインを持ってきた事がある。

その時に左雨は飲める酒は甘酒だけだと説明したし、出雲も飲酒を強制するような人間ではない。

「でしょうね……。コップ1杯飲み切らない内に、凄く酔っ払いましたから」

当時、何が悪かったかと言えば、左雨の好奇心が悪かったのだ。

酔った時の感覚を過去に掴むことができなかったから、今度は経験したい、そんな軽い気持ちだった。

迷惑をかける、かけられる事を互いに了承したうえで、加減に気を付けてワインを飲んだ。

しかし、加減もむなしく、案の定、記憶を失くすほど酔っぱらった。

「そっか、そうだったのか。ごめんね、何か嫌な事をした?暴れたり、泣いたり」

「……暴力も無ければ泣きもしませんでしたよ。寝落ちただけです」

少しばかり真相を隠して、出雲が苦笑する。

寝落ちたのは本当だ、寝床に運ぶのに苦労した。

隠したのは、左雨は酔うと、どうもスキンシップが過剰になるという事だ。

普段、あまり人に触れることがないから余計に感じるだけかもしれないが。

ぴったりと隙間なく隣に座ってはふわりと笑い、その内、幼い子供の様に抱き着いてくる。

終いには、人の膝を枕にして寝入ってしまった。

翌日、左雨は何事もなかったかのように起きてきた為、出雲は何も語れないまま今に至る。

誰とでも酒を飲む人でなくて良かったと心底思う。

「なら、君だけ飲んだっていいんだよ。ほら、何かあった時は僕が対応できるし」

君が飲み過ぎる姿は、想像できないけどねと左雨が微笑む。

「一人酒も、まあ好みではありますが。……誰かを置いていく酒は好みじゃないので」

ふふ、と小さな笑い声。

「どうしました?」

「ちょっとね、いや、君らしいなぁと思って。一緒に飲めないのが勿体ない」

左雨の穏やかな目には、惜しむ気持ちが含まれていた。

「そんなに飲みたいんすか?少し意外です」

「君だからかな。君となら飲みたいんだろうね、僕は」

時々さらりと凄い台詞を吐いては、自分を特別扱いしてくるのだ、この人は。

出雲はそういう時、編集という仕事に就いていながら、上手く言葉を並べられなくなる。

照れればいいのか、彼の交友関係を心配すればいいのか、下戸を憐れめばいいのか。

それとも、左雨の特別扱いに、自惚れ、喜びの心に正直になればいいのか。

数秒の内に、悩み迷って。

「……そうだ、香りづけ程度に酒を入れた飲み物はどうですか?」

左雨が望んだ形とは違っているが、それでも出雲は、惜しむ気持ちに少しだけでも応えたいと思った。

「作れるの?」

「1つだけ」

「……君は何でも出来るなぁ」

感心と尊敬と、ほんの少しの羨望を混ぜたような左雨の声は、飲んでみたいと肯定する空気を連れていた。

流石に、何でも出来るというのは誇張表現が過ぎると、出雲は苦笑した。

「1つだけですよ。材料は大丈夫だと思いますが……冷蔵庫、漁りますね」

「うん、どうぞ」

***

ボウルの側面で、卵の殻を叩くと、コンコンと高い音が鳴る。

ヒビが入った卵を、出雲は片手で割っていく。

殻の欠片1つ混入していない、白身と黄身を見て、左雨が凄いと呟く。

「昔から知っていたけど、器用だね。難しそうなのに」

「慣れれば、そんなでも無いですよ」

「僕は最近まで、両手で割っても殻が混じってたよ」

「卵料理、上達しました?」

「……炒り卵ならそれなりに」

談笑しながら、2つの卵を手早くボウルに割り入れて、「甘さはどうします?」と左雨に聞いた。

「うーん……君の好みで」

「控えめになりますけど、いいですか」

「いいよ、君の好みを飲みたいから」

「……まあ、後からでも砂糖は増やせますんで。足りなければそれで」

ボウルに砂糖を追加して、泡だて器でよく混ぜる──という作業は、左雨がやってみたいというので、出雲が任せた。

カシャカシャと、ボウルの底と泡だて器が擦れ合う音を立てながら、材料を混ぜていく。

その間に、出雲は片手鍋に牛乳を入れておいた。

「混ぜ終わったら、鍋の方にお願いします」

「……このくらいで大丈夫?」

「ええ、大丈夫です」

泡立てた卵と砂糖、そして牛乳を手鍋で合わせて弱火にかける。

泡だて器で優しくかき混ぜながら、沸騰させないように気を付けて温めていく。

「ミルクセーキ?」

ここまで作って、思い当たった飲み物の名を呟いた。

