雨雲の日々
:栞:
「……まだ使ってたの、それ?」
地面の小石につまずいたように、左雨が言った。
目線は出雲が読んでいた文庫本──ではなく、挟まっていた栞に向かっている。
左雨の言う「まだ」がどのくらいの期間を示しているのか、出雲はすぐに気が付く。
「先生からの唯一の誕生日プレゼントですから」
それは、水色の紐が結わえてある木製の栞だった。
左雨と同じ文芸部に所属していた高校時代、言葉の通り唯一もらった誕生日プレゼントだ。
当時は、互いに誕生日すら知らないまま高校生活を送っていた。
左雨が出雲の誕生日を知ったのは、自身の卒業が間近で、相手の誕生日も過ぎた後だ。
「もしかして、ずっと?」
「まあ、はい」
卒業式の日に、もう誕生日は過ぎているけれどと、左雨が出雲に渡した栞。
左雨が卒業した後も、自身が大学に入学し卒業した後も、就職した後も。
現在こうして担当編集として再会した後も、出雲はその栞を使い続けていた。
それほど、これが嬉しかったのだ。
栞そのもの、そして左雨の行為が忘れられないほどに。
「嬉しかったんで。すごく」
「……君は変な後輩だね」
複雑な色を浮かべたその言葉に、出雲は思わず笑ってしまいそうになる。
呆れと、明らかに照れの入ったその声は、今ではよく顔を合わせているのに懐かしく感じた。
「先輩と同じですよ。変なのは」
今度はこちらから何かを贈ろうと、出雲は思う。
高校時代、誕生日すら教えてくれなかった先輩に。
学生時代に出来なかったことも、今の自分達になら出来るはずだからと。
***
出雲が自宅に帰った後。
左雨は自身が贈った、懐かしい栞を思い出していた。
あの栞は、高校の卒業式で、最後だと思っていたから渡したのだ。
左雨は、もう出雲と会うことは無いのだろうと思っていた。
自分は大学に通うために、実家を出て、隣の県の祖父母の家に住む。
携帯電話も持っていない頃で、離れてしまえば会うことも無いのだろうと。
会おうと思えば、不可能ではない。だが、友人の居ない左雨にはその感覚が解らなかった。
だから最後に。
出雲へ、遅れてしまった祝福と感謝と、この先も、彼の未来が明るい物であるようにと願いを込めて、栞を渡したのだった。
「……でも、最後じゃなかったなぁ」
いつも気だるげな黒い目で、真っ直ぐにこちらを見つめて。
卒業式の日、出雲はこう言った。
──俺は必ず編集の仕事に就いて、先輩に追いつきますから!
今思うと、なんて青い言葉だろう。
出雲が仕事に就く頃には、左雨は小説家になっているという前提から出た言葉だ。
自分は小説家になりたいと、言葉に出した事は無かったはずなのに。
秘めた夢は、とっくに彼にばれていて、信じていると言われたのだ。
若さに任せた、力強い言葉だった。
青い青い、春のような彼の言葉に対して、自分は枯れているような返しをした。
──小説を仕事になんて、してないかもよ。
自分がその道で、待っている保証なんてないのだと。
しかし出雲は、まったく怯むことは無く、真っ直ぐに別れの挨拶を告げたのだ。
再会の約束付きで。
結局、左雨には物語を書く以外の道は選べなかった。いや、選ぶ気が無かった。
そのことに、高校当時の出雲は気が付いていたのかもしれない。
そして現在。
担当編集として再開が叶うとは、左雨は思っていなかった。
出雲の方は、再会は信じていたが、担当としての再会が叶うとは思っていなかったそうだ。
誕生日も教え合わなかったような間柄で、よくもまあ、今の関係があるものだ。
「……約束、か」
夢に対しても、再会に対しても。
信じていたかと言えば、言い切れないが。
好物のどら焼き1個程度、左雨は出雲の約束を信じていた。
:傘:
左雨の持っている傘は昔から、透明なビニール傘だった。
何処にでも売っていて、いつでも安く買えてしまうような傘。
そして、その傘を時々失くす。雨の日、特に大雨の日に。
出雲は理由を知っている。
雨の日に外出した時には、何かに傘を譲ってしまうからだ。
左雨にしか視えない"何か"に。
譲る瞬間を過去に一度、見たことがある。
何もない空中で、傘の輪郭が溶けるようにぼやけていき、消えた瞬間を。
傘を渡す行為に対して、出雲はかける言葉に悩む。
左雨は毎回のように渡している訳ではないし、時々やむを得ずに渡しているだけだ。
