このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

雨雲の日々

:栞:

「……まだ使ってたの、それ?」

地面の小石につまずいたように、左雨が言った。

目線は出雲が読んでいた文庫本──ではなく、挟まっていた栞に向かっている。

左雨の言う「まだ」がどのくらいの期間を示しているのか、出雲はすぐに気が付く。

「先生からの唯一の誕生日プレゼントですから」

それは、水色の紐が結わえてある木製の栞だった。

左雨と同じ文芸部に所属していた高校時代、言葉の通り唯一もらった誕生日プレゼントだ。

当時は、互いに誕生日すら知らないまま高校生活を送っていた。

左雨が出雲の誕生日を知ったのは、自身の卒業が間近で、相手の誕生日も過ぎた後だ。

「もしかして、ずっと?」

「まあ、はい」

卒業式の日に、もう誕生日は過ぎているけれどと、左雨が出雲に渡した栞。

左雨が卒業した後も、自身が大学に入学し卒業した後も、就職した後も。

現在こうして担当編集として再会した後も、出雲はその栞を使い続けていた。

それほど、これが嬉しかったのだ。

栞そのもの、そして左雨の行為が忘れられないほどに。

「嬉しかったんで。すごく」

「……君は変な後輩だね」

複雑な色を浮かべたその言葉に、出雲は思わず笑ってしまいそうになる。

呆れと、明らかに照れの入ったその声は、今ではよく顔を合わせているのに懐かしく感じた。

「先輩と同じですよ。変なのは」

今度はこちらから何かを贈ろうと、出雲は思う。

高校時代、誕生日すら教えてくれなかった先輩に。

学生時代に出来なかったことも、今の自分達になら出来るはずだからと。

***

出雲が自宅に帰った後。

左雨は自身が贈った、懐かしい栞を思い出していた。

あの栞は、高校の卒業式で、最後だと思っていたから渡したのだ。

左雨は、もう出雲と会うことは無いのだろうと思っていた。

自分は大学に通うために、実家を出て、隣の県の祖父母の家に住む。

携帯電話も持っていない頃で、離れてしまえば会うことも無いのだろうと。

会おうと思えば、不可能ではない。だが、友人の居ない左雨にはその感覚が解らなかった。

だから最後に。

出雲へ、遅れてしまった祝福と感謝と、この先も、彼の未来が明るい物であるようにと願いを込めて、栞を渡したのだった。

「……でも、最後じゃなかったなぁ」

いつも気だるげな黒い目で、真っ直ぐにこちらを見つめて。

卒業式の日、出雲はこう言った。

──俺は必ず編集の仕事に就いて、先輩に追いつきますから!

今思うと、なんて青い言葉だろう。

出雲が仕事に就く頃には、左雨は小説家になっているという前提から出た言葉だ。

自分は小説家になりたいと、言葉に出した事は無かったはずなのに。

秘めた夢は、とっくに彼にばれていて、信じていると言われたのだ。

若さに任せた、力強い言葉だった。

青い青い、春のような彼の言葉に対して、自分は枯れているような返しをした。

──小説を仕事になんて、してないかもよ。

自分がその道で、待っている保証なんてないのだと。

しかし出雲は、まったく怯むことは無く、真っ直ぐに別れの挨拶を告げたのだ。

再会の約束付きで。

結局、左雨には物語を書く以外の道は選べなかった。いや、選ぶ気が無かった。

そのことに、高校当時の出雲は気が付いていたのかもしれない。

そして現在。

担当編集として再開が叶うとは、左雨は思っていなかった。

出雲の方は、再会は信じていたが、担当としての再会が叶うとは思っていなかったそうだ。

誕生日も教え合わなかったような間柄で、よくもまあ、今の関係があるものだ。

「……約束、か」

夢に対しても、再会に対しても。

信じていたかと言えば、言い切れないが。

好物のどら焼き1個程度、左雨は出雲の約束を信じていた。


:傘:

左雨の持っている傘は昔から、透明なビニール傘だった。

何処にでも売っていて、いつでも安く買えてしまうような傘。

そして、その傘を時々失くす。雨の日、特に大雨の日に。

出雲は理由を知っている。

雨の日に外出した時には、何かに傘を譲ってしまうからだ。

左雨にしか視えない"何か"に。

譲る瞬間を過去に一度、見たことがある。

何もない空中で、傘の輪郭が溶けるようにぼやけていき、消えた瞬間を。

傘を渡す行為に対して、出雲はかける言葉に悩む。

左雨は毎回のように渡している訳ではないし、時々やむを得ずに渡しているだけだ。

視えない人間が、やめてくださいとは、言えなかった。

そこに居る存在を無視してください、なんてことを、言えなかった。

***

今日は、朝から雨が降っていた。

ポツポツという小雨から、夕方にかけて強まった雨が止む気配はない。

仕事を終えて出社した出雲が、持ち歩いている折り畳み傘をさしながら、左雨の自宅への道を歩く。

靴の底が、地面を濡らす雨水を、僅かにはね上げる。

水たまりに絶え間なく、波紋が広がっている。

雨の音以外は、車の走る音、人の声、足音。

無音になる瞬間がないまま、それでも、静かだと出雲は感じる。

こういう雨の日が、嫌いではない。

嫌いではないが、好んで望むこともなくなった。

原因は、自身が担当している作家先生にある。

それもこれも、傘を渡してしまうたびに、先生が雨に濡れるからだ。

そう、ちょうど、あんな風に──。

「…………先生?」

前方、道の先には見慣れた後ろ姿があった。

癖のある、少しぼさついた栗毛に小柄な体躯。

朝から今まで雨だったというのに、傘を差さずに濡れて歩くような人間は、多くないだろう。

「柳さん!」

ぱしゃ、ぱしゃと、地面を濡らす雨水を、靴底が跳ね上げる。

出雲は小走りに目の前の人物に近づいて、持っていた傘を差し出した。

「びっ、くりした……君かぁ」

名前を呼ばれた驚きのままに振り向いた左雨が、名を呼んだ人物が出雲だと知り、安堵の息を吐きだした。

「驚いたのはこっちです……傘、何かに渡したんですか」

「うーん……今回は、貸したんだ。晴れたら返しに来るって」

律儀な子達だよねと、左雨は何でもないような顔で、いつものようにへらりと出雲へ笑いかける。

それが、なんだか。

「先生のそういう所、あれです。腹立たしいというか、悲しいと言うか」

「隠さないあたりが君らしいよね。今日は一応、傘を2本持って行ったんだけど」

「……そうすか」

左雨の対応の方向性は、どこかずれていて、言ってやりたいことは沢山あったが、半分くらいは飲み込んだ。

「兄妹っぽかったなぁ。雨で道が複雑になって、迷っていたようだから」

2人では狭すぎる傘の下。左雨が、出雲が視えない世界の話をする。

それは、いくらでも聞きたい話だった。

けれど、雨に濡れ、冷えた身体で語る姿は、出雲の好みではない。

「その話は、後で聞きますよ。帰ったらまず風呂にでも入ってください。着替え、適当に出しときますから」

「……ごめんね。ありがとう」

目を逸らさず、眉を下げて困ったように、左雨は笑う。

自宅まで、まだ距離がある。

出雲の持つ傘が、自分の方に傾けられているのに気が付いた左雨が、そっと傘の持ち手を相手側へと押した。

「君が濡れるのは嫌だなぁ」

「……その、微妙に自分を大事にしない所、どうにかなりませんか」

「努力はしてみるよ」

「まあ、そう言うと思いました。はい、どーぞ」

緑色のビニール袋を渡された。

中を覗くと、縦長で四角い、薄灰色の布製のケースで覆われた何かが入っている。

「これは?」

「誕生日にはちょっと早いですけど、今からでも使ってください」

本当は、この傘を贈る為に左雨の家へ向かっていたのだが、順番が早まった。

布製のケースから中身を取り出して、左雨が正体に気が付いた。

「あっ、折り畳み傘だったんだ」

傘を開くと、薄灰色が雨を遮り、細かく布を叩く音が増えた。

出雲と左雨の傘が、隣同士に並び、2人は帰路を歩く。

「これなら、あんたは他に譲らないでしょう」

左雨はいまいち自分自身を大切には出来ないが、その他は大切にする。

贈り物だろうが構わず他に渡してしまうような行為はしない。

「あ、そうか。折り畳み傘を持てばいいのか」

左雨は、やっと気が付いた、盲点だったという声をあげた。

変な所が抜けている気質は昔から変わらない。

「抜けているというか……いや、自分で折り畳み傘を買っても、先生なら他に渡すかもしれないです」

「あはは……そうかもね」

「だから、俺からあげます。鞄にでも入れっぱにしておいてください。普段はビニ傘を持って、先生の好きにしてください」

「……ありがとう」

少し俯いて、左雨が礼を言う。

2人揃って、不器用で、何処かずれていて。

「……大事にするから」

しかし、想う気持ちだけは真っ直ぐだった。

空には暗い雲が広がり、雨が止む気配は無い。

この先の道も、薄灰色の傘が彼を守ることを、出雲は願った。
5/20ページ
スキ