「ここで終わらせればそうです。ミルクセーキにラム酒やブランデーを入れるとエッグ・ノックになります」

ただし諸説があり、酒を入れなくてもエッグ・ノックと呼ばれることもあると付け加える。

「知らなかった。君はどこで知ったの?」

「学生の頃、よく行ってた喫茶店の店長が教えてくれて。解説ついでに飲ませて貰ったミルクセーキが、美味かったんです」

出雲は、その事がきっかけで、時々手作りするようになったのだと語る。

「夜にエッグ・ノックを出していたとか。学生だったんで、飲めず終いで引っ越しましたけどね」

ほわりと手鍋から湯気がたち、コンロの火を止めた。

最後に、譲られたブランデーをティースプーン1杯程度、鍋の中へ落とす。

卵酒みたいだと、左雨は思いつつ、マグカップを2つ用意する。

「できました、ミルクセーキ…と、エッグ・ノック…の中間です」

どちらとも言えない仕上がりを、2人で笑い合いながら。

***

マグカップを手のひらで包むと、じんわりとした温みが伝わる。

火傷をしないくらいの温かさが、体温に溶けていく。

「いただきます」

「どうぞ」

飲みやすい温度を1口、啜る。

薄い卵色に染まったミルクに、優しい甘さが溶け込んでいた。

ブランデーの強さは無く、ほんのりとした香りを感じる。

「……美味しい」

「ありがとうございます。……砂糖、足りてます?」

「うん、十分」

甘さの余韻に、ゆったりと浸りながら、時間が流れる。

「ねえ、君は……友人とお酒を飲む?」

ぽつりと呟くような、左雨から質問だ。

「まあ、そうですね、たまには」

「その時は、どんな感じ?」

質問の意図が掴めないと、出雲が首を傾げた。

「ええと、君が誰かとお酒を飲む時の、雰囲気だとか、気分だとか、何でもいいんだけど。知りたくて」

「いいですけど、なんでですか?」

「自分が知らない感覚は、言葉にしにくいからね」

ああ、なるほど、小説へ生かすためのインプットが欲しいのかと納得する。

「俺の主観でしか話せませんが……」

出雲が語る。

相手は、友人や、職場の同僚や上司。自宅で本や映画を相手に、一人で飲むこともある。

多人数で騒がしい事もあれば、1対1で静かな事もある。

正直に言えば、気心の知れた相手と飲むことが好きだ。

泥酔するまで飲んだことは無いので、酷く酔っぱらう感覚は解らない。

聴き手の左雨の相槌は、楽しげで、少し、羨ましそうでもあった。

「なんというか……雰囲気を、飲むんです」

「雰囲気?」

「楽しいだとか、しんどいだとか……相手への、ちょっとした共感を、酒に混ぜあって飲むんです」

そういうのが好きだから、人を置いていく酒は好みではないんです。

「へえ……ふふ。いいね、それ」

「……あくまでも、主観で自論ですよ」

「うん、君の素敵な言葉だ」

薄らと、頬が赤くなっているのは。

ミルクセーキで身体が温まったのか、僅かなエッグ・ノックが効いているのか。

それとも、中間と言葉を、雰囲気を2人で飲んでいるからだろうか。

「……今度、使ってもいい?」

「えっ、小説にですよね?」

「……駄目かな」

「いい、ですけど」

打ち合わせで、仕事としての意見が採用されることは多々あるが。

プライベートの場で採用されるのは、未だに動揺してしまう。

「……丁度良く酔う感覚ってこういうのかな」

ふわりと、左雨が笑った。

まさか、ティースプーン1杯のブランデーで酔ったのか。

いや、場酔いのようなものも入っているのかもしれない。

「……水いりますか?」

「いや……この感覚を覚えていたいから、いい」

左雨は何かをかみしめるように、伏し目がちに微笑んで、残りのミルクセーキを飲み込んだ。

そして、顔を上げて、出雲の目を見て、悪戯っぽく微笑んだ。

「ねえ、ティースプーン1杯でも、飲酒運転になるよね」

だから、今日は泊まっていけばいい、そういう事だろう。

ああ、先生は酔うとスキンシップが過剰に──いいや。

素直に、他人に甘えるようになるのだった。

「……はいはい。俺は帰りません」

呆れ半分に笑いながら、出雲はマグカップを片付けた。

──帰りませんから、今日のことを覚えていてくださいね。

せっかく2人で、飲んだのだから。
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