視えない人間が、やめてくださいとは、言えなかった。
そこに居る存在を無視してください、なんてことを、言えなかった。
***
今日は、朝から雨が降っていた。
ポツポツという小雨から、夕方にかけて強まった雨が止む気配はない。
仕事を終えて出社した出雲が、持ち歩いている折り畳み傘をさしながら、左雨の自宅への道を歩く。
靴の底が、地面を濡らす雨水を、僅かにはね上げる。
水たまりに絶え間なく、波紋が広がっている。
雨の音以外は、車の走る音、人の声、足音。
無音になる瞬間がないまま、それでも、静かだと出雲は感じる。
こういう雨の日が、嫌いではない。
嫌いではないが、好んで望むこともなくなった。
原因は、自身が担当している作家先生にある。
それもこれも、傘を渡してしまうたびに、先生が雨に濡れるからだ。
そう、ちょうど、あんな風に──。
「…………先生?」
前方、道の先には見慣れた後ろ姿があった。
癖のある、少しぼさついた栗毛に小柄な体躯。
朝から今まで雨だったというのに、傘を差さずに濡れて歩くような人間は、多くないだろう。
「柳さん!」
ぱしゃ、ぱしゃと、地面を濡らす雨水を、靴底が跳ね上げる。
出雲は小走りに目の前の人物に近づいて、持っていた傘を差し出した。
「びっ、くりした……君かぁ」
名前を呼ばれた驚きのままに振り向いた左雨が、名を呼んだ人物が出雲だと知り、安堵の息を吐きだした。
「驚いたのはこっちです……傘、何かに渡したんですか」
「うーん……今回は、貸したんだ。晴れたら返しに来るって」
律儀な子達だよねと、左雨は何でもないような顔で、いつものようにへらりと出雲へ笑いかける。
それが、なんだか。
「先生のそういう所、あれです。腹立たしいというか、悲しいと言うか」
「隠さないあたりが君らしいよね。今日は一応、傘を2本持って行ったんだけど」
「……そうすか」
左雨の対応の方向性は、どこかずれていて、言ってやりたいことは沢山あったが、半分くらいは飲み込んだ。
「兄妹っぽかったなぁ。雨で道が複雑になって、迷っていたようだから」
2人では狭すぎる傘の下。左雨が、出雲が視えない世界の話をする。
それは、いくらでも聞きたい話だった。
けれど、雨に濡れ、冷えた身体で語る姿は、出雲の好みではない。
「その話は、後で聞きますよ。帰ったらまず風呂にでも入ってください。着替え、適当に出しときますから」
「……ごめんね。ありがとう」
目を逸らさず、眉を下げて困ったように、左雨は笑う。
自宅まで、まだ距離がある。
出雲の持つ傘が、自分の方に傾けられているのに気が付いた左雨が、そっと傘の持ち手を相手側へと押した。
「君が濡れるのは嫌だなぁ」
「……その、微妙に自分を大事にしない所、どうにかなりませんか」
「努力はしてみるよ」
「まあ、そう言うと思いました。はい、どーぞ」
緑色のビニール袋を渡された。
中を覗くと、縦長で四角い、薄灰色の布製のケースで覆われた何かが入っている。
「これは?」
「誕生日にはちょっと早いですけど、今からでも使ってください」
本当は、この傘を贈る為に左雨の家へ向かっていたのだが、順番が早まった。
布製のケースから中身を取り出して、左雨が正体に気が付いた。
「あっ、折り畳み傘だったんだ」
傘を開くと、薄灰色が雨を遮り、細かく布を叩く音が増えた。
出雲と左雨の傘が、隣同士に並び、2人は帰路を歩く。
「これなら、あんたは他に譲らないでしょう」
左雨はいまいち自分自身を大切には出来ないが、その他は大切にする。
贈り物だろうが構わず他に渡してしまうような行為はしない。
「あ、そうか。折り畳み傘を持てばいいのか」
左雨は、やっと気が付いた、盲点だったという声をあげた。
変な所が抜けている気質は昔から変わらない。
「抜けているというか……いや、自分で折り畳み傘を買っても、先生なら他に渡すかもしれないです」
「あはは……そうかもね」
「だから、俺からあげます。鞄にでも入れっぱにしておいてください。普段はビニ傘を持って、先生の好きにしてください」
「……ありがとう」
少し俯いて、左雨が礼を言う。
2人揃って、不器用で、何処かずれていて。
「……大事にするから」
しかし、想う気持ちだけは真っ直ぐだった。
空には暗い雲が広がり、雨が止む気配は無い。
この先の道も、薄灰色の傘が彼を守ることを、出雲は願った。
「……まだ使ってたの、それ?」
地面の小石につまずいたように、左雨が言った。
目線は出雲が読んでいた文庫本──ではなく、挟まっていた栞に向かっている。
左雨の言う「まだ」がどのくらいの期間を示しているのか、出雲はすぐに気が付く。
「先生からの唯一の誕生日プレゼントですから」
それは、水色の紐が結わえてある木製の栞だった。
左雨と同じ文芸部に所属していた高校時代、言葉の通り唯一もらった誕生日プレゼントだ。
当時は、互いに誕生日すら知らないまま高校生活を送っていた。
左雨が出雲の誕生日を知ったのは、自身の卒業が間近で、相手の誕生日も過ぎた後だ。
「もしかして、ずっと?」
「まあ、はい」
卒業式の日に、もう誕生日は過ぎているけれどと、左雨が出雲に渡した栞。
左雨が卒業した後も、自身が大学に入学し卒業した後も、就職した後も。
現在こうして担当編集として再会した後も、出雲はその栞を使い続けていた。
それほど、これが嬉しかったのだ。
栞そのもの、そして左雨の行為が忘れられないほどに。
「嬉しかったんで。すごく」
「……君は変な後輩だね」
複雑な色を浮かべたその言葉に、出雲は思わず笑ってしまいそうになる。
呆れと、明らかに照れの入ったその声は、今ではよく顔を合わせているのに懐かしく感じた。
「先輩と同じですよ。変なのは」
今度はこちらから何かを贈ろうと、出雲は思う。
高校時代、誕生日すら教えてくれなかった先輩に。
学生時代に出来なかったことも、今の自分達になら出来るはずだからと。
***
出雲が自宅に帰った後。
左雨は自身が贈った、懐かしい栞を思い出していた。
あの栞は、高校の卒業式で、最後だと思っていたから渡したのだ。
左雨は、もう出雲と会うことは無いのだろうと思っていた。
自分は大学に通うために、実家を出て、隣の県の祖父母の家に住む。
携帯電話も持っていない頃で、離れてしまえば会うことも無いのだろうと。
会おうと思えば、不可能ではない。だが、友人の居ない左雨にはその感覚が解らなかった。
だから最後に。
出雲へ、遅れてしまった祝福と感謝と、この先も、彼の未来が明るい物であるようにと願いを込めて、栞を渡したのだった。
「……でも、最後じゃなかったなぁ」
いつも気だるげな黒い目で、真っ直ぐにこちらを見つめて。
卒業式の日、出雲はこう言った。
──俺は必ず編集の仕事に就いて、先輩に追いつきますから!
今思うと、なんて青い言葉だろう。
出雲が仕事に就く頃には、左雨は小説家になっているという前提から出た言葉だ。
自分は小説家になりたいと、言葉に出した事は無かったはずなのに。
秘めた夢は、とっくに彼にばれていて、信じていると言われたのだ。
若さに任せた、力強い言葉だった。
青い青い、春のような彼の言葉に対して、自分は枯れているような返しをした。
──小説を仕事になんて、してないかもよ。
自分がその道で、待っている保証なんてないのだと。
しかし出雲は、まったく怯むことは無く、真っ直ぐに別れの挨拶を告げたのだ。
再会の約束付きで。
結局、左雨には物語を書く以外の道は選べなかった。いや、選ぶ気が無かった。
そのことに、高校当時の出雲は気が付いていたのかもしれない。
そして現在。
担当編集として再開が叶うとは、左雨は思っていなかった。
出雲の方は、再会は信じていたが、担当としての再会が叶うとは思っていなかったそうだ。
誕生日も教え合わなかったような間柄で、よくもまあ、今の関係があるものだ。
「……約束、か」
夢に対しても、再会に対しても。
信じていたかと言えば、言い切れないが。
好物のどら焼き1個程度、左雨は出雲の約束を信じていた。
:傘:
左雨の持っている傘は昔から、透明なビニール傘だった。
何処にでも売っていて、いつでも安く買えてしまうような傘。
そして、その傘を時々失くす。雨の日、特に大雨の日に。
出雲は理由を知っている。
雨の日に外出した時には、何かに傘を譲ってしまうからだ。
左雨にしか視えない"何か"に。
譲る瞬間を過去に一度、見たことがある。
何もない空中で、傘の輪郭が溶けるようにぼやけていき、消えた瞬間を。
傘を渡す行為に対して、出雲はかける言葉に悩む。
左雨は毎回のように渡している訳ではないし、時々やむを得ずに渡しているだけだ。
視えない人間が、やめてくださいとは、言えなかった。
そこに居る存在を無視してください、なんてことを、言えなかった。
***
今日は、朝から雨が降っていた。
ポツポツという小雨から、夕方にかけて強まった雨が止む気配はない。
仕事を終えて出社した出雲が、持ち歩いている折り畳み傘をさしながら、左雨の自宅への道を歩く。
靴の底が、地面を濡らす雨水を、僅かにはね上げる。
水たまりに絶え間なく、波紋が広がっている。
雨の音以外は、車の走る音、人の声、足音。
無音になる瞬間がないまま、それでも、静かだと出雲は感じる。
こういう雨の日が、嫌いではない。
嫌いではないが、好んで望むこともなくなった。
原因は、自身が担当している作家先生にある。
それもこれも、傘を渡してしまうたびに、先生が雨に濡れるからだ。
そう、ちょうど、あんな風に──。
「…………先生?」
前方、道の先には見慣れた後ろ姿があった。
癖のある、少しぼさついた栗毛に小柄な体躯。
朝から今まで雨だったというのに、傘を差さずに濡れて歩くような人間は、多くないだろう。
「柳さん!」
ぱしゃ、ぱしゃと、地面を濡らす雨水を、靴底が跳ね上げる。
出雲は小走りに目の前の人物に近づいて、持っていた傘を差し出した。
「びっ、くりした……君かぁ」
名前を呼ばれた驚きのままに振り向いた左雨が、名を呼んだ人物が出雲だと知り、安堵の息を吐きだした。
「驚いたのはこっちです……傘、何かに渡したんですか」
「うーん……今回は、貸したんだ。晴れたら返しに来るって」
律儀な子達だよねと、左雨は何でもないような顔で、いつものようにへらりと出雲へ笑いかける。
それが、なんだか。
「先生のそういう所、あれです。腹立たしいというか、悲しいと言うか」
「隠さないあたりが君らしいよね。今日は一応、傘を2本持って行ったんだけど」
「……そうすか」
左雨の対応の方向性は、どこかずれていて、言ってやりたいことは沢山あったが、半分くらいは飲み込んだ。
「兄妹っぽかったなぁ。雨で道が複雑になって、迷っていたようだから」
2人では狭すぎる傘の下。左雨が、出雲が視えない世界の話をする。
それは、いくらでも聞きたい話だった。
けれど、雨に濡れ、冷えた身体で語る姿は、出雲の好みではない。
「その話は、後で聞きますよ。帰ったらまず風呂にでも入ってください。着替え、適当に出しときますから」
「……ごめんね。ありがとう」
目を逸らさず、眉を下げて困ったように、左雨は笑う。
自宅まで、まだ距離がある。
出雲の持つ傘が、自分の方に傾けられているのに気が付いた左雨が、そっと傘の持ち手を相手側へと押した。
「君が濡れるのは嫌だなぁ」
「……その、微妙に自分を大事にしない所、どうにかなりませんか」
「努力はしてみるよ」
「まあ、そう言うと思いました。はい、どーぞ」
緑色のビニール袋を渡された。
中を覗くと、縦長で四角い、薄灰色の布製のケースで覆われた何かが入っている。
「これは?」
「誕生日にはちょっと早いですけど、今からでも使ってください」
本当は、この傘を贈る為に左雨の家へ向かっていたのだが、順番が早まった。
布製のケースから中身を取り出して、左雨が正体に気が付いた。
「あっ、折り畳み傘だったんだ」
傘を開くと、薄灰色が雨を遮り、細かく布を叩く音が増えた。
出雲と左雨の傘が、隣同士に並び、2人は帰路を歩く。
「これなら、あんたは他に譲らないでしょう」
左雨はいまいち自分自身を大切には出来ないが、その他は大切にする。
贈り物だろうが構わず他に渡してしまうような行為はしない。
「あ、そうか。折り畳み傘を持てばいいのか」
左雨は、やっと気が付いた、盲点だったという声をあげた。
変な所が抜けている気質は昔から変わらない。
「抜けているというか……いや、自分で折り畳み傘を買っても、先生なら他に渡すかもしれないです」
「あはは……そうかもね」
「だから、俺からあげます。鞄にでも入れっぱにしておいてください。普段はビニ傘を持って、先生の好きにしてください」
「……ありがとう」
少し俯いて、左雨が礼を言う。
2人揃って、不器用で、何処かずれていて。
「……大事にするから」
しかし、想う気持ちだけは真っ直ぐだった。
空には暗い雲が広がり、雨が止む気配は無い。
この先の道も、薄灰色の傘が彼を守ることを、出雲は願